四、

第20話

 臨時ではあるが、店はしばらく私が店主を務めることになった。心配だった常連客の反応は皆一様に「斎木さんのことは心配だけど、澪子ちゃんに任せられてほっとしてるんじゃない?」だったから、悪くはないだろう。仕事は元々速い方だし、曼荼羅のような大きな仕事も今は抱えていない。叔母の仕事を抱えても、目一杯かけつぎできるのが楽しいくらいで作業に問題はなかった。

 とはいえ、経理関係は本当に苦手だ。私は一応個人事業主で青色申告しているが、よく分からなくて家事按分すらしていない。当然、店の経理なんて全く分からない。

「私が店長代理になって受けてる今の仕事は、業務委託扱いになるの? 店内で働いてるのに」

 作業場の座卓に広げた帳簿は店のものと、私のものだ。働き方の変わった先月からの処理をどうすればいいのか分からなくて、瀕死になっていた。

「おばさんと業務委託契約を結んでるわけだから、全ての仕事を業務委託されたと考えればいいんだよ。店長代理として仕事が増えた分に関しても、追加業務として委託されたことにすればいい。いわゆる雇われ店長ってやつだよ」

 向かいに腰を下ろした泰生は、涙目になっている私に的確なアドバイスを与える。叔母の様子を見に三連休を利用してきてくれたのを、思わず引っ掴まえてしまった。

「そっか。じゃあ、叔母さんは先月の十三日に倒れたから、十四日から? 今月分からはまるごと支給でいいけど、十月分は日割りだよね」

「まあ支給額を決めて、日割りにした方が今後の扱いも楽になるね」

「店長業務って、いくらが妥当? 一万?」

「それはさすがに安すぎるでしょ。かけつぎと違ってバックマージンないんだし」

 ああ、そうか。普段の仕事は十五パーセントを渡しているが、店長業務にはものがない。

「二くらいもらっといてもいいと思うよ」

「二万? こんなへっぽこで経理もできないのに?」

 自宅で仕事を請け負う前にも管理組合に申請したりとややこしい手続きはあったが、やはり店という箱物があるかないかで随分違う。

「澪ちゃんも一応、店長でしょ」

「まあそうだけど、私は家で仕事できるようにしたかっただけだからね。規則正しい生活は難しそうだったから」

 電話一本で突然出て行くことはもちろん、昼間に帰ってくることもある。合わせるには、私の働き方を変えるしかなかった。

「離婚の話は進んでる?」

「ううん。そもそも、帰って来ないし」

 叔母が倒れたあの日から、真志とは顔を合わせていない。きっと別宅には帰っているのだろう。一人でいたい期間だ。あれから、メッセージを送っても返信はない。

「おばさん、自分の体のことより心配してたよ。『私に何かあったら澪子をよろしくね』って」

「またそんな気弱なこと言って」

 数日前に終えたばかりの手術で、ひとまず摘出できる病巣は全て切除された。もうほかに転移はないと、今は信じるしかない状態だ。

 私は店の営業時間を一時間短縮して、毎日叔母のところへ通っている。手を握ってずっと祈っていると、体が楽になり手術の痛みも収まるらしい。不思議そうな叔母に打ち明けるつもりはないが、私の力のせいだろう。今はなんとなく、お祓いを頼みに行った寺の住職に叱責された理由も分かる気がする。それでも、生き方を変えるつもりはなかった。

「……よし、じゃあひとまずこれでいいかな。無事に書けたよ、ありがとう。すごいね、経理までできるなんて」

「一通りは頭に入れておいた方が仕事が楽になるからね」

 余裕の笑みを浮かべる泰生に感心して、帳簿を閉じる。思い切り懐事情がバレてしまったが、致し方ない。それでも今年は、先月曼荼羅を納品したから最大瞬間風速が出た。来年の税金が怖い。あの住職が、また大きな仕事をくれないだろうか。

「お茶入れるよ。コーヒーと紅茶、どっちがいい? どっちもインスタントだけど」

 腰を上げつつ尋ねた私に、泰生は頷く。

「あの紅茶、まだある? 粉末で甘いレモンティーの」

「あるよ。叔母さんの大好物だから」

 私が淹れる時はティーバッグだが、叔母一人だと常にそれだ。手軽でおいしいのはいいが、カロリーが高い。座り仕事でずっと飲み続けていれば、太ってしまうのは仕方ないだろう。

 台所へ向かい、食器棚からマグカップと紅茶の袋を取り出す。以前は缶だったが、いつからか袋になっていた。でも味はずっと変わらない。

「ここ入るの、久しぶりだな。天井、こんなに低かったっけ」

「ほんとだ。泰生くん、大きくなったね」

 台所はなぜか作業場より少し天井が低いから、成人男性が入るだけで圧迫感を抱く。

「もう三十五だよ。大きくなるピークはとっくに過ぎて、緩やかに衰え始めてる」

「確かにね。若い頃は夜遅くまで作業するほど針が乗って、気づいたら朝なんてしょっちゅうあった。でも今はもう、徹夜したら次の日がきつい」

 電子ケトルに水を入れながら、隣を見上げる。叔母は私より低いから、全く違う。

「俺ももう、徹夜はだめだな。翌日にある会議の資料を一晩で一気に頭に入れるのができなくなって不便だ」

「それは、私は最初から無理だね。座ってする勉強、昔から苦手だもん」

「保健室のカーテン、かけつぎしてたもんね。先生が感動してた」

「あったねえ」

 呼び起こされた思い出に笑い、ケトルのスイッチを入れた。

――好きなこととそれができる力が両方あるのは、本当にすごいことだよ。かけつぎがしたいことなら、これからも諦めずに続けたらいいと思う。

 普通の子供にしようとする大人が多い中で、保健室の先生は数少ない理解者だった。私が保健室なら登校できたのも、先生がいてくれたからだった。

「澪ちゃんは、小さい時も『かけつぎのひとになる』だったし、卒業文集も『夢はかけつぎの職人です』だった。ずっと一貫してたよね」

「そうだね。でも泰生くんも『ロボットつくるひと』だったから、そう遠くはないんじゃないの?」

「ま、機械の設計をしてるとこは一緒かな」

 マグカップに紅茶の粉末を入れながら、ふと真志はどうだったのだろうと思い出す。刑事になったのが伯父への贖罪なら、自分の夢はどこへいったのか。

「ロボットを作る人になって澪ちゃんと結婚して幸せに暮らすのが、あの頃の夢だった。厳密に言えば、一個も叶ってないね」

 今の暮らしは、幸せでは……まあ、そうか。泰生には私にとっての叔母のような救いもいないのかもしれない。近くに心を許せる相手がいないのは、つらいだろう。あのまま一緒に育っていたら。考えても仕方のない「たられば」を思い浮かべて、溜め息をつく。

「澪ちゃんは暁子ちゃんと違って、胸をえぐってくるような言葉は投げないけど」

 黙って二人分の準備を終えた私に、泰生は苦笑で見下ろす。

「優しいから、全部顔に出るんだよ」

 また、何か喋ったのか。頬を押さえた私を、覆い被さるように隣の腕が抱き締める。驚いて引いた体を抱え込むようにして、力を込めた。

「ごめん。ちょっとだけ、甘えさせて」

 切実に響く声に何も返せず、黙って腕の中に収まる。

「俺も、あのままずっと一緒にいたかったよ」

 苦しげな願いに目を閉じ、狭い台所に響く湯の沸き立つ音を聞いた。


 疲れが限界まで溜まると本能が働くと聞いたことがあるが、それは真実かもしれない。

 捜査の疲れと障りで限界を迎えたらしい真志が目をギラつかせながら店に現れたのは、泰生が店を出て十分もしない頃だった。

「仙羽か」

 洗い終えた二つのマグカップを目敏く見つけ、真志は台所から戻ってくる。

「叔母さんの様子を見がてら、私がうまく店を回せてるか顔を出してくれたの。帳簿関係が分からなかったから、助かったよ」

 目の前にどさりと座り込んだ背に、作業の手を止めてルーペを外す。確かに障りは溜まっているが、ここ最近では長持ちした方だ。あのミサンガに一定の効果があったと見ていいだろう。

 背に触れてしばらく、いつものように障りが消える。

「いいんじゃないかな、消えたよ」

「悪いな、助かった」

 消えた障りに声を掛けると、真志は向き直りながら解放された首や肩を回した。

「おばさんは、その後どうだ」

「とりあえず、癌は全部取りきったみたいだけどね。あとはもう転移してないことを祈るのみだよ」

 そうか、と答えて眼鏡を外し、眉間を揉む。でもやっぱり、人相の悪さは直っていなかった。目つきが悪すぎる。

「ちょっと来て、あまりにも目つきが悪すぎる」

 膝を叩くと真志は鼻で笑い、ごろりと枕にした。目の上に手を重ねてそっと置き、叔母の時と同じように祈る。少し冷えた肌が、私の熱でゆっくりと解れていくのが分かった。

「寝てもいいか」

「仕事は?」

「今日は終わりで明日は非番」

「そっか。じゃあどうぞ、寝たら適当に転がして仕事するから」

 非番なんて言葉、久しぶりに聞いた。私にそれを言うのだから、明日は家にいる都合なのだろう。私も、明日明後日は久しぶりの休みを取った。休まないと、叔母に叱られるから仕方ない。

「澪子」

「何?」

 欠伸交じりの声に尋ね返したあと、少しの間が空く。寝てしまったのか。

「ついててやれなくて、悪かった」

 やがて聞こえた眠たげな声に、思わず手が揺れる。うん、と掠れた返事は届いたかどうか、聞こえ始めた穏やかな寝息に肩で大きく息をした。

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