第19話

 救急外来に着くやいなや、叔母は違う担架に載せ替えられて運ばれていった。私は一旦待合室に腰を落ち着け、思い出して泰生にメールを打つ。今晩の約束は、とてもではないが守れそうにない。すぐ届いた返信に打ち返した時、カルテを手にした看護師が現れる。背負っている障りを見ないようにしながら、叔母本人に代わって状況を説明した。

 それから十分ほどで姿を現した泰生は、どうしても震えてしまう私の手を握り締めて話を聞き終える。叔母はまだ検査中で病名は定かではないが、あの感じからして脳だろう。間に合ったことを祈るしかない。

「ごめんね、仕事中なのに」

「大丈夫だよ。叔母さんは俺にとっても大事な人だし、澪ちゃんの心細さも分かるから」

 痛みを宥める優しい笑みで、泰生は私を労る。不安で落ち着かない胸が少しずつ安堵を取り戻していくのが分かった。

「ありがとう、来てくれて良かった。しっかりしないとって思ってても、やっぱり不安で。このままあと、何時間待たされるのかも分からないし」

 はっきり聞くのは怖いが、このままの状態も苦しい。せめて可能性でも聞けたらいいのに、と処置室へ視線を向けた前を数人のスーツが横切り、一人が足を止めた。

「お前なんで、あっ、ちょっ、泣くな!」

 視線が合った途端堰を切ったように溢れ出した涙に、真志は明らかに慌てる。急いで顔を覆った向こうで、誰かに詫びる声が聞こえた。

 で、と反対隣にどさりと座る音がする。

「何があった」

 不機嫌そうな声に手の内から濡れた顔を上げ、胸を収めるために洟を啜る。

「泣いてて話せないので、私が」

「うるせえ、黙ってろ」

 反対から口を挟んだ泰生の心遣いを一蹴し、真志は脚を組んだ。あまりの柄の悪さに思わず涙が引っ込み、胸が正常を取り戻す。

「……おばさんが、急に針がつまみにくい、右目が見えづらいって言い出したの。いやな予感がして救急相談に電話したら、すぐ救急車を送ってくれた。救急車を待つ間に、改めてほかに病気がないか聞いたら……隠してたの。癌だって」

 やっぱり、悪いところがあったのだ。だからあんなことを言ったのに、深く追求しないまま流してしまった。あの時もっと突っ込んで聞いて、連れて来ていれば。

「今はまだ、検査中か」

「うん。とりあえず運び込んだ方の症状を中心に検査するって。まだ何も教えてもらえないけど、あの感じは脳じゃないかな」

 そうか、と短く答えたあと、真志は長い息を吐く。

「悪い、今はどうしても無理だ」

「大丈夫だよ、分かってる。だから連絡もしなかったの」

 こうなるのが分かっていたから、傷つかないように先回りをした。真志はポケットから携帯を取り出して確かめ、舌打ちをする。

「ごめんね、引き止めて。人を待たせてるんでしょ、もう行って」

 促した私に、腰を上げた。

「メッセージは読めるから送れ」

「分かった」

 落とした視界から、少しずつ真志が消えていく。分かっている、いつものことだ。ただ目に見える分、いつもより少しつらいだけで。

「大丈夫だよ、澪ちゃん。俺がずっと傍にいるから」

 あんな悪態にも負けず、泰生の声は相変わらず優しい。もう震えなくなった手を、滑らかな手が包むように握った。

 不意に揺れ始めた携帯を空いた手で確かめつつ、それとなく握られた手を引き抜く。

 『指一本触らせるな』

 窺った通路の奥に去って行く見慣れた背を確かめて、溜め息をついた。


 医師の診断によると叔母の症状は脳梗塞、進行収まらない癌の影響らしかった。もちろん即入院で、これからは手術を含めた総合的な治療を行うことになる。

 さすがに伝えないわけにはいかない状況を、久しぶりの電話で父に伝えた。

――あとのことは、こちらで対応する。お前はちゃんと自分の家庭を守りなさい。

 まさか二年前から離婚するしないで揉めているなど知らない父は、いつもの調子で真志のことだけ心配をした。

 一旦店に戻って心配する近所の人達に対応し、気もそぞろに仕事を終えたあと、今日は一人だと分かっている家へ帰った。

 しんと静まり返った部屋のダイニングテーブルに着き、誰もいない向かいを眺める。

「……もしいるなら、出てきて。覚えてることだけでいいから、教えて欲しいの」

 呼び掛けた声は、少し掠れていた。自分から呼び出そうとするなんて、疲れているのだろう。でも今は、どうしても聞いてみたいことがあった。

「『わたしといっしょ』なのは、今も同じなのかな。あなたもこんな風に、一番傍にいて欲しい夜に一人だった? あなたも、その度に後悔した?」

 溢れ出す涙を抑えきれず、しゃくりあげる。

 別に、燃え上がるような恋ではなかった。ただ少しずつ滲むように気持ちが深い方へと進んでいって、今はもうどうしていいのか分からない場所にいる。見上げてももう、光が見えない。

 ふと揺らぎ始めた空気に、洟を啜りながら視線を上げる。今日はちゃんと首から下も繋がっているように見えるし、顔も。優しい造作はどこにも、殴られた痕は見えなかった。

 呼び掛けようとした私に、女性は寂しげな笑みを浮かべる。

「早く、見つけて」

「あなたの遺体を? どこにあるの?」

 慌てて聞き返したが、女性は頭を緩く横に振って消えていく。

「違うってこと? それとも、分からないの?」

 続けてももう答えはなく、部屋はまた私だけになった。

 乗り出していた体を落ち着けて、溜め息をつく。今回は「早く見つけて」だが、以前は「早く捕まえて、殺して」だった。

 単純に考えれば、「自分を殺した犯人を捕まえて、自分の遺体を見つけて」になるだろう。妙な一致を見せる死に方をした三人もしくは四人の共通点を探れば、答えは出るはずだ。誰が、彼女を殺したのか。

「あ、名前聞くの忘れた」

 聞くことに集中しすぎて、大事なことを忘れていた。大体いつも詰めが甘い。顔を覆い深々と溜め息をついた時、ユキエ、と背後で声がした。

 思わず振り向いたが、もう姿はない。

「ユキエさんね、ありがとう。何ができるのか分からないけど、あなたの苦しみが少しでも和らぐように、私にできることをするよ」

 苦しみの中で一方的に奪われた命を、このままにはしておけない。普通の人にない力を持って産まれた理由は分からないが、私にしかできないことはまだあるはずだ。

 少しだけ気力を取り戻した胸を押さえ、携帯を取り出す。

 真志に、叔母の病状と今後は実家が引き継ぐこと、亡くなった女性の名前がユキエであることを綴って送る。

 どうか、無事に帰ってきますように。

 十年間、送り出す朝に帰って来ない夜に繰り返す祈りだ。無事であればそれだけでいいはずなのに、欲は尽きない。諦めて腰を上げた時、携帯が短い音を鳴らす。

 『分かった メシ食って寝ろ』

 返信に、携帯を握り締めて長い息を吐く。ひとまず、カップ麺を啜ることにした。

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