第18話

 ぼんやりと目を覚まし、常夜灯が朧に照らす隣の寝顔を確かめる。

 油断していたら、眠っている間に持ち帰られてしまった。

 起こさないよう腕から抜け出してベッドを下り、脂臭いブラウスを羽織ってクローゼットを開く。気を抜くと笑う膝をさすり、パジャマ用のワンピースと下着を掴んでバスルームへ向かった。

 早く、離婚しないと。

 温めのシャワーを浴びつつ、長い息を吐く。先月からずっと拒み続けていたから、諦めたと思っていた。もし調停になってしまった時、夫婦生活があったと真志が証言すれば、関係を修復できると判断されてしまうのではないだろうか。

 職場の話も仕事の話も、これまで聞かせなかった話をするようになったのは考えあってのことだろう。私が情に絆されるのを狙っているような気がする。

 もちろんそれでこれまで満たされなかったものが満たされるなら、時間は掛かっても問題は消えていくだろう。でも元々相性の合わない二人で、私は刑事の妻に向かない女だ。私の心が裏切られる痛みを忘れる前に、元に戻るのは分かっている。元の鞘に収まって、後悔するのは私だけだ。傷つくのも。

 湯の滴る髪を掻き上げ、曇った鏡を拭う。背後の顔と目が合って、勢いよく振り向いた。背にした鏡がひやりと冷たい。相変わらず輪郭すらはっきりしない、首から上だけの顔だ。誰が、こんな酷い目に合わせたのか。

「何か少しでも、覚えていることはない? 名前は?」

「な、まえ……」

 これまでと違う反応に、体を起こす。少しは、気持ちが届いたのか。

「そう、名前。あなたの名前は? あなたを助けるために必要なの。名前を教えて」

 肌をざわつかせるものを宥めつつ、言い聞かせるように繰り返す。なまえ、とまた腫れた口が小さく繰り返す。その時、背後で扉が勢いよく開いた。

 霊は、振り向くことなく溶けるように消えた。

「大丈夫か」

「大丈夫だよ。もうちょっとで、名前を聞き出せるとこだったけど」

 溜め息をついて、再びシャワーを出す。寒さで粟立った肌を温めていると、真志が内側で扉を閉めた。項垂れた私を抱き締める腕は、今の私より温かい。

「帰ったかと思ったんだよ」

「服脱ぎっぱなしだったでしょ」

「見てねえ」

 力を込める腕に諦めの息を吐き、一塊になったままシャワーを浴びた。


 あの霊と対話ができそうなのはここしかないのだから、致し方ない。

「たまに来るよ。あの霊がちゃんと出てきてくれるのは、ここだけみたいだし」

 冷凍庫に残っていた食パンにバターを塗りつつ、苦渋の決断を伝える。

「いつ出てくるのか分からねえんだろ? 効率悪いじゃねえか、帰って来いよ」

「来ません。もういいから、早く食べて仕事行って」

 拒否した私を鼻で笑い、真志はコーヒーを啜った。

 叔母には真志と食事に行くと伝えていたから、店にいなければ察してはくれるだろう。でも三十五にもなって察されるのはつらい。叔母が来る前に行かなくては。

「今日、例の事故起こしたメーカーに連絡してみる。あと、釜茹で事件の方も概要だけは掴めたわ。四年前にじいさんが釜茹でになって一緒に住んでた息子が捕まったけど、証拠不十分で釈放されて未解決扱いになってる。こっちも今日、管轄に連絡してみるわ」

 突然切り出された捜査の進捗に、食パンをかじりながら向かいに視線をやる。

「旦那が刑事のおかげで調査が捗るぞ。結婚しといて良かったな」

 ここぞとばかりに恩を売る真志に苦笑した。滅多にない機会だが、こんなことがしょっちゅうあるならその方が困る。

「結果が聞きたかったら、今日も帰って来い」

「電話でいいじゃない」

「だめだ。顔を見て話す」

 続いた条件に、項垂れながらカップを掴む。

「じゃあ、店に来ればいいでしょ」

「気を使うし通うのが面倒くせえ」

「私だって面倒くさいもん」

「なら泊まればいいだろ」

 まあそうだけど、と言い掛けてはっとした。

「なんか昔こんな感じで丸め込まれて付き合って、更に丸め込まれて結婚してしまったのを思い出した」

「『してしまった』じゃねえよ。納得してただろ」

 確かにそうだが、今の私ならあんな簡単にはいかなかった気がする。何より、真志は最大のデメリットである刑事の生活について殆ど語らず「忙しいけどなんとかなる」だけで押し通したのだ。

「『結婚したらもっと一緒にいられるようになる』って嘘ついたの忘れてないよ」

「一回あたりの平均時間は伸びてるから嘘じゃねえ」

「じゃあ離婚してもその理屈で会えばいいじゃない」

「離婚後もこの頻度で会うんなら、尚更する必要ねえじゃねえか」

 したり顔でパンを食いちぎる真志に、言い返す言葉が浮かばずコーヒーを飲む。まあそうか、と一瞬でも思ってしまった自分が情けない。

「もうやめる。また丸め込まれるから」

 頬を押さえた私に笑った時、携帯の着信音が鳴り響く。もちろん、私のものではない。

 溜め息をついて腰を上げた真志は、まっすぐに廊下へ消えた。

 冷えていく胸が、忘れそうになっていた現実を思い出す。電話一本でいなくなっていつ帰ってくるかも分からない、別宅持ちで私とは相容れない考えを持った「刑事」だ。

 腰を上げて、終わったばかりの食卓を片付けに掛かる。性懲りもなく湧きそうだった期待を断ち切って、皿を手にした。


――悪い、現場が入った。手が空いたら連絡する。

 予想どおりの言葉を残して、真志は出て行った。調査が足踏みするのは残念だが、いつものことだ。今更傷つく理由はない。

「澪ちゃん、大丈夫?」

 今日は正しく客として現れた泰生が、カウンターの向こうから窺う。

「ごめん、説明おかしかった?」

「いや、仕事スイッチはちゃんと入ってるけど元気ないから」

 今日持ち込まれたパンツは、太ももの辺りに糸引きがあった。かなりの長さで糸が引きつれて、繊維に細かな皺が寄ってしまっていた。小さなものなら基本は四千円だが、このクラスになると二万円超えの高額案件だ。オーダースーツだからこの程度の出費は惜しくないだろうが、庶民なら適当に整えて見ないふりをするか、捨てて新しいのを買うところだ。実際、持ち込んで金額を聞いて諦める人も少なくはない。

「そうかな、ごめんね。夫が現場入っちゃって、例の件、しばらく調べられないみたいなの」

「ああ、そっか。まあ仕事の方が大事だから仕方ないね」

 当たり前の反応が妙に傷ついて、頷いて黙ってしまった。なぜこんな感傷的になってしまうのか、確かに今日はちょっとおかしいかもしれない。

「今日の夜、一緒にごはん食べようよ。この前弁当買った定食屋に行こう」

「うん、ありがとう。楽しみにしてる」

「良かった。じゃあ七時過ぎに来るよ」

 笑みで返し、泰生は店を出て行く。少しくすんだガラス戸の向こうで小さく手を振り、帰って行った。

 戻った作業場では、叔母もかけつぎの作業中だ。虫食いニットの補修は、この時期に増えてくる依頼だ。小さい穴でも、ニットは編み方や色によって補修跡が目立ちやすい。今朝持ち込まれた一枚は、ブランドもののヒョウ柄だった。

「……あー、だめだわ。澪子、ちょっと頼める?」

 初めての台詞に驚いて、準備の手を止める。よほど難しい柄合わせだったのか。

「どこ? 見せて」

 ひとまず冷静を装い、泰生のパンツを置いて傍に行く。ただ確かめた穴は柄と柄の隙間、特に難しくもない場所にあった。おかしい。

「叔母さん、大丈夫?」

「なんか、さっきから針がうまくつまめないのよ。右目もなんか見えにくくて」

 聞いた瞬間、背筋がざわっとした。多分、だめなやつだ。

「叔母さん、今すぐ病院行こう。いやな予感がする」

「大丈夫よ、あんたはほんとに心配症なんだから。この程度、お昼ごはん食べたら治るわよ」

「だめだよ。じゃあ救急電話相談するから、行けって言われたら行ってよ」

 答えを聞く間もなく、受話器を引っ掴んで救急電話相談の番号を押す。繋がったオペレーターに状況を話すと、受診をすっ飛ばして救急車案件となった。

「なんともないって帰されたら申し訳ないし、恥ずかしいわよ」

「そんなことない。叔母さん、お願いだから私を信じて」

 こんなところだけ遠慮を発揮する叔母の手を掴み、涙目で訴える。叔母は渋々と言った様子で頷き、受診の準備に立ち上がろうする。その瞬間、ごろりと転がった。

「足に、力が入らない」

「大丈夫だよ。今すぐ救急車が来るから、待ってて。保険証はそこの棚ね?」

 震える手で叔母の背をさすり、棚に保険証とお薬手帳を探す。

「今、病気は特にないんだよね?」

 さっきも確かめたことをまた聞くのは、動揺しているからだろう。

「……ある」

 ぼそりと零された声に、慌ただしかった動きがぴたりと止まった。ゆっくり振り向くと、作業机を前に横たわる、叔母のふくよかな背が見える。

「癌だって」

「……手術は」

「受けませんって、逃げてきちゃった」

 力のない声が、小さく答えた。

「一人で、どうしていいか分かんなくなって」

 保険証を握り締めて傍に戻り、丸みを帯びた腕を撫でる。私がもっとしっかりしていれば、話してくれていたはずだ。

「ごめんね。私がいつまでも子供みたいだから」

 いつまでも弟子として甘えてぶらさがっているから、頼れなかったのだろう。

「違うわよ。あんたはどれだけ娘みたいでも、私の娘じゃない。どんなにあんたが懐いてくれてたとしても、履き違えちゃいけない一線ってのはあるのよ」

「そんなこと……じゃないよね。そっか、そうだよね」

 かと言って高齢の祖母は頼りづらいだろうし、父とはあまり仲がよろしくない。父は私が内気なまま育ったのは、叔母が深く関わったせいだと信じ込んでいるのだ。

「でも私は、家族は叔母さんだけだと思ってる。ほんとの娘じゃなくても、娘だよ」

 滲むものを拭い、叔母の手を取って祈るように握る。どうか、助かりますように。どうか。

 遠くで聞こえ始めたサイレンの音に体を起こし、気持ちを整えるように深呼吸をした。

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