第17話
「これでいいかな。消えたよ」
消し終えた障りに一息ついて、手を下ろす。今日は昨日ほど酷くなかったから、割とすんなりと消えた。でも叔母は今頃、下でやきもきしているだろう。
「悪いな、連日。帰って来れば週一で済むから帰って来い」
直球で連れ戻そうとする真志に苦笑し、ポケットから二本目のミサンガを取り出す。
「一本目は試作だったし疑いながら作ったせいで守備力弱そうだから、二本目を作ったの」
昨日は結局、眠れなくて一晩中これを編んでいた。作業に集中して、胸をざわつかせるものから意識を逸らしたかったのだ。
「編み方を変えて、魔除けの効果があるらしい麻の葉柄を編み込んでみた。黒一色だけど、光の当たり具合で地紋が見えるよ」
「すげえな、さすが職人」
結び終えた二本目を窓からの明かりに翳しながら、地紋を確かめる。
「少しくらい効果があればいいんだけどね」
「こんな細い紐には荷が重いから帰って来い」
ミサンガから私へ移った視線から逃れて、腰を上げた。
「ほら、仕事中でしょ」
襖を引いた私に、真志もようやく腰を上げる。
「今晩、メシ食いに行くぞ。食いたいもん考えとけ」
「フルコースでもいいの?」
「いいぞ。『嫁に逃げられた』っつった瞬間からメシ代掛かってねえから、金が余ってる」
戸口に来て足を止め、皮肉っぽい笑みを浮かべた。要は、奢られ続けているのか。
「うちは『嫁に逃げられた旦那達』と『嫁に逃げられそうな旦那達』と『先輩を見て結婚を切り出せねえ若造』で構成されてるんだよ」
「元妻と妻を集めて食事会したら、最初から最後までずっと怨嗟の声が溢れてそう」
「想像しただけで地獄だな」
階段を下りて行く真志に、私も続く。
――まだそんなに、縋りついてるとは思わなかった。
離婚を切り出したからといって、わざと夫婦の亀裂を深めるようなことをする必要はない。離婚はしたくても、憎みたいわけではないのだ。
「私、あなたを嫌いになりたくないの」
ぼそりと零した声に、真志は足を止める。
「なら、ぶっ殺したくなるまで傍にいろ」
肩越しに一瞥して、残り少ない階段を下りた。
私の言いたかったことは伝わったはずなのに、それでも受け入れるつもりはないのか。
また夜に来ると言い残して出て行った背を見送り、作業場に戻る。
「刑事だけあって、始める時も終わる時も粘るわねえ」
ワンピースに仕上げのアイロンを掛けつつ、叔母が呆れたように零す。
「離婚する頃、相手のことどう思ってた? 暴力が理由なら、あんまり比べられないかもしれないけど」
「いや、暴力そのものより『嫁は俺の下僕』って考えと態度が許せなかったから、離婚したの。腹立って仕方なかったわ」
「嫌いだった?」
ルーペを掛けながら確かめた後ろ頭が、こくりと縦に振られる。
「顔も見たくないくらいね。『俺の言うことを聞け』『恥を掻かすな』ってぎゃんぎゃんうるさいから、最後はバッグで張り倒して家を出たもの」
やっぱりそれくらい憎み合わないと、無理なのか。憎む前に別れたいなんて、ただの綺麗ごとなのかもしれない。
「そんな風に嫌いになれたら、楽なんだろうな」
一息ついて依頼品のシフォンワンピースを手にとり、糸引きの補修に掛かった。
七時半の予定が八時になりはしたものの、真志はちゃんと姿を現した。
「もう来ないと思って、カップ麺食べようとしてた」
カウンター越しに蓋を半分まで開けたカップ麺を見せると、真志は苦笑する。
「それは明日の昼に食え。行くぞ」
「あ、ちょっと待って。置いてくる」
一旦台所へ戻ってカップ麺を置き、戸締まりの確認をしたあと表に下りた。カーテンを改めて閉め直し、古びたガラスドアに鍵を掛ける。念入りに掛かり具合を確かめたあと、歩き始めた真志のあとを追った。
「で、何食うか決めたか」
「焼き鳥かな」
真志は歩きながら、私を見下ろす。貧相な街灯に照らされた表情は苦笑を浮かべていた。
「高級フレンチじゃねえのかよ」
「そんな高いの、気後れして食べた気がしないからいい」
たとえおいしくても、気後れしてしまう料理は苦手だ。子供の頃は祝いの席でそんなものも食べさせられたが、ずっと居心地が悪かったし食べた気がしなかった。向いていないのだ。
「斎木の娘と付き合うって上に報告した時、心配されたんだよ。お嬢を養えるのか、生活も食ってるもんも違うだろって。でも散々言われたあと会いに行ったら、お前六畳間で肉まん食ってたからな、正座して」
「そういう、華やかでお金が掛かるイメージにぴったりなのは妹だけだからね。私は人の注目を浴びるのは苦手だし、かけつぎしてる時が一番幸せだったから」
初めての話に答えながら、隣を歩く。
「『斎木の娘』で聞かれる内容はほぼ、妹の話だったからな。『それ妹ですね』『それも妹です』ばっか言ってたわ。かといって『姉はすごい力持ってます』なんて言えねえしな。もう面倒だから、『姉は顔がいい』て答え続けた」
「雑すぎない?」
確かに事実は言えないが、あまりに適当すぎるだろう。
「でも『そりゃ美人には弱えよなあ』って納得されるから楽なんだよ。県内回って帰って来たら『嫁の美貌に完落ちした人』になってたわ」
「雑なことするからだよ」
まるで違うレッテルに、思わず笑う。でもまあ、と続いた声に視線を上げる。
「悪い気はしねえよな。嫁の尻に敷かれてるくらいがちょうどいいんだよ」
「敷かれてないでしょ、好き勝手してるじゃない。浮気してるし」
「してねえ」
頑なな否定に、視線を落とす。
情報源になれるほどしっかりした女性なら、小遣い程度の金で命を危険に晒すことの危うさくらい分かっているはずだ。それでもその道を選ぶのは、真志を好きだからだろう。捜査のためならなんでもできる真志が、躊躇うとは思えない。でもそれは仕事のうちだから、真志にとっては「浮気ではない」のだ。……だめだ、帰りたくなってきた。
「帰ってカップ麺食べたくなってきた」
「もうすぐ着くから我慢しろ」
引きこもりたくなった私を連れて、真志は明るい通りに出る。飲み屋と風俗が入り交じる、この街唯一の歓楽街だ。きらびやかなネオンが目に痛い。私は萎縮する光だが、真志にはよく似合っていた。インテリヤクザみたいに見える。
真志は時々通りの左右に視線をやり、客引きに出ている人間となのか、目配せしていた。定期巡回を兼ねているのかもしれない。これも仕事のうち、か。
「なんで、刑事になったの?」
なんとなく口にした問いに答えないまま、真志は一軒の赤ちょうちんを選んで入って行く。遅れて、色褪せたのれんをくぐった。
「伯父が、刑事だったんだよ。母親の兄さんな」
真志が切り出したのは、一通り楽しんで熱燗を二合空けるところだった。
店はカウンター席が十個ほどの小さなところで、私は一番隅に壁と真志に挟まれて座っている。視線を上げればちらほら、障りを背負った人達が見えるが隣でないなら大丈夫だ。
「暇があれば遊びに来て、特に俺は小さい頃からよくかわいがってもらってた。自分は結婚する気がなかったみたいだから、俺を我が子みたいに思ってたのかもな」
最後の熱燗を真志の猪口に継ぎ、女将さんに追加を頼む。大将が、新たに焼き上げたつくねとねぎまを二本ずつカウンターに置いた。夫婦と思しき二人は、どちらも七十を越えた辺りに見える。二人でずっと同じ場所で働き続けるなんて、よほど相性が良くないと無理だろう。仕事でも、仕事外でもずっと一緒だ。
「俺が小学校に入った夏、川遊びに行ったんだよ。母親と伯父と兄貴と俺でな。よく晴れて、暑い日だった。兄貴は水が冷たいのがいやで少し離れたとこで母親と釣りしてて、俺は伯父と川に潜って遊んでた。体力奪われるからちょっと遊んだら川から上がるって約束してたんだけど、俺は魚を見るのに夢中になって『もうちょっとしたら上がる』って言うこと聞かなかったんだ。伯父は仕方なく一足先に上がって、一服しながら俺を見てた」
つくねとねぎまを一本ずつ皿に置き、猪口の水面を揺らす真志の横顔を見つめる。どこかぼんやりとした、毒の抜けた表情だった。
「潜って泳いでる魚を見てたら、急に水が濁ったんだよ。さっきまで澄んでたのに、急にな。不思議に思って立ち上がったら、血相変えた伯父が俺を呼びながら川に入ってくるのが見えた。なんでだろうと思って上流見た途端、動けなくなった。土石流みたいな濁流が、すぐそこまで押し寄せてきてたんだ。鉄砲水だった」
ああ、と納得して頷く。鉄砲水は上流で堰き止められていた豪雨や雪解け水が一気に流れ落ちたり、上流の集中豪雨が原因となったりして起きる。よく晴れていたのなら前日までに大雨が降っていたか、夏だから上流でゲリラ豪雨が起きていたか、そんなところだろう。ダムの放流で人工的に起きることもある。鉄砲水で人が亡くなる事故も、少なくはない。
「伯父は俺と一緒に押し流されて、それでも俺をどうにか岩の上に押し上げて助けた。でももう、自分が助かる力は残ってなかったんだよ」
予想できる結果に、私も空になった猪口を見つめる。自分か子供かどちらか一人なら、子供だ。もっとも自分を選ぶ人なら、最初から助けになど向かわなかっただろう。
「四十で死んだ。警部補になったばっかの年にな」
真志は抑えた声で結末を告げ、温んだ酒を呷った。
――警部補より出世するつもりはないから、昇進したら必ず埋め合わせする。
あの言葉には、伯父への弔いが含まれていたのだろう。
「大人になったら刑事になって、伯父のできなかったことをする。それが俺にできる最大の弔いだし」
真志はふと我に返るように表情を戻して徳利を掴み、私の猪口に注いで自分にも手酌した。
「贖罪だ。俺も、救われるんだよ。『俺が殺した』って呪いからな」
酒に飲まれた連中の荒い笑い声の隙間に、密やかな声が滑り込む。何か言うべきだろうが思い浮かばなくて、黙って猪口を傾ける。それほど飲んでないはずだが、回ってきたのが分かる。そういえば、昨日は殆ど眠っていなかった。
「あなたが殺したんじゃないって言われても、納得できないよね。他人の言葉じゃ、救われないんだよ。結局、自分は自分で救うしかない。自分の思う形でしか、無理なんだよ」
「回ってんな」
頷き、押さえた頬は熱くなっていた。一息ついて、壁に頬を預ける。ひんやりとして、心地よい。
「昨日の夜、ミサンガ作ってて一睡もしてなかったことを思い出した」
「無理してんじゃねえよ。いつでも良かっただろ」
「良くないよ」
あくびを噛み殺しつつ、引き寄せられる腕に従い反対側の肩に凭れる。壁ほど心地よくはないが、落ち着く。目を閉じて長い息を吐いた。
「着けてたら少しくらい、思い出してくれるでしょ」
口が滑った気はするが、もう酔いのせいにしてしまえばいい。重い瞼はどうにか開いてもすぐ閉じた。遠くに聞こえる喧騒と炭の香りは感じられたが、あとはなんとかしてくれるだろう。諦めてもう、眠ることにした。
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