第16話
今日の仕事を終えて、個人的な仕事に取り掛かる。
「あんた、まだ仕事?」
「これは違うよ。個人的に作りたいものがあって」
黒の刺繍糸の撚りを解きながら答えた私に、叔母はふうんと返した。
「じゃあ私は帰るけど、戸締まりだけはしっかりすんのよ」
「うん。カーテンだけ閉めといて」
叔母は自作した大島紬のリメイクバッグを肩に掛け、おつかれさま、と作業場を出て行く。
私が結婚するまでは、ここに二人で住んでいた。件の泥棒が入った夜は、二階で揃って震え上がりながら警察を呼んだのだ。真志のおかげで事件は速やかに解決したものの、あれから十年経って再び一人に戻った叔母は、夜の度にその恐怖を思い出すようになってしまったらしい。以来職場と生活の場を分けて、近くのアパートで暮らしている。
私も正直言えば、一人が怖くないわけではない。霊が出るかもしれない恐怖と泥棒が入ってくるかもしれない恐怖を考えると、動悸が起きる。でもあの部屋で一人、帰って来ない人を待つ日々を続けるよりは今の方が良かった。
新たなミサンガの準備を整え終えた時、携帯が短く鳴る。手を止めて確かめると、泰生だった。
『ごはん食べた? 弁当買っていこうか』『ありがとう。鶏南蛮があればお願い』『了解』
気軽なやり取りを終えた携帯を置き、簡単に書いた図案を確かめながら糸を絡めていく。真志に渡す、二本目のミサンガだ。今回は巻きつけ方に変化をつけて、魔除けになるらしい麻の葉柄を織り込んでみることにした。前回より幅が太くなるから目立ちやすくはなるが、致し方ない。
――幸せになりたくて、この仕事してるわけじゃねえよ。
好きで仕方ない仕事なら、幸せではないのか。私はこの仕事が天職だと思っているが、真志もそうだと思っていた。だから、やめて欲しいと言ったことはなかったのに。
浮かび上がってきた図案の線を爪の先で整えつつ、また編んでいく。
じゃあ、真志はどうすれば幸せになれるのか。
乱れたリズムに一旦手を止め、一息ついてまた編み始める。考えない方がいいことは、ひとまず置いておくことにした。
しばらくして再訪した泰生は、二人分の弁当を提げていた。
「わあ、おいしそう。ありがとう」
テーブルに着いて蓋を開いた途端、甘酢の良い香りが鼻をくすぐる。
「俺がちょくちょく行ってる定食屋のテイクアウト。とんかつもおいしいよ」
向かいで開かれた泰生の弁当は、とんかつだった。
「そうなんだ。泰生くん、お店よく知ってるんだね。この前のお寿司もおいしかったし」
「まあ、外食ばっかりだからね。どうせならおいしいの食べたいから、あちこち開拓してるよ」
確かに、家でゆっくりもできない状況では食べることくらいしか楽しみがないかもしれない。
「孝松の家には、行ってるの?」
タルタルソースの袋を開けつつ、久しぶりの苗字を口にする。この前は昔の自分達のことばかりで、家族の話なんて忘れていた。
「いや、数年前にお祖母さんが亡くなってからは行ってないよ。あそこはもう伯父さんの家だから」
「そっか。やっぱり気を使うよね」
亡くなった話は、正月に母から聞いた。
うちの祖母とは、嫁に来る前から仲が良かったらしい。しゃんとした着付けに似合わずおっとりとした「お祖母様」だった。私と泰生が仲良くしているのを、廊下の籐椅子からいつも嬉しそうに眺めていた。
「澪ちゃんは、実家帰ってる?」
泰生はとんかつにソースを満遍なく掛けながら尋ねる。
「盆と正月だけね。小言言い始めたら、耳塞いで聞かないアピールしてすぐ帰ってる」
「強いね」
「同じことしか言わないからね。ずっと何言われても我慢してたけど、二年くらい前に逃げればいいって気づいたの。それからは、割と快適」
掛け終えたソースの袋を蓋に置き、手を合わせる。揃って挨拶をして、箸を手に取った。
「澪ちゃん、とんかつ食べてみる?」
「うん。じゃあ、交換しよ」
子供の頃のように互いのものをトレードして、早速食べる。まだ温かい一切れは、衣の歯ざわりもいい。噛み締めた肉からは脂がじゅわりと染み出た。
「ほんとだ、おいしいね」
「鶏南蛮もいいね。甘酢が結構しっかり利いてる」
「やった、私の好きなタイプ」
後口にごはんを食べて整えてから、早速私も鶏南蛮へ向かう。たっぷりのタルタルソースと千切りキャベツと共に、一切れを頬張った。噛み締めると、しっとりした衣から滲み出た甘酢がタルタルソースと混じり合い、なんとも言えない旨味に変わる。しゃきしゃきとした歯ざわりのキャベツもいい。
「……おいしい……幸せ……」
「良かった。あとでお店教えるよ。今度からは、四百八十円で幸せが買える」
「そんな安いの? 私、『鶏南蛮の人』って言われるくらい買い続けるよ」
一度ハマると長い性質だ。好きなお菓子も、小学生の頃からずっと変わっていない。
「老夫婦がしてる小さな店だから、多分喜んでくれるよ」
泰生は嬉しそうに笑って、とんかつを口に運ぶ。おいしいね、と嬉しそうに目元を緩めた。
「職場の人とも、ごはん食べてる?」
「うん。俺も誘う方だし、誘われたら仕事がなければ断らないな。若い頃は立場もあるし遠慮して仕事だけしてたけど、飲み食いを共にした方が上手くいく場面が多いってのを実感してね」
泰生は口元を隠しつつ答えて、ごはんに箸をやる。
「俺は技術部でも設計の方にいるから、現場に無理って言われることも結構あるんだよ。いつもそれを『そこをなんとか』でゴリ押しして受け入れてもらってる。でもそれが叶うのは、一緒にごはん食べていろんな話をする業務外の時間があるからだよ。仕事も、結局は人間関係だからね。円滑にする努力をしといて損はない」
「すごいね。私、作業なら何時間でもできるけど、お客さんが三人来るとぐったりするよ。一人でも障り背負ってる人が来ると、それだけでつらいしね」
「他人は助けない」と割り切れていれば楽になれるだろうが、そうではないから毎度葛藤してしまう。どうせ助けないのに、「言っても不審がられないだろうか」と思考が始めてしまうのだ。
「じゃあ、今は誰も助けてないんだ」
「ううん、夫を」
答えたあと、すぐ後悔に襲われて弁当から視線を上げる。
「ああそっか、だから離婚」
「そういうわけじゃ……ないんだけど」
慌てて遮ったあと、気まずさに視線を落とした。
「ごめん。障りを消す人と消される人の組み合わせなんだから、そう思うよね」
「いや、俺も安直すぎたよ。ごめんね」
すぐ詫びた私に、泰生も応えて詫びる。おずおずと上げた視線の先に、いつもの笑顔があって安堵した。
「でも、ちょっと驚いたかな」
泰生は残り少なくなったとんかつに箸をやりながら、私を見る。薄いレンズ越しに緩んだ目の奥に見えるのは、光のない昏い瞳だ。
――お前、幼なじみなんだろ。昔からあんな薄気味悪い奴だったのか。
そんなはずはない。泰生は昔のまま、優しくて穏やかなあのままの。
「まだそんなに、縋りついてるとは思わなかった」
温度のない声で零したあと、品の良い箸でとんかつを口に運んだ。
小学校の高学年になるまでは、ほとんど泰生と一緒にいた。
父の車で登校したあと直接保健室へ行き登校してきた泰生と少し話をして別れ、一人で午前中の勉強をして呼びに来た泰生と教室へ行って給食を食べ、また保健室で午後の勉強をして帰りの準備と整えた泰生と一緒に帰った。休日はどちらかの家か叔母の店で一緒に遊んで、たまに障りを消した。
五年になりクラスで授業を受けるようになったあとも、泰生は積極的に献身的に私を支えてくれた。それは確かにすごく嬉しかったし、感謝もしていた。でも私はクラスに馴染むほどに、障りを背負っていない優しい女子達と一緒に過ごしたいと思うようになっていった。泰生は喜んで受け入れてくれ、私は彼女達と一緒に笑い、遊び、下校するようになった。休日に、特に仲良くなった子の家へ遊びに行ったこともあった。
ただ、少し経つと彼女達がみな障りを背負い始めたのだ。一人は原因不明の熱を出し、もう一人は精神的な不調で学校に来られなくなった。自分のせいだと恐ろしくなった私は彼女達から離れ、また泰生と過ごすことにした。
――澪ちゃん、ずっと一緒にいようね。約束だよ。
戻って来た私を笑顔で迎え、泰生は指切りの小指を差し出した。
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