第15話

 沈んだ胸を業務用に切り替えて表に出ると、べっとりとした障りにまとわりつかれた真志が立っていた。黒々とした澱みの隙間に、かろうじて具合悪そうな顔が見える。

「とりあえず上がって」

 カウンターを出て腕に触れると、障りが波打つように揺れた。どうして、こんなに。

「おばさん、ごめん。真志さん来たけど具合悪いから、ちょっと上で休ませるね」

 靴を脱がせて中に入れると、叔母が驚いたように真志を見る。

「真っ青じゃない、大丈夫なの?」

 障りが見えない人には、そう映るのだろう。

「すみません。お邪魔します」

 障りの向こうから聞こえた声は、少し掠れていた。

 階段を先に行かせて、後ろから手を握る。握り返す手が力を込めると、障りが漣だつように揺れ始めた。手首にはまだ私のミサンガがあったが、抑えきれなかったのだろう。元々、気休めみたいなものだ。それにしても、出て行ってまだ一週間も経っていないのに。

 階段を上がりきるだけで息を切らす真志の手を引き、部屋へ通す。じゃあ、と言うより早く抱きついた体に驚いたが、今はこれを消すのが先だ。

 覆い被さるように抱き締める腕の間を縫って、背中に手を回す。ゆっくりと息をするのに合わせて、障りが少しずつ薄らいでいくのが分かった。

――その力があろうとあるまいと、私達は為すべきは人間としての日々の営みです。

 私が障りを消すと知っているのは泰生と真志だけ、これ以上増やそうとは思わない。本当はもっと多くの人を救うために使うべきなのだろうが、考えただけで縮こまってしまう。

 五分ほど経つ頃、手触りがふと軽くなり息の音も深いものに変わる。いつもより手こずりはしたが、問題なく消せたらしい。

「消えたみたいだけど、どう?」

「楽になった。急に悪かったな」

 そのまま座ろうとする真志に合わせて、私もその場に腰を下ろす。真志は一旦離れて横になったあと、私の膝を枕にした。血色の戻った顔はそれでもどことなく具合が悪そうだったが、私ができるのはここまでだ。

「お前の力、あれに触って消すだけじゃねえだろ。お前が出て行ってから、加速度的になんか背負ってこのザマだ。昔を思い出したわ」

 真志は眼鏡を外し、解すように眉間を揉む。そう言われても、当たり前だがまるで実感はない。

「お前と付き合う前までは、たまにこうなってたんだよ。軽いもんならサウナや運動で散らせてたけど、どうにもならなくなった時は寺に駆け込んでた」

「そうだったんだ」

 捜査に来る度に障りが増えたり減ったりしていた理由は、そのせいだろう。体を動かしたり汗を流したりするのは、リフレッシュになっていいのかもしれない。

「この前まで、やっと耐性がついたんだと思ってた。昔とは比べもんにならねえほど楽になってたからな。でもあれはずっと、お前に守られてたんだな」

「まるで自覚はなかったけど、元に返ったんならそうだったんだろうね」

 これまで守っていたものを守らなくなったのは、逃げ出したことで私の心境に変化が生まれたからだろう。今ならどうにか、一人でも生きていける気がする。

「離婚しても」

「しねえ」

 この状況でなお拒否できるメンタルの強さに、思わず感心した。

「守りが薄くなるから連れ戻そうとしてる?」

「守りは関係ねえよ。帰って来い」

 下からの射抜くような視線と残酷な言葉に耐えかねて、座卓へ手を伸ばす。

「これ、事件に関する新情報。仙羽さんから」

 真志は舌打ちして受け取り、早速茶封筒の中身を取り出した。

「仙羽さんも行き詰まって、二年前に似たような事故を起こした会社に話を聞いたんだって。そしたらその事故の被害者も、首吊り紐の準備したあと入ろうとしたお風呂で同じように茹だって亡くなってたって」

 端的な説明を聞き終えるより早く、起き上がる。黙って泰生のまとめた情報に目を通したあと、私を見た。

「お前の管轄か」

「霊が関わってるだろうとは思うけど、今はまず被害者の共通点を探す方が最初だよ。下手したら、次があるかもしれない」

「俺も四、五年前にどっかで聞いた釜茹で事件を探しててな。うちの県じゃねえけど、未解決のままお蔵入りしたはずだ」

「どんな?」

「風呂じゃなくて、飯炊きに使うあの釜で切断された体が茹だってたって噂だ。ちらっと聞いただけから、伝言ゲームで変わってるかもしれねえけどな」

 切断された体。言われて浮かび上がったのは、あの夜私の首を締めた二つの手と、浮かび上がった顔だ。彼女には確かに、首から下がなかった。

「話を蒸し返すようだけど、エリさんの遺体は切断されてた?」

「いや、骨が折れてただけだ。手脚の欠損はなかった」

「目は? 片方が潰されてなかった?」

 続けた私の問いに、真志は黙って用紙を畳む。

「両方、潰されてた」

 予想を上回る凄惨な報告に、息を飲んだ。その時の恐怖と痛みを想像しただけで、呼吸が浅くなる。でも、これで分かったこともある。

「私を殺そうとしたのは多分、エリさんじゃない。でもそれは別にして、ちゃんとお墓参りには行って」

「盆には行ってる。行旅死亡人扱いだったから、無縁墓地にまとめられてるけどな」

「コウリョシボウニン?」

 聞き慣れない言葉を繰り返すと、真志は茶封筒をスーツの内に収めて振り向いた。

「引き取り手のねえ遺体のことだよ。エリは不法滞在者の娘で、国籍も戸籍もなかった」

「分かってて、付き合ってたの?」

 本来なら、それを取り締まる立場だろう。

「最初は情報源として付き合ってた奴だからな。弱みとして握ってた」

「……そんな仕事のやり方して、幸せ?」

「幸せになりたくて、この仕事してるわけじゃねえよ」

 真志は非難を込めた私の視線を避けて向き直り、腰を上げた。

「じゃあ、なんの」

「市民の安全と社会の平和を守るためだ」

 あっさりと返されたが、それは警察の存在意義だろう。そんなことが聞きたかったわけではない。

 ねえ、と呼ぶ声にも足を止めることなく、真志は階段を下りていく。もう何も話すつもりはないのだろう。諦めて、黙ってあとに続いた。

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