三、

第14話

 泰生が店に現れたのは、居を移して最初の土曜だった。どことなく切実なものを漂わせる表情に一旦作業の手を止め、叔母に断りを入れて二階で話を聞くことにした。

「ごめんね、まだ片付けが行き届いてなくて」

 久しぶりの六畳間に泰生を通し、雑多なものをひとまず座卓の下に隠す。

「いや、大丈夫だよ。この部屋、懐かしいね」

 休みのはずなのにスーツ姿だから、今日も仕事か。真志の言うとおり、まだ本社に帰還できない理由があるのだろう。

 斜向かいに腰を下ろした泰生は、気持ちを整えるように一つ深呼吸をする。何か、とんでもないことがあったのかもしれない。

「それで、どうしたの?」

 水を向けた私に、泰生は頷いて口を開く。

「今回の件は最終的に事件として処理されたから、給湯システムに責任はなかったってことにはなった。でも、どうしても整合性のとれないところがあってね」

 真志の言っていた話と同じだろう。座卓の上で組み直される、滑らかな女爪の指先を眺める。あの日は予定どおり二人で寿司を食べて、ここまで手を繋いで帰った。昔を思い出す、優しくて温かい手だった。

「タンクの湯が二回とも使用分だけ減ってたのは確かなんだ。でも湯船の湯温とタンクの湯温の差を、どうやっても説明できないんだよ。給湯システムがタンクの湯を九十五度から六十五度に下げたのなら水が使用されているはずだけど、水道使用量にそれらしき変化はなかった。勝手に下がったとしても、あの断熱性の高いタンクで自然に六十五度まで下がるにはそれなりの時間が必要だ。夜亡くなって朝見つかった一度目でも考えにくいのに、死後一時間で見つかった二度目ではありえない。あと、湯船の湯温を九十五度に維持するほど電気を使用し続けた形跡もなかった」

 潔白を証明するために調べたら、訳の分からない事態にぶつかってしまったらしい。私のような素人でも、おかしいのが分かるレベルだ。

「つまり、湯船は一度湯を張られてから何時間も九十五度を維持する一方で、タンクは九十五度から六十五度まで下がってたことになる。水も電気も使わずにね」

「そんなの、どう考えても無理でしょ」

「そう、無理だ。でも、『無理です』なんて報告書は上げられないからね。何か手がかりをもらえないかと思って、二年前に似たような事故を起こした他社に連絡したんだ。メインの担当者は退職してたけど、ほかの担当者はまだ残ってて話を聞けた。その時に、妙な共通点があることが分かったんだ」

 いよいよ迫った本題に、居住まいを正して次を待つ。泰生は私を見て、整えるように口の中で咳をした。

「その事故でも、亡くなった人は自殺をするつもりで、首を吊る紐の準備をしてたらしい。当時は、『首吊り紐を準備して死ぬ前に風呂へ入って事故死』と処理されてた。今回の給湯システムとは違う、タンクなしで直接風呂の湯を温めるシステムだったからね。エラーを吐かないエラーが出たものとして処理されてた」

 偶然にしてはあまりに妙な一致に、冷たいものが背中を伝う。

「もちろん、可能性が皆無とは言えない。自殺なんて珍しい時代じゃなくなったし、死ぬ前に身を清めたい人がいるのも理解できる。でもそこに、エラーを吐かない給湯システムが加わるのはありえないよ。向こうの担当者も、どれだけ調べてもエラーの原因は分からなかったと言ってた」

「じゃあ」

「俺は理系の頭だけど、小さい時に何度も澪ちゃんに助けてもらったから『そういうもの』が存在するのは理解してる。報告はもうどうでもいいから、次の被害者が出るのだけは避けたいんだ。力を貸して欲しい」

 正座の姿勢を整え頭を下げた泰生に、慌てて私も姿勢を正す。確かに「そういうもの」が関わっているのなら、これで終わらない可能性はある。原因を突き止めない限り繰り返される悲劇なのかもしれない。でも今必要なのは、中途半端な私の力ではないだろう。

「私もあの霊について考えたいことがあるから、できることがあれば協力するよ。でも今必要な助力は私のその考察じゃなく、現実的な捜査だよね」

 まず調べるべきは、今回とその事故の被害者の共通点だ。それは、私や泰生にできるものではない。出て行く日の姿を思い出し、鈍く痛む胸に一息つく。

「納得いかないことがあるからまだ個人的に調べるって言ってたし、頼めば捜査の手を拡げてくれるとは思う」

「ごめんね。やっと逃げられたところなのに」

 小さく頭を横に振って、視線を落とす。逃げてきたのは確かなのに、口にされると居心地が悪い。

――じぶん、だけ、たす……かろうと、する……なん、て。

 あれから、彼女の気配を感じない。助けたいと言いながら、自分だけ逃げ出して救われてしまった。今の私を前にして、彼女はもう「わたしといっしょ」とは言わないだろう。

「大丈夫。次の被害を防ぐことの方が大切だから」

 話をするのは確かに気まずいが、人の命には代えられない。それは、私より向こうの方がよく分かっているだろう。

「ありがとう、澪ちゃん。今日は仕事残してるからこれで帰るけど、今度は普通に会いに来るよ。これ、簡単な事故の情報とかいろいろ」

 泰生は上着の内ポケットから取り出した封筒を座卓に置き、腰を上げる。続いた私を見下ろして、頭を撫でた。同級生のはずだが、なんとなく年下扱いされている気がする。

「かわいいなあ、澪ちゃん。旦那さん、早く諦めて判子押してくれないかな」

「……仕事残してるんでしょ」

 溜め息交じりに促すと、泰生は笑って座敷を出て行く。うまい返しではないのは、分かっている。あとに続き、狭く急な階段を下りた。

「あら、もう帰るの?」

 再び作業場へ戻ると、叔母が作業の手を止めてこちらを見る。チャイナ襟のワンピースも、いよいよ仕上げだ。

「うん、ちょっと用があって寄っただけだから。また来るよ」

 おじゃましました、と慣れた様子で作業場を横切り表へ下りた。

「今度、三人でごはん食べに行こうよ。おばさんに何食べたいか聞いといて」

 泰生は靴を履きながら会食の提案をして、昔と変わらない笑みを見せる。頷いた私の頭をまた撫でて、帰って行った。

 時間ができたら連絡するよう真志にメッセージを送って、中へ戻る。

「いい感じじゃないの、早くくっつきなさいよ」

 作業場へ戻った私に、叔母は手元を動かしながら老婆心を発揮した。

「そういう話は離婚してからにしてって言ってるでしょ」

「だって、早くしないとあんたが幸せになるのを見る前に死ぬかもしれないし」

 物騒な物言いに、ルーペを掴んだ手が止まった。

「どこか、悪いの?」

 職人の速さで針を動かす叔母を、じっと見つめる。いやな予感に肌がざわついた。

「そうじゃないけど、そういうことも考えなきゃいけない年齢だってことよ」

「まだ六十三でしょ? やめてよ、もう。手が震えてきちゃったじゃない」

 針を持たなければならないのに、指先が大変なことになっている。さすり合わせながら叔母を見ると、苦笑が応えた。

「あんたはほんとに、変わらないわねえ。あんたがそんな調子だから、店を譲る話もろくに進められないのよ」

「だって、それはまだ」

 話題に上りそうになる度に、避け続けていた話だ。叔母はまだ元気だし、師匠だし、私には荷が重すぎる。

「いい? 何度も言ってるけど、あんたの技術はもう私を超えてる。いつでも店を任せられるし、来るかどうかは別として弟子だって取れるレベルなの。弟子って立場に甘えて隙あらば私の後ろに隠れようとするのは、いい加減にやめなさい」

 耳に痛い言葉に、正座の膝を向けて座り直す。確かにお客さんの中には私の方が巧いと言う人がいる。でも、どうしても素直には喜べない言葉だった。

「あんたが私を尊敬してくれるのはよく分かってる。私にとっても、師匠は神様みたいなもんだったわ。でもね、師匠ってのは超えるために存在する基準なの。それにどんだけ技術で超えても、職人としてのプライドは超えられないもんよ。私はあんたの方が巧いって言われるのを誇らしく思ってるし、店を譲りたいと思えるほどの職人に育て上げた自負もある。だから安心して、前に出てきなさい」

 重みのある師匠の言葉に頷き、安堵する胸を確かめる。

――澪子、やり方はもう見て覚えてるでしょ。これ、やってみなさい。

 初めて練習用の布を渡された日の喜びは、今も覚えている。やっぱり、この人に育ててもらえて良かった。

「ありがとう。少しずつでも、出ていけるようにがんばるよ」

「その言葉が聞けて良かったわ。あんたは覚悟さえ決まればブレないからね、仕事は」

 含みのある最後に、弟子から姪の視線に戻す。

「仕事以外は、そっとしといて」

「そっとしといた結果、ぽっと出の刑事に持っていかれた経験から言ってんの」

「ぽっと出って、あんなに熱心に捜査してくれたのに」

 思わず眉を顰めた私を気にせず、叔母は作業を続ける。熟練した指の間に、ちりめんの波が寄っていく。

「あの人はそれが仕事で、命を懸けてるからよ。あんたは、優しい人だから熱心に捜査してくれたんだと勘違いしてたけどね。どう見ても相性は悪かったし、そもそもあんたは刑事の妻に向く性格じゃない。そんなことくらい、向こうは最初から分かってたはずよ。見た目が好みだったとしても、あの仕事に命懸けてる人が選ぶわけはないと思ってた。そのうち振られて、泣いて帰って来るだろうなって」

「そんなシビアなこと思ってたんだ」

 全く気づかなかったし、なんなら温かく見守られていると思っていた。今更驚く私に、叔母は溜め息で応える。

「結婚するって報告した時も、止めようか最後まで迷った。でもあんたの向いてなさを分かってても結婚したいって思えるほど愛してくれるんならって」

 叔母は私が障りを消せることも、真志の障りを消していることも知らない。まあ知っていたら、「障り消し要員だからやめておけ」とはっきり言われていたはずだ。

――それでも、俺はお前がいいんだよ。

 相性が悪く刑事の妻にも向かない女とそれでも結婚生活を維持しようとした結果が、あの別宅だったのだろう。会わない方が上手くいくのは、私より真志の方が分かっていたのだ。たまに会って、夫婦にしては他人行儀な会話をして、障りを消して、抱く。

 真志だって、さすがに死ぬまでそんな生活ができるとは思っていなかったはずだ。私がいつまで「持つ」と思っていたのか。

「大事にされてなかったとは、今は思ってないよ。でもあの人のやり方じゃ、私はずっと寂しいままなの」

「それが『性格の不一致』ってやつよ。借金や暴力がなくても、夫婦は死ぬの」

 先達の重みある言葉が響いた時、来店のチャイムが鳴った。

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