第12話
メッセージで真志に今日の気づきを送ったのは夕方、既読にはなったが返答はなかった。別に期待はしていなかったのに、風呂から上がったらリビングにいて変な声が出た。
「もうちょっと、気配を立てるとかなんとか」
まだ落ち着かない胸に溜め息をつきつつ、ソファでシャツの背に触れる。それほど濃いわけではないが、こまめに消しておくに越したことはない。
「勝手に消えるんだよ」
刑事の職業病なのだろう。背後から近づかれても、全く分からないのが性質が悪い。
「お前、風呂上がりは毎度あんな格好でうろついてんのか」
「汗引く前にパジャマ着たら、張りつくのがいやだから」
それでも今日は、ブラも着けていたから良かった。夏場はショーツ一枚で首にタオルを掛け、扇風機の前に座っている。とてもではないが、見せられない。
「なら、別に着なくても良かっただろ」
「やだよ。恥ずかしいもん」
慌てて寝室に逃げ込み、速攻でワンピースを被った。もちろん今更感があるのは分かっているが、それとこれとは別だ。
「はい、消えたよ」
「ついでに肩、揉んでくれ」
続いた要求に、肩に手を伸ばす。固く張った肩の線を撫で、まずは軽く叩く。
「今日送ったメッセージ、どう思う? あれなら、彼女が『わたしといっしょ』って言った理由も、障りに飲まれた時に手がたくさん見えた理由も納得できる」
「浮気じゃねえって言ってるだろ」
不機嫌そうな声が、肩の振動で揺れる。予想どおりの反応だった。
「どこからが浮気になるのかは、人によって違うでしょ。彼女の線引きではアウトだったんじゃないの」
私の線引きでだってアウトだが、言えばややこしくなるだけだ。黙った真志の肩を、今度はゆっくり揉み始める。
「私が浮気したら、離婚する?」
控えめに尋ねると、真志は分かりやすく項垂れて溜め息をついた。
「しねえし、離婚のためにするつもりならやめとけ。お前が壊れるだけだ」
「好きになった人とならいいの?」
「それは浮気じゃなくて本気だろ」
「あ、そっか」
確かに、好きになってしまったら遊びではなくなるか。
「そん時は、俺が壊れる」
ぼそりと聞こえた声に、手が止まった。
「……嘘つき。仕事より大事なものなんて、ないくせに」
いつもより低い声が、膨れ上がった恨みをねじこむ。ソファから下りて、寝室へ逃げ込んだ。
溢れ出したものを抑えきれず、ベッドに倒れ込んで泣く。期待したら、信じたらまた裏切られるだけだ。十年もの間思い知らされてきて浮気までされたのに、なぜまだ心が揺れるのか。自分の弱さが情けなくてたまらなかった。
感情の昂りが収まるまでひとしきり泣いて、仰向けになる。耳を澄まして気配を探るが、私に察知できるわけがない。乾いた喉に洟を啜りながら体を起こし、寝室を出る。少なくともリビングとキッチンには、真志の姿はなかった。
思わず安堵した胸に溜め息をつきつつ、キッチンへ向かう。迷うことなく冷凍庫からジンを取り出し、がらがらと氷を滑らせたグラスに清々しい香りを注いだ。
一口飲んで、喉を滑り落ちた熱に荒い息を吐く。一人寝の寂しさに寝酒を覚えたのは、結婚して一年も経たない頃だった。真志が単身赴任になってからは酒量も増え、明け方まで飲み続けることもあった。
そんな生活を続けていたら五年前と二年前に急性膵炎になって、どちらも二週間ほど入院した。真志や親には連絡せず、叔母を保証人にしてやり過ごした。真志に連絡すれば駆けつけていたかもしれないが、いなかったかもしれない。でも前者に賭けて連絡できるほどの余裕はもう、とっくに擦り切れていた。
禁酒と離婚を決めたのは、二度目の入院から戻った日だった。
――離婚して欲しいの。
切り出した私に真志はしばらく沈黙したあと、あの台詞を吐いたのだ。
何度裏切られれば、私は学ぶのだろう。
グラスを傾けつつ、カウンターの上に置きっぱなしにしていた携帯を手に取る。着信履歴に残る名前を選んで押すと、機械的な呼び出し音は二回で穏やかな声に変わった。それだけで、泣きそうになる。
「ごめんね、夜に。今、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの」
尋ねられて気づくが、別に理由があったわけではない。ただ吸い寄せられてしまっただけだ。
「何があったってわけじゃないよ。ただ、声が聞きたくて」
「嬉しいな。俺も、澪ちゃんどうしてるかなって思ってたところだった。ボタン引きちぎって会いに行くのは、さすがに叱られそうだしね。もっと小出しにすれば良かったよ」
ふふ、と笑う泰生につられて笑い、グラスを傾けた。
「飲んでる?」
「うん。二年前に膵炎再発して、人生やり直すつもりで禁酒して離婚を切り出したけど……もうどうでもいいかなって」
私が死んで、初めて後悔するのかもしれない。溜め息をつき、残っていたジンを一気に呷る。喉を焼く懐かしい感触に、涙を拭った。
「澪ちゃん、明日の夜は空いてる?」
「うん」
「じゃあ、お寿司食べに行こうか。好きでしょ、お寿司」
「うん。昔、よく一緒に食べたね」
といっても、私達が一緒に食べていたそれはチェーン店のパック寿司だ。休みの日にどちらかの家へ遊びに行くと、高い確率でそれが出た。両親ではなく、お互いの祖母が気遣ったのだろう。多分あの二人の間では、泰生の母が死ぬまでは、私達を結婚させる算段がついていたはずだ。
――
母が父に漏らしていたのを聞いたのはいつだったか。泰生は母親の話をしなかったから、詳しい話は知らない。ただ血を吐いて救急車で運ばれて、そのまま亡くなったのだけは知っている。
大人になって酒にも飲まれた今は、死因に大体の予想がつく。でも、当てて楽しめるようなものではない。
「大人になったから、回らない寿司屋に行こう」
「あんまり、堅苦しくない場所にしてね。苦手だから」
回らない寿司なんて、結婚前に父に呼び出されて行ったのが最後だ。もっとも、味なんてまるで覚えていない。
――支えられないと思ったら、迷惑を掛ける前に帰って来なさい。うちのことは気にしなくていいから。
父は多分、不出来な娘に前もって離婚を許しておくことが、親としてできる最善の策だと信じていたのだろう。満たされた顔をして、一人だけおいしそうに酒を啜っていた。
「ずっと玉子とまぐろを頼み続けてもいいよ」
「今はもう、満遍なく好きだよ。いかやたこも食べられるし」
昔は特別好きだったその二種を、泰生はいつも私に譲ってくれた。そして、ぐにゃぐにゃして苦手だったいかやたこ、貝なんかを代わりに引き取ってくれていた。
――だって、おいしそうに食べてる顔をたくさん見る方が、うれしいから。
「そっか、大人になったもんね」
笑う泰生の声が胸に沁みていく。泰生は何も変わらない、あの頃のままだ。
そういえば、と切り出された昔の話に懐かしい記憶を引っ張り出す。温かい思い出で胸を満たしているうちに、時計は〇時を回っていた。
「ごめんね、長電話しすぎた」
「ああ、ほんとだ。楽しくて気づかなかった」
優しい声で笑う泰生に、今更の感謝が湧く。結局、あれから次の酒は注いでもいない。グラスの氷は、完全に溶けていた。
澪ちゃん、と呼ぶ声がして、視線を上げる。向こうに真志の部屋を見たあと、逸らした。
「もう、飲まなくても眠れる?」
どこか切なく聞こえた問いに、目を閉じ長い息を吐く。冷え切った部屋も、今は私を傷つけない。
「うん……ありがとう」
「良かった。俺も今日はよく眠れそうだよ。じゃあ、おやすみ」
挨拶を返して、温もった携帯を置いた。明日が楽しみなんて、いつぶりだろう。
小さく笑い、グラスを洗う。突然感じた背後の気配に、総毛立つのが分かった。彼女が、多分触れるほど近くにいるのが分かる。動かない指先に、グラスから溢れた水が伝う。浅くなる息を落ち着けて、口を開く。恐怖はまだあるが、今はそれだけではない。
「どうすれば、あなたを助けられる? 誰を捕まえて欲しいの?」
そこが分かれば、私にもできることがあるはずだ。悲劇のために死んだのなら、「私と一緒」なら、救われて欲しいと願っている。
「じぶん、だけ、たす……かろうと、する……なん、て」
でも、答えは思っていたものとは違っていた。私だけ助かる? あ、と納得しそうになった時、目の前に両手が浮かぶ。一つは手首まで、もう一つは肘まであった。まるで、そこで切断されたかのような。
冷たいものが肌を這い上がった瞬間、両手は躊躇うことなく私の首を掴む。まるで掲げるように、軽々と私を持ち上げ始めた。爪先が床を離れると、手が一層首に食い込む。手放したグラスが、床で硬い音を立てた。逃れたいが、今回も私は触れられない。私より高い位置で向き合った顔は、この前見たものと同じように腫れ上がっていた。そんな殺され方をすれば、無念しかないだろう。
「……助け、たいの……ほんと、に」
「澪子!」
聞こえた声に目一杯視線を下へ移すと、視界の端に真志が駆け込んで来た。
「お前が恨んでんのは俺だろ! 俺を殺せ、澪子に手を出すな!」
やっぱり、心当たりがあったのか。でも目の前の彼女はびくともせず、また首を絞める手に力を込めた。
「やめてくれ、エリ!」
悲痛に響く声にも、腫れ上がった瞼の隙間から私を見つめる昏い視線は揺れもしない。
助けたいと、本当に思ってるの。本当に。
もう声にできない思いを、必死に視線で伝える。私と一緒なら、死んでもなお同じように苦しんでいるなら。
耳鳴りの向こうでもう一度声が聞こえたあと、全ては暗闇に飲まれて消えた。
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