第11話

 翌日、補修を終えた曼荼羅を隣町にある古刹へ届けに向かう。本当は市内での用事ついでに住職が寄ってくれる予定だったが、私が変更を希望した。

「ああ、これはこれは綺麗に直していただいて」

 年老いた住職は法衣の袖を払って老眼鏡を掛け、座敷に広げた曼荼羅を眺める。緊張の一瞬だ。

 補修の依頼を受けた胎蔵界曼荼羅は、『大日経』の教えを現したものらしい。この一幅は、大日如来を中央に四百十四尊がほぼ刺繍で描かれていた。こちらと『金剛頂経』の教えを現す金剛界曼荼羅を合わせて、両界曼荼羅と呼ぶ。普通は必ず対で用いられる片方だけが補修に来た理由は、この胎蔵界曼荼羅だけが長らく「手元になかった」からだ。ある檀家の孫が祖父の死後、遺言書に従い返還しに来たらしい。

 手元から消えた時に通報していれば、すぐに捕まり曼荼羅も美しく保たれていただろう。でも住職は、一般的なその方法を選ばなかった。ただじっと、持ち主の改心と戻される日を待っていた。

「お任せくださったので、現在の色味に合わせました。最後まで金剛界曼荼羅と合わせるかどうか迷ったのですが、なかったようにしてしまうのが最善の策とは思えなくて」

 目元の皺を深くして嬉しそうに頷く住職に、ようやく安堵する。何度か仕事を請け負ったあとの「おまかせ」なら怖くないが、住職とはこれが初めての仕事だった。文化財ではないものの歴史ある一幅だし、私は美術品修復の専門家ではない。答えを探すために何度か寺にも足を運んで曼荼羅について学び、もちろん金剛界曼荼羅も見せてもらった。正しく保管されたもう一幅は多少の色褪せや傷みはあるものの、胎蔵界曼荼羅に比べればまだ色鮮やかだった。それに合わせて修復すれば、何事もなかったかのようにまた対になるのは分かっていた。でも、現在の色味を選んだ。

「喜んでいただけて、何よりです。取り掛かるまでにお時間をいただいてしまって、申し訳ありませんでした。二年もお待たせしてしまって」

「いえ、誠実なお仕事をしてくださったのは見て分かります。仏様も大変お喜びでいらっしゃる」

 住職は刻むように頷きながら老眼鏡を外し、窄んだ目を細めて更に小さくした。齢九十を過ぎた住職は小柄で痩せた人で、ちょこんと座布団に座る姿は「かわいらしいおじいちゃん」にしか見えない。初めての仕事で丸投げするような掴めないところはあるものの、朗らかで懐の深い人だった。お祓いを頼んだ寺の住職は高圧的で恐ろしかったが、住職なら。

 あの、と控えめに切り出した私に、住職は曼荼羅から視線を移す。くすんだ灰色の、穏やかな瞳だった。

「話は変わりますが、住職は、その……霊が見えたりは、なさいますか?」

 怯えつつ尋ねた私に、住職はふっと慈しむような笑みを浮かべる。

「見えると声高に申し上げるほどではありませんが、多少は感じ取れるものもあります。お困りですか?」

 当たりの柔らかい声に怯えの波が去り、安堵の波が押し寄せる。一息ついて、障りが見えることや消せること、今憑かれているであろう幽霊のこと、ついでにある寺にお祓いを頼んだら精神性の問題だと叱責されて追い返されたことも話した。

 住職は口を挟むことなく、頷きながら私の訴えを聞き終える。

「まだお若い住職さんには歯痒くて思えて、叱責という形を取られたんでしょう。私も多くを語るわけにはまいりませんが」

 痰を切るように一つ咳払いをして、好々爺の笑みで私を眺めた。疑いも叱責もない様子に、思わず安堵の息が漏れる。

「その力があろうとあるまいと、私達は為すべきは人間としての日々の営みです。生きていく上で必ずしも必要でないものに、傾倒する必要はありません。今のように生きていかれれば良いでしょう。ただ」

 柔らかな色の瞳が、まっすぐに私を捉えた。睨まれているわけでもないのに、射抜かれたように動けなくなる。

「誤った道を選んでも、強くなることはありません。この曼荼羅に鮮やかな色を当てなかったあなたなら、分かるはずです。どうか、見誤られませんように」

 視線が私から曼荼羅へ移ると共に、体も楽になる。言葉や声はまるで変わらなかったし、視線だってただ私を見ただけだ。初めて感じた威圧感に、今更汗が滲む。

「これでまた、対で掲げることができます。本当に、良い手を入れていただきありがとうございました」

 深々と頭を下げる住職に、応えて私も頭を下げる。二年前に依頼を受けた時は不安で体調を崩したが、叔母の支えもあってなんとかやり遂げることができた。長かった分、押し寄せる達成感も凄まじい。

「ああ、良かった」

 素直な感想を漏らして目尻の涙を拭った私を、住職はまた慈しむような眼差しで眺めた。


 大仕事を終えた報告のため、ケーキを買って店へ向かう。いつものように声を掛けると、叔母はすぐに奥から姿を現した。

「お寺から頼まれてた曼荼羅、さっき納品してきたからその報告」

「ああ、あれ。長かったわねえ」

「うん。でも、すごく喜んでもらえたよ。叔母さんにもお世話になったから、御礼のケーキ」

 甘いものが好きな叔母には一番の御礼だが、体重増加を促すのもあまり良くない。近頃は特に、膝が痛むと椅子に座って作業しているような状態だ。さりげなくカロリー控えめなチーズケーキとシフォンケーキにしておいた。

「そんな気を使わなくていいのよ。私があんたの面倒を見るのは、当たり前のことなんだから」

 叔母は笑って答えたが、技術を出し惜しみ後進を蹴落とそうとする師匠だっていないわけではない。叔母は私に才を見出した時からずっと、厳しくも優しく支え続けてくれている。自身は請け負っていない寺社仏閣や資料館からの依頼を受けるよう言われた時はさすがに諍いになったが、今は負けて良かったと思っている。

「お茶飲んでいきなさいよ、ケーキもあるんだし」

「お茶は飲むけど、ケーキはいいよ。叔母さん用に買ったんだから」

 慌てて遠慮した私に、叔母は嘆息で返す。

「あんたは相変わらずねえ。暁子きょうこも相変わらずだったけど」

 ケーキの箱を手に奥へ引っ込む叔母に続き、私も久しぶりの奥へ入る。トルソーでリメイク中の一枚は、チャイナ襟のゆったりとしたワンピースになるようだ。

「電話があったの?」

「そう。いきなり国際電話かけてきて、実家にある自分の振袖で子供用ワンピースを『ちゃちゃっと』二枚作って送って欲しいって」

 強調された箇所に苦笑し、台所へ入る。食器棚からマグカップと紅茶のティーバッグを取り出した。

「パターンメイドなら二着で十万って言ったら、布はあるのにそんな高いの詐欺でしょ、だって。腹立って『ちゃんと調べてから頼みなさい』って電話切ったわよ」

 叔母は腹立たしげに報告しつつ、電気ケトルのスイッチを押してダイニングテーブルに着く。

「それからしばらくしてまた電話があって、こんなに高いなんて知らなかった、詐欺なんて言っちゃってごめんなさい、改めて十万で二枚お願いしますって。言われたら素直に調べるし、悪いと思ったら素直に謝るのよ。でもねえ、もう三十二よ? いつまで子供の気分でいるのかしらね」

 子供の時に「誠意ある謝罪」が特に重要視されるのは、子供は未熟でミスを防ぐのが難しいと分かっているからだ。でも、大人はそうではない。

「お父さんもお母さんも『ちゃんと素直に謝った』のを評価しすぎてたからね。そのせいで、今も何か失敗しても素直に謝れば済むって心の底から信じてるんだよ。謝る前に、謝らなきゃいけないような行動を減らす努力をすべきなのに」

「ああいうのが、『悪気はない』を免罪符にして嫁をいびる姑になるのよ。性質が悪いわ」

 感情の乗った声が憤懣やる方ないように聞こえて、振り向く。今のは、経験者の声だ。

「元姑がそうだった?」

「そう。あんたのとこは?」

「ちゃんと悪気を持って、『妹さんならねえ』って未だに残念がってる」

 真志のいるところでは言わないのも、悪気を自覚しているからだろう。妹に比べればマシだから、今のところは流している。どうせ離婚、といつものように流れるはずの思考が今日は止まった。離婚、か。

 あの時泰生の並べた写真の順番は小遣いよりキスが最初で、改めて読んだ報告書も同じ流れだった。反対なのは、真志の証言だけ。確かに仕事の情報源なのかもしれないが、それだけには見えなかった。でもこれ以上何を言っても、絶対に認めないだろう。

「その後、真志さんは? 事件はひとまず片付いたんでしょ?」

 図ったかのような登場に、ティーバッグを一つずつカップに落としてまた振り向く。

「担当だって、話したっけ」

「ううん、泰生くんが言ってたの。仕事の息抜きだって言いつつ、ちょくちょく顔見せてくれるのよ。相変わらず、優しい子ね」

 頷いて向き直り、湧いた湯を注ぐ。子供の頃はよく一緒に店へ来て、かけつぎの練習をじっと見ていた。ただ見るだけなんて退屈そうなものだが、いつも目を輝かせていたのを覚えている。

「やっぱりあんたには、泰生くんと結婚して欲しかったわ。あの子にならなんの不安もなく任せられたし、こんなに心配しなくても済んだのに」

 諌めようと振り向いたが、老いた横顔と丸い背が寂しそうに見えて口を噤んだ。

 両親は、未だに私より真志を心配している。

――警部補になられたんでしょ? 真志さんをしっかり立てて、お願いだから顔に泥を塗るようなことだけはしないでね。

 離婚したって、母が私の気持ちを理解することは一生ないだろう。もちろん実家になんて受け入れるわけがない。あんな場所、燃えてしまえば。

 とんでもない方向へ進みそうになった思考に、はっとする。なんだ、今のは。

 どくどくと打つ胸を押さえ、不穏な思考を改めてなぞった。大丈夫だ、そんなことは思っていない。分かり合えないことは寂しいが、憎んではいない。じゃあ、どうして。

――……いなくなったら、戻って来るでしょ。

 あの時のように、何かが思考に滑り込んだのかもしれない。可能性が高いのは、彼女だろう。私と同じように夫に浮気されて……家族に恨みを抱いているのかもしれない。あの暴行はまさか、家族に。

「澪子?」

「あ、ごめん。ぼんやりしてた。紅茶、持ってく」

 ティーバッグを引き上げたカップの中は、いつもより濃い色になっていた。

 抽出を終えたティーバッグを三角コーナーに投げ込んだあと、マグカップを手に作業場へ向かう。

 そういえば、憑いてるかどうかは教えてくれなかったな。

 住職とのやり取りを思い出したが、ひとまず今は忘れて達成を祝うことにした。

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