第10話

「彼女は幼い頃に親を亡くして祖父母に育てられたけど、もう高齢だった。暴れた時に何かあったら大変だと旦那が遠慮したんだ。旦那の親は、とても無理だと拒否した。行政を頼ったところでまず病院にって対応で、病院はまず連れて来てって対応だったらしい。でも連れて行こうとすれば逃げて、それこそ車にはねられるような事態になりかねない。それなら、彼女が暴れるのは家の中だけでつらいのは自分だけだから、このまま自分が我慢すればいいんじゃないかと思ったんだと」

 そうやって、どんどん孤独になっていってしまったのか。居た堪れないものに食欲が失せて、箸を置く。コーヒーの苦味で、胸を整えた。

「職場に電話はいつものことで、携帯には大量の着信履歴と帰宅を促すメールが残ってた。勤務態度は問題なし、職場では『嫁の病気で苦労してる人』って印象だった」

 真志は淡々と朝食を消化するのと同じように、温度なくあの夫婦の間にあったことを明かしていく。

「女は、単身赴任先のデリヘル嬢でな。客として接してる時は、性行為は一度もなかったらしい。呼んで、ただ苦しい胸の内を話すだけで終わってた。赤の他人相手じゃねえと、嫁の世話がつらくて逃げたいなんて言えねえからな。話を聞くうちに女が情に絆されて、付き合うようになったらしい。家族を守らせてくれねえ会社は退職して彼女と離婚し、女と再婚してやり直す算段だった」

 夫に決断をさせたのは、浮気相手か。精神的な負担は察して余りあるものだが、同じ本妻の立場だからかどうしても彼女に同情してしまう。もし私が同じように病気になって真志の仕事に綻びが出るようになれば、離婚届の空欄は即座に埋まるはずだ。

 飲み続けて空になったカップを置き、澱む胸に長い息を吐く。

「ただ、夫婦には相互扶助義務があるからな。相手が病気だからってすぐに離婚が認められるわけじゃねえ。離婚事由として認められるには強度の精神疾患に加えて長期間の治療や看病の実績、離婚後に彼女の世話をする人間や資金が必要だった」

「じゃあ、協議離婚は不可能で調停や裁判するにも条件が満たせず認められないのが分かっているから、自殺に見せ掛けて殺したってこと?」

 カップの底に薄く残った色を見つめながら、震える声で尋ねた。そんなことは、映画や小説の中だけで十分だろう。

「そういうことだな。ただ首吊りの紐には彼女の指紋しかなかったから、彼女が準備したのは確かだ。粗方、彼女が『離婚するなら自殺する』って脅したものの通じなくて部屋で泣き寝入りしてる間に、旦那が煮え湯の準備をしてうまく丸め込んで風呂に行かせた。で、彼女が湯船の方を向いた瞬間に突き落としたんだろうってのがうちの結論だ。叫び声を上げたところで、近所にとってはいつものことだしな」

 あっさりと肯定された不穏な動機が苦しくて、顔を覆う。

「どうだ、聞いて一つでも楽になるようなもんがあったか」

 続いた冷静な声に手の内から顔を上げる。だから、わざと話したのか。

「この先は、オフレコだからな。仙羽にも話すなよ」

 真志は私を一瞥したあと、ブロッコリーをつまみながら続ける。

「これは、無理やりそう結論づけただけだ」

――あれはもう『そういうこと』で手打ちになったんだ。掘り返すな。

 昨日の言葉とは違う向きに、真志をじっと見つめた。真志にも、思うところがあるのか。

「仙羽がなんでまだこっちにいるか、聞いたか?」

 泰生は事件終結後も、ここと東京を行ったり来たりしている。後始末だとは聞いていたが、詳細は聞いていない。頭を横に振ると、真志は頷いてパンを食いちぎった。

「捜査の結末がこうなったから頭は下げたけど、給湯システムが本当に無関係だったのか、実はまだ証明できてねえんだよ」

 もごもごと口を動かしながら、気になることを口にする。

「あいつは六十五度の湯は九十五度にならねえって理屈で突き通したけど、実際にタンクの湯が百八十リットル減ってんだ。タンクから風呂に出た百八十リットルの四十度を、いちいち鍋に汲んで台所で沸かし直すと思うか?」

「じゃあ、やっぱり事故?」

 当然のように湧いた疑問を口にしたが、向かいの首は縦にも横にも動かない。

「あいつはシステムに誤作動はなかったしエラーも出てねえって言ってたけど、システムの誤作動と安全機能の誤作動が同時に起きる可能性はゼロじゃねえ。一度起きたことが続けて起きるのも、なんもおかしいことじゃねえしな」

 確かにそうだ。頷いて、完全に止まった手をさすり合わせる。

――でもうちは、それを教訓に安全面の機能を更に向上させたんだ。俺が、責任者として。

 泰生は、絶対に引けないところだろう。

「ただな。捜査中だから、風呂場はまだ使用不可にしてたんだよ。事故なら、本人に死ぬ気はさらさらねえだろ。しかも旦那は女との未来のためにも、早く捜査を終えて欲しかったはずだ。そんな奴が捜査の邪魔になるのを分かってて、わざと嫁が事故死したかもしれねえ風呂に入るか?」

「じゃあ、やっぱり事件……」

「ということになったんだ」

 ぶっきらぼうに返された答えに、少し驚く。

「納得してないの?」

「あの旦那、火傷がなかったんだよ。腕や脚、胴体も見たけど、それらしき痕は一個もなかった」

 火傷。ああ、そうか。もし突き落としていたら、飛沫を浴びていてもおかしくはない。

「嫁の体格は身長百五十五センチで体重は約八十キロ、湯船に落ちたら激しい水しぶきが立ったはずだ」

「戸口から、棒で押したとか」

「それも考えて戸口から湯船までの距離を測ったけど、約二メートルあった。広い風呂場でな。百七十センチ五十キロの旦那が余すところなく力を使うなら、両手でしっかり握れて勢いよく突き出せる長さの棒が必要だ。でも、適したものは結局見つからなかった。だからといって、旦那も中に入って短い棒で突き落として戻るって方法もな。飛沫と湯船から溢れ出た湯の流れをきっちり全部避けるのは無理がある。防護服着るわけにはいかねえしな。大体、ちょっとでも失敗したら自分も全身に熱湯浴びて大やけどする可能性があるんだぞ。人生のやり直しを画策する奴が、そんな危ない橋渡ると思うか?」

 じゃあ、事故なのか。二転三転する可能性に、頬を押さえて唸った。何が、どこに真実があるのか。

「旦那は女に電話して、『殺してない、行ったら死んでた』と言ったらしい。浮気してるから疑われるんじゃないかと思って、ホテルに逃げ帰って来たってな。で、その辺を改めて訊くために押し掛けたら死んでたんだよ」

「ホテルに泊まってたんだ。律儀だね。すごく残酷だけど」

 浮気相手に気を使ったのだろうが、彼女には残酷な仕打ちだ。夫の中ではもう、優先すべき相手の順位が代わっていた。急に生々しくなった痛みが、胸に迫る。

「お前の感覚で、うちにいる奴が事件に関係あるかどうか分からねえのか」

 初めて投げられた類の問いに、慌てて居住まいを正した。

「そこまでは無理だよ。霊が見えたのも初めてだしね。でも私のところに来たのは、あなたに捕まえて欲しいって頼むためだと思う。今回の件をもっと調べたら、彼女が救われることになるんじゃないかな」

 あの暴行を受けた霊と今回の彼女が同じ人物でないのなら、ほかに何かがあるはずだ。

「まあ、そうだな」

 最後の一口となったパンを頬張って、真志はまたカップを手に取る。なんとなくだから、なんの理由も根拠もない。言うなれば「妻の勘」だ。

 真志はあの霊に、心当たりがあるのではないだろうか。

――捜査のためならなんでもする人だって、あまり良くない噂もちらほら。まあ若くして出世するってのはそういうことなんだろうね。

 気になる声が蘇ったが、問い詰めたところで話してはくれない。

 黙って自分の皿を滑らせたが、すぐに戻されて来た。

「食え。これくらいで食えねえようになるなら、聞くな」

 冷ややかな視線と言葉に、渋々ゆで玉子をつまんで口に運ぶ。それでも、仕事の話を解禁したのは大きな変化だ。ようやく、信頼されたような気がした。

「この事件は、個人でもう少し調べてみる」

 切り出された今後に、ブロッコリーから視線を上げる。

「さすがにこれ以上のことは捜査の肝だから言えねえけど、ほかにも納得してねえことがあってな」

 頷いて、ブロッコリーを食べた。私に言えない部分に、あの霊が関係しているのかもしれない。今は、聞かない方がいいだろう。真志が、何をしていたかなんて。

 食欲が尽きる前にパンの残りを突っ込んで、飲み下した。

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