第9話

 一晩眠れば、あの恐ろしい考えは消えていた。なぜそんなことを思ったのか、心当たりがあるとすれば、あの時の感触だけだ。誰かが私に滑り込み、口を使ったのか。

 朝イチで送ったメールは、通話で折り返される。泰生はおはよう、と明るく挨拶したあとメールの内容に触れた。

「教えるのは無理だね。どこが調べたかは絶対に言わないって契約に署名した上に、倍の料金払ってどうにか受けてもらったから。『この人を敵に回すわけにはいかない』って言ってたよ。捜査のためならなんでもする人だって、あまり良くない噂もちらほら。まあ若くして出世するってのはそういうことなんだろうね」

 良くない噂、か。興味がないと言えば嘘になるが、聞かない方がいい気はする。キッチンの冷えたカウンターを撫で、一息つく。鼻をくすぐる香ばしい匂いに、抽出の始まったコーヒーメーカーを見た。

「それで、浮気の方はどうだったの?」

「認めたような認めてないような。遊んでただけだって言ってる」

「そっか。どうする? 弁護士入れるなら、いい人紹介するけど」

 嘘の痛みが収まる前に、泰生は次の段階へと話を進める。思わず、携帯ごと頭を横に振ってしまった。

「いや、弁護士は……まだ、いいかな。もう少し考えたいこともあるし」

 ひとまずの辞退を選ぶと、泰生は黙る。だから、と続け掛けた時、手から携帯が消えた。驚いて振り向く私を気に留めず、真志は「折辺です」と挨拶しながら廊下へ消えて行く。

 大丈夫だろうか。

 不安はあるが、覗くのは良くないだろう。諦めて、朝食の支度の続きに取り掛かる。

 昨日は結局、泣き疲れた私を連れて真志も戻って来た。子供のようにぐずぐずと泣く私を促して風呂へ行かせて寝かしつけたあと、帰ったかと思ったら隣で眠っていた。日曜の朝にいるなんて、いつぶりだろう。

 水を張った鍋に卵を入れて火に掛け、ベーコンを炒める。耳を澄ましたところで、ベーコンが脂を弾く音しか聞こえない。これより荒い音は聞こえてこないから、冷静に話し合ってはいるのだろう。何を話したのか、真志に聞いたところでどうせ答えない。

 ベーコンを裏返したところで、ドアが開く。予想より早く戻って来た真志は、ダイニングテーブルへ携帯を置いて椅子に座った。

 火を止めて、茹で上がった玉子を冷水に取る。

「なんの話してたの」

「あいつがどこの探偵使ったかだ」

 あっさり返された答えに驚いて、殻を剥く手を止めた。

「言った?」

「いや、契約違反を理由につっぱねやがった。きっちり道を塞いでやがる」

 頷いて、また殻を剥く。一つ目を剥き終えて軽く洗い流し、皿へ置いた。思い出して、冷凍庫から取り出したパンを焼く。

「お前、幼なじみなんだろ。昔からあんな薄気味悪い奴だったのか」

 二つ目の玉子に取り掛かった手が、また止まった。

――俺は、何があっても澪ちゃんの味方だ。それだけは、忘れないで。

 あれに、他意はないだろう。泰生はただ私の味方でいてくれるだけだ。

「ちょっと抜けてるところはあったけど、すごく優しくて大らかな子だったよ。今もだけど」

 胸に蘇る記憶はどれも、温かいものばかりだ。思い出せば感謝が胸に湧く。

「クラスで二人一組になる時には、いつも声を掛けてくれた。私は障りが見えるのが怖くて五年生になるまで保健室や別室登校してたけど、給食の時には呼びに来てくれたし、放課後は一緒に帰ってくれた。休んだ時は、必ずプリント届けてくれたしね」

「初耳だな」

「どこが?」

「全部」

 剥き終えた玉子がするりと指を滑り、水に落ちる。

「言ってなかったっけ」

「子供の頃は暗黒時代だったから話したくねえって言ってただろ」

 掬い上げながら、付き合い始めた頃のやりとりを思い出す。確かにどんな子供時代だったかと尋ねられて、そんなことを答えた気がする。

「食事会で、妹に会ったでしょ? 私と正反対の妹」

「あの、あけっぴろげで情緒も色気もねえ女だろ」

 吐き捨てるように言う真志に苦笑する。まあ、私を気に入る男が妹を気に入るわけはない。

 食器棚から皿とマグカップ、レンジから解凍を終えた冷凍ブロッコリーを取り出す。

「昔から明るくて活発な妹は大人気で、みんなに愛されてた。私の周りで妹より私を気に入ってくれてたのは、叔母さんと泰生くんだけだった」

 半分に切ったゆで卵とベーコン、ブロッコリーを皿に盛りつけ、カップにコーヒーを注ぐ。タイミングよく鳴ったトースターから、パンをつまんで引っ張り出した。

「泰生くんは、初めてできた友達だったの。体が弱くて幼い頃はよく臥せってたけど、全部障りのせいでね。助けたくて触れた時、初めて消せるものだと知った。それから、自力で障りを寄せつけなくなるまで障りを消し続けた。泰生くんは中学から東京に戻ったけど、その頃にはもう大丈夫になってたよ」

 朝食を載せたトレイを手に、ダイニングテーブルへ向かう。

「てことは、俺もそのうち大丈夫になるのか」

「いや、あなたはならないと思う。泰生くんは子供で、まだ跳ね返す力がなくて背負ってただけだった。あなたは元々背負いやすい体質みたいだし、刑事をしてるから」

 トレイをテーブルに置き、二人分の食事を並べていく。最後に塩とドレッシング、バターを並べて席に着いた。

「人のネガティブな面に日常的に触れてる人は、そうでない人に比べればやっぱり背負いやすいんじゃないかな。刑事とか医者とか」

「そういうことか」

 真志は納得した様子で答え、朝食に向かう。

「あなたは、ずっと優等生だったんでしょ」

「言ってねえぞ」

「お義母さんが言ってた」

 真志の家は公務員一家で、定年退職した義父母は元県庁職員、義兄は市役所職員だ。もっといえば義兄の妻である義姉も同職だから、公務員でないのは私だけ。一方、海運業を営む我が家の父はその四代目で母は専業主婦、海を渡った妹は向こうでボランティアに勤しんでいる。義弟になった妹の夫は、軍人だ。

――斎木のおうちとご縁ができるのはありがたいけど……お姉さんの方なのね。

 初めて義実家に訪れた時、義母は二人きりになるタイミングを見計らって残念そうに溜め息をついた。言われなくてもひしひしと伝わる落胆に、視線を落とした。あれから約十年経ち、子供のいない今は「やっぱりあなたじゃねえ」と溜め息をつかれている。でもそれは、うちの母も同じことだ。離婚を切り出したことは伝えていないが、伝えたところでどうせ。

 ふと背後に感じた気配に、思わず振り向く。

「なんだ」

「今、気配がして」

 やっぱり、まだいるのだ。あの事件は解決したとしても、別の事件が残っている。向き直り、割ったゆで卵とブロッコリーにまとめて塩を掛ける手を見る。

「考えたんだけど、彼女の旦那さんが過去に集団暴行で若い女性を殺して捕まってなかったって可能性はない? それなら障りの中で見えた映像も納得できるし、あの女性がまだ『捕まえて』って言った理由も分かる」

 真志はゆで卵を口に運んだあと、しばらく間を置いた。確かにこれは、一度突っぱねられた先にあるものだ。少し不機嫌そうに見える眉間から視線を逃して、パンをかじった。

「経歴を洗ったけど、それっぽいもんはなかった。子供の頃から、真面目が服を着たような奴だったらしい。浮気してたって言ったら全員が驚いたあと、仕方なかったのかもねって反応だった」

 やがて伝えられたのは、明らかに捜査内容だった。これまでは口にしようとしなかったし、多分してはならないものだろう。じゃあどうして今、話しているのか。

「彼女は一度、病院に掛かってる。二度目からは逃げ出して、署にも一度保護した記録が残ってた。外を出歩いて他人に危害を加えるようなことはなかったけど、家の中では毎日のように奇声上げて暴れてたらしくてな。旦那は単身赴任先から帰って来る度に、近所に頭を下げて回ってた」

「家族や、行政のサポートは?」

 そんな状況を夫一人で、しかも単身赴任しながら支えるなんて無理だろう。

 真志は戸惑う私を見ないまま頷き、コーヒーを口に運んだ。

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