二、

第8話

 事件は予想どおりの書類送検で終わりを迎えたが、メディアからはとっくに消え去っていた。給湯システムの問題について一方的に報じた責任は、結局取られないままだ。警察関係者の方も唯一頭を下げたのは真志のみ、公的な謝罪はなかったらしい。

 もっとも、当の真志からはなんの報告もない。あれから二回、障りを抱えて戻ってきただけだ。あのミサンガは、予想よりちゃんと仕事をしているらしい。私の不安を察せないわけはないのに、何も聞かなかった。不安になればなるほどあの声は大きく、はっきりと聞こえるようになった。

 一度お祓いを受けに除霊で有名らしい寺へ行ったが、碌に話も聞いてもらえないまま精神性の問題だと叱責されて追い返された。その一件で完全に心が折れて、以来もうどこにも行ける気がしない。近頃は叔母が「離婚しなさい」と口にすることも増え、店に行くのもつらくなっていた。そんな鬱々としていくだけで救いのない日々に、変化が起きたのは十月最初の土曜日だった。

「待たせてごめん。刑事を調べて欲しいって言ったら、拒否する探偵事務所が多くてね。あと、その後のことを考えて二週間頼んでたから」

 リビングへ通した泰生は、コーヒーを口に運んだあと傍らの茶封筒からクリアファイルを取り出す。

「こっちは、スナックのママ。店ではママの彼氏って扱いで、長い付き合いみたいだね。店を出てキスして、小遣いあげて別れたらしい」

 泰生はファイルから取り出した写真を、ダイニングテーブルに次々並べていく。暗くはあるが、煌々とした照明に照らされた顔は、確かに真志だった。

「あとは、二週間で三回通った風俗店があった。こっちは付き合ってるわけじゃないだろうけど、同じ女性を指名してはいるみたい。継続的な利用と考えれば離婚事由にはなるでしょ」

 店に入って行く姿と出て行く姿が、三組。並べられた写真に、喉が干上がっていく。座っているのに、落ち着かない。背骨が抜けたようにふらつく体に、テーブルへ手をついた。

「この先は弁護士に」

「黙って!」

 思わずきつく言い返したあと、顔を覆って長い息を吐く。こんなはずではなかった、こんな。

――わ、たしと……いっしょ。

 一緒ではないと跳ね返すために、調べたはずだった。まさか、本当に。

「ごめんね。じゃあ、俺はひとまず帰るよ」

 向かいから落ち着いた声がして、我に返る。手を下ろした先にはもう、姿はなくなっていた。

 傍にあった手が慰めるように頭を撫で、指先が髪を梳いていく。

「俺は、何があっても澪ちゃんの味方だ。それだけは、忘れないで」

 髪の流れを割った指先が、頬に触れる。伝うように撫で下りたあと、離れた。

 少しずつ遠ざかる音はやがて、分厚いドアの向こうへと消える。

――それでも、俺はお前がいいんだよ。

 並べられた写真の隣に置かれていた報告書には、文章での詳細な報告と共に別宅の住所もあった。部屋へ連れ込んだ様子は、この二週間にはなかったらしい。

「……どうして」

 呟いた時、背後から生温い風が吹く。湧き上がった不快な感覚と噴き出す汗は当然、覚えている。湧き上がっていた涙が急に収まり、上っていた血の気が引いていく。

 肩に、ゆっくりと重みが載る。視界の端に、髪の長い女性の横顔が映る。まっすぐな黒髪の向こうに見えた鼻筋が、歪んでいた。

「わか、った、でしょ……はやく、つか、まえて、ころし、て……」

 すぐ傍で聞こえた声に、目を見開く。どういうことだ。

 動揺に胸がいやな音を打ち始めるが、指一本動かせない。

「はや、く……」

 肩に載っていた首が視界の前に進み出る。でもそれは、おかしいだろう。首の下には、体が繋がっているはずだ。頭に浮いた汗が、こめかみを伝い始める。息は小刻みに揺れるが、やはりほかはどこも動かせない。

 顔が前に出るほどに、長い髪が肩を撫でて落ちていく。顔は少しずつこちらを向きながら、私の真正面に来る。

 声が出ていたとしても、凍りついてとても出せなかっただろう。

 鼻筋は途中から大きく曲がり、片目の周りは紫色に腫れて、もう片目は……潰されたのか血に塗れていた。殴られたのか腫れ上がった頬を血が伝う。殺されたと、はっきりと分かる顔だった。

 でも、そんな。まさか、まだ解明されていないことがあるのか。

 ああ、そうだ。いつか障りに飲まれた時には、悪意に満ちた数人の手があって……夫が殺したのなら、一人分のはずだ。

 彼女は腫れ上がった片目で私を見つめ、薄く笑う。そのまま、空気に馴染むようにして消えて行った。

 ふっと体の強張りが取れ、テーブルへ突っ伏す。漣だつように寄せる震えに荒い息を吐く。目を閉じ、全身の不快が消えるまでじっと待った。


 真志の別宅は、署から徒歩で五分も掛からない場所にあった。車を止めて帰宅を待つこと約一時間、部屋に灯りが点いたのは十時を過ぎた頃だった。土曜なのに仕事に出ていたのだろう。車を降り、証拠の写真を携えてアパートの敷地へ足を踏み入れる。虫の声を聴きつつ表に回ってすぐの、鉄階段を上った。家賃二万と報告書にはあって驚いたが、確かにそれに見合った雰囲気だ。廊下の電気は切れているところがあるし、共有部分は雑多なもので汚れていた。確かに、女性を連れ込むには適さない。

 真志の部屋は二階の一番奥、角部屋だ。荒れ始めた息に深呼吸をしてゆっくりと通路を進む。安っぽいドアの前に立ち、震える指先で古びたチャイムを押した。

 姿勢を正すことしばらく、鍵の音がして勢いよくドアが開く。

「お前、なんで」

「話があるの。あなたの、ことで」

 か細く揺れた声に、見据えていた視線が落ちる。無言で中へ戻る真志に続いた。入ってすぐに台所があって、奥に和室。古い作りの部屋だった。見る限り家具や家電は必要最小限で、色気はない。

「仕事のもんを投げてるから、見るなよ」

 真志は座卓の上に広がっていた資料を掻き集め、裏返して隠す。確かに、あちこちにファイルや仕事に必要そうな本が積まれていた。それに紛れて、口を縛ったコンビニの袋がいくつか投げてある。整然とした家の部屋とはまるで違い、雑然としていた。

「部屋を借りてたことは、気づいてただろ」

「うん。でも、部屋を借りてるのも帰って来ないのも仕事のためだと信じてたから、黙ってた」

「それ以外にねえよ」

 ほかの可能性を否定する真志にバッグの中から写真を取り出す。今日、泰生が私にして見せたように座卓へ並べると、真志は溜め息をついた。シャツ姿の胸元をだらしなく開け、裸足だ。ビールの缶を見るに、仕事終わりの晩酌するところだったのだろう。

「どこの探偵使った」

「そんなの、どうでもいいでしょ」

「よくねえんだよ!」

 荒い声に、横の壁が鈍い音を立てる。隣の住人か。真志は舌打ちして肩で息をし、写真の一枚を手に取った。

「知らないの。私が頼んだんじゃないから」

「インテリクソ眼鏡か」

 眉間に皺を走らせながら、真志は睨むように尋ねる。そんな視線を向けられても、悪いのは泰生ではない。真志だ。

「仙羽さんね。私があなたの浮気を疑って苦しんでるのを見て、助けてくれたの。スナックのママと長いこと付き合ってるのも、この風俗店で同じ女性を指名し続けてるのも知ってる」

「仕事だ」

「浮気が仕事」

「浮気じゃねえ、仕事だ」

 真志は遮るように返したあと、隣の壁を一瞥してビールを飲む。荒い息を吐いて、口を拭った。

「両方、俺の情報源だ。飲み屋と風俗は、自分の客じゃない情報もすぐに共有される場所だからな。通報されるより早く掴みにいくために必要なんだよ」

「なんで、通報されてからじゃだめなの?」

 これまでは遠慮して尋ねなかったが、この際気になることには全部突っ込んでおくべきだろう。真志はまた缶を傾けたあと、首を回した。

「俺がこの年で警部補になれたのは、周りより早く情報を掴んで実績上げてきたからだ。これ以上出世はしねえけど、仕事のやり方を変える気もねえ」

「なんで、女の人だけなの?」

 丸め込まれそうな空気に、必死に食いつく。真志は項垂れて、あのな、と言った。

「男もいるし、男とも喋ってんだよ。でも浮気調査なんだから、そんな役に立たねえ写真撮るわけねえだろうが」

「ああ、そっか」

 そこはすんなりと腑に落ちて頷く。確かに男性との写真を見せられても、それで? となるだろう。

「じゃあ、仕事の一環として女の人とキスしたり」

「あれはいい情報だったから報酬をはずんだら、向こうがふざけただけだ」

「風俗の人は?」

「情報を回収して、メンタルのフォローして終わりだ」

「二週間に三回も行く必要ある?」

「今追い掛けてるヤマがそいつの客なんだよ」

 うんざりした様子で返す真志のそれは、演技に見えなくはない。何せ相手は刑事だ。素人相手に本心を隠すのなんて、朝飯前だろう。

「ほんとに、してない?」

「してねえよ。大体、なんでこんな話になってんだ。俺を有責配偶者にして調停に持ち込むつもりか」

「ううん、そうじゃないの。あの霊が何度も『わたしといっしょ』って言うから。お風呂で亡くなった彼女なら、あなたが浮気してるって教えてくれてるのかなって」

 似た臭いを感じた真志に憑いてうちに来て、写真立てを落として警告した。首を絞められた理由は今も分からないが、何かが気に触ったのかもしれない。

「あと、もう一つ気になることを言ってた」

「なんだ」

「この調査結果を受け取ったあと、初めて顔を見たの。『分かったでしょ、早く捕まえて殺して』って、凄まじい暴行受けたあとみたいだった」

 しばらくは恐ろしくて思い出したくもなかったが、時間が経つほどに哀れに変わってきた。きっと凄まじい痛みと恐怖を味わったのだろう。

 多分、浮気の証拠だけなら私は今ここにいない。ぐずぐずと考えて、言えないまま泣き寝入りしていたはずだ。彼女を救う手掛かりを得るために、腰を上げたのだ。

「これが、風呂で亡くなった女性だ。この顔だったか」

 真志は携帯を取り出し、一枚の画像を私に見せる。茶髪でふわっとしたパーマヘアの、ぽっちゃりとした女性が柔和な笑みを浮かべていた。多分、まだ元気だった頃のものだろう。この先に死が待ち受けているなんて思いもしない頃の。今更胸に堪えるものがあって、落ち着けるように息を吐く。

「どうかな。顔立ちはぼこぼこだったから分からない。でもこの人より痩せてて若そうで、黒髪のストレートロングだったよ。じゃあ、どこか違うところで連れて来た霊なのかな」

 思い出せる特徴を伝えた私に一瞬、缶を掴んだ真志の視線が滑った。

「いや、急に来たのは間違いなくあの現場だ。ずっと誰かに見られてる感覚があったしな」

 私の視線を避けるでもなく堂々と缶を傾けたが、一度引っ掛かったものはなかなか消せない。だからと言って、詰め寄ったところで素直に話すような男ではないだろう。

「あの事件は、本当に夫が妻を殺して自殺したの? 不審な点はないの?」

「あれはもう『そういうこと』で手打ちになったんだ。掘り返すな」

 冷たく閉じられた先に、びくりとして身を引く。これ以上は、聖域か。

「仙羽に、どこの探偵を使ったか聞いてくれ。あと、女達のことは適当に『遊んでたっぽい』とでも言っとけ」

「なんで?」

 身の潔白を主張したいなら、そんな嘘をつく必要はないだろう。真志は仰ぐように缶を傾けて飲み干し、軽い音を響かせて置いた。

「俺の情報源があの女達だって探偵が流したら、あいつらが危険なんだよ。客の情報を刑事に流してんだからな。最悪、殺される」

 ああ、そういうことか。でも、それなら。ふと、何かが背に触れたような気がした。

「……いなくなったら、戻って来るでしょ」

 ぽそりと零した声は、私のものではないようだった。じゃあ、誰のものなのだろう。

「澪子」

 真志は顔色を変えて私の前に来ると、両手で私の顔を掴んだ。

「しっかりしろ。お前、そんな女じゃねえだろ」

 悲痛な声で訴える表情が、滲んでいく。ほかの人のためなら、そんな顔もできるのか。

「じゃあ、どんな女なの? 帰って来なくても黙って待って、浮気してても『仕事だから』で納得するような、都合のいい女?」

 堪えきれず泣き出した私を、真志は抱き締める。

「そうじゃねえから、泣くな」

 しゃくりあげる私を宥めて、腕が力を込めた。

「全部、俺のせいなのは分かってる。こうして別に部屋借りてんのも離婚切り出されたのも、お前にこんなこと言わせたのも」

 肩越しの声は、切羽詰まって聞こえる。初めて聞く声だった。

「俺を初めて助けた時、お前は怯えて涙目で、正直何言ってるのかもよく分からなかった。けど、俺を助けたいって心底思ってるのだけは伝わったから、任せたんだ。体が楽になって初めて、お前がどんな決断をしたのか分かった。消したあともまだ、俺と視線を合わせられないほど怯えてたしな。俺は、気の弱いお前が恐怖を越えて人を助けるカードを切った強さに惚れたんだ。お前は、救う側の人間だ。殺す側じゃねえ」

 眩しい蛍光灯に目を閉じると、涙がまた伝い落ちていく。

 私を選んだのは、障りを消せるからではなかったのか。結婚十年目にして初めて知った理由に、長い息を吐く。真志のシャツを握り締めて、もう少し泣くことにした。

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