第7話

――……死亡した事件との関連性を引き続き調べています。

 あの家で女性の夫が自殺したと知ったのは、翌日のニュースだった。でも背後で鳴った固定電話の方が、より私を愕然とさせる知らせを告げた。

 タクシーの運転手に二千円を握らせて降り、救急入り口に駆け込む。

「あの、すみません。先程こちらに運び込まれた折辺は、どちらに」

 廊下を歩く看護師を捕まえて尋ねる背後で、奥さん、と声がした。振り向くと五十過ぎに見える胡麻塩頭の男性が、ぺこりと頭を下げる。看護師と会釈で別れ、改めて頭を下げあった。

 真志は現場で倒れて意識を失い、救急車で搬送されている最中に目を覚ましたらしい。頭を打ったため念のためCTを受け、今は点滴中だった。真志は自分に何かあっても私には連絡しないよう周りに言っていたが、最近ずっと「嫁に逃げられる」とぼやいていたため気遣われたらしい。

――昨日、「詰んだ気がする」と言ってたんで。あなたの話、よくされてますよ。

 私には全く仕事の話をしないくせに、職場では私の話をしていたのか。話題にできるほど、一緒にいたこともないくせに。

 私以外誰もいない待合室の片隅で、スカートのポケットからできたばかりのミサンガを取り出す。スーツの袖から見えても目立ちにくいように、ひとまずチャコールグレー一色にした。高校時代、サッカー部のマネージャーをしていた友達に頼まれて量産したが、あの時以上に必要なものが込められていない気がする。

 溜め息をついてポケットに突っ込んだ時、処置室のドアが引かれて真志が現れる。視線が合った瞬間、ぶわりと涙が湧き上がるのが分かった。急に震え始めた手で顔を覆い、抑えられない感情の濁流を必死に宥める。影が近づき、隣に座ったのが分かった。

「泣くな、生きてるだろ」

「分かってるけど、止まらないの」

 答えて、しゃくりあげる。私だって、救急ですすり泣くような不吉な存在になりたかったわけではない。でも、止まらないのだ。

「こうなるって分かってたから、知らせねえようにしてたんだよ」

 拭っては伝う涙をそれでも拭いながら、隣を見る。今日も相変わらず、真志はどす黒い障りを背負っていた。なんとなく、酷くなっている気がする。

「お前が向いてねえのは、俺が一番良く分かってる」

 でも、と続けようとした時、ファイルを手にした看護師が真志を呼んだ。一息ついて腰を上げ、真志は看護師の元へ向かう。

――ほんとに、いいんですか。この子は昔から内にこもりがちで、誰かと話すより一人で針を動かすのを好むような性格で……気弱で脆いところがありますし、取り柄は手先が器用なことくらいです。しっかりしてなきゃいけない刑事さんの妻が務まるかどうか。

 母が顔合わせの席で口にした率直な評価は、今も忘れられない。父も「下の娘でしたら快活なので安心してお任せできるのですが」と妹を引き合いに出して渋った。

 確かに妹は昔から活発で物怖じしない子で、高校と大学はチアリーディングで活躍した。その後チアリーディングを極めたいと渡米し、向こうで結婚して今や三児の母だ。太陽とか向日葵とか、そんな表現がぴったりの華やかさだったが、あっけらかんとしすぎていて悪気なく私を傷つける妹でもあった。

――結婚? 良かったじゃん、おめでとう! あたし、お姉ちゃんは一生結婚できないと思ってたよ!

 会えば私だけが傷つくから、できればこのまま違う世界で生きていきたい。まあとにかく私は、「結婚する」と言えば相手が気遣われるような娘だったのだ。

 真志は会計のファイルを手に戻ってくると、再び隣に腰を下ろす。

「立てるか」

 言われて立ち上がろうとしたが、脚に力が入らず再び座ってしまった。

「まだ無理みたい。脚に力が入らない」

「なら、もうちょっと待つか」

 真志は椅子に凭れ、足を組む。

 霊の類だってもちろん怖いが、首を絞められた時だってちょっと寝転がっていれば元に戻った。これは、それ以上の衝撃だったのか。

「ごめんね、弱くて」

 過去の記憶を思い出したせいで、余計に凹んでしまう。

――しっかりしてなきゃいけない刑事さんの妻が務まるかどうか。

 さすが親だけあって、子供のことをよく分かっている。私に、務まるわけがなかったのだ。

「それでも、俺はお前がいいんだよ」

 ぼそりと聞こえた声に隣を見ると、顔は視線を避けるように向こうへと逸れていった。

――私は、澪子さんがいいんです。苦労はさせてしまいますが。

 まだ、変わっていなかったのか。

 一息ついて洟を啜り、真志の背に触れる。しつこい粘りが少しずつ消え、やがて手が透けて見える薄さになる。彼女の恨みはよほどのものなのだろう。倒れるほどの障りだ。

 ようやく消えた障りに安堵し、ポケットからミサンガを取り出す。傍にある手を掴んで膝に載せ、結んだ。少しでも効果があればいいが。

「そうだ。病院に来た時に会った年配の刑事さんが、二日くらい出なくてもいいからって言ってたよ」

「まあ、もう後始末みたいなもんだからな」

 真志は溜め息交じりに返して眼鏡を外し、眉間を揉む。

「ニュース、自殺と見てって言ってたけど」

 少し声を潜めて尋ねると、真志は周囲を窺ったあとで肩を寄せた。

「おんなじ死に方だったんだよ。首吊りの紐も、風呂の温度も一緒。どうやったのか、辻褄合わせはこれからだけどな」

 信じられない内容に、思わず真志を見つめた。同じ、死に方。

「旦那が、どうにもぎこちなくてな。疑って捜査してるうちに、女がいることが分かった。昨日の電話は、ようやくその女をつかまえたって連絡だった。女の話では、旦那は仕事を終えてすぐ向こうを立ってた。別れ話をするためにな」

 前回の情報とは打って変わった内容に、愕然とする。病気の妻を支える、誠実な夫ではなかったのか。

「ま、その辺りの情報を掴んで踏み込んだが既に、ってわけだ。しばらく県警無能批判が押し寄せるから、SNSは見るなよ」

「大丈夫。元から苦手でしてないから」

 そうか、と答えたあと、真志は一息つく。

 私も深呼吸をして、ようやく力を取り戻したらしい足首を軽く回してみる。腰を上げると、今度はちゃんと立てた。

「行けるか」

「うん」

 歩き出した真志に続いて、会計窓口へ向かう。周囲が騒がしくなり始めてすぐ、遠くで救急車のサイレンが聞こえ始める。重病か、一刻を争う怪我か。少し間違えば、真志もこうなっていたかもしれない。

「なんか昼飯、食って帰るか」

 聞こえた声に足を速めて隣に並ぶ。

「いいけど、車で来てないよ。運転できそうになかったから、タクシーで来た」

「なら、上の食堂か」

「ううん。病院は、障りを背負った人が多いから」

 控えめに答えたところで、救急外来窓口に辿り着く。

「そうだったな。じゃあ、ひとまず支払いしてくる」

 支払いへ向かう背を見送って、ドアの向こうを眺める。シルバーカーに座る老齢の女性と携帯をいじっている若い女性に、障りがまとわりついていた。多分二人共、原因不明の症状か、病名はついても薬が効かない状態だろう。でも、声を掛けて消すわけにもいかない。赤の他人に「障りがあります、触って消します」と言われて受け入れられる人なんてそうそういない。真志に声を掛けた時も、しどろもどろで怪しさしかない状態だった。あれで、よく受け入れられたものだ。

 苦笑して背を眺めた時、ふと彼女の言葉を思い出す。

――わ、たしと……いっしょ。

 彼女は、事故に見せ掛けて夫に殺されたのか。誠実なふりをする裏で愛人を作り、裏切っていた夫に。

「CTしたから結構取られたわ」

 しょっぱい顔で戻ってきた真志と共にドアをくぐり、夏を思い出すような陽射しに肌を晒す。

「近くのうどん屋までタクシーで帰って、食ったあとは歩いて帰ればいいだろ」

「そうだね」

 あちいな、と真志は眩しさに目つきを悪くしつつスーツの上を脱いだ。

 浮気ではなく仕事だと信じていたのは、「信じていた」からであって確証はない。

――それでも、俺はお前がいいんだよ。

 すんなり信じて絆されてしまったのは、私が単純すぎるのだろうか。これまでにない感覚に胸が澱んでいくのが分かる。色濃い影を連れて歩く真志の後を追いつつ、細長いシャツの背を見つめた。


 彼女の夫は、病に苦しむ彼女を捨てて浮気相手と一緒になろうとしていたらしい。

「あとは、その辺を調べて書類送検して終わりだろうね」

「謝罪、してもらった?」

 泰生の表情を窺いつつ、残りの依頼品を一枚ずつ畳んでいく。これまでより遅いペースの作業に焦ったが、どうにか仕上がり予定日には間に合った。

「まだだね。書類送検を終えてからじゃないかな。よっぽど俺に謝りたくないんだよ」

 そう、と答えて溜め息をつき、紙袋を広げる。まだ渋っているらしい。

「旦那さん、忙しそうだね。現場の責任者だし」

「そうなの? よく知らないの。この前障りのせいで倒れたけど、翌日には仕事に出ちゃって。それから帰って来てない」

 本当に仕事なのか、別宅で誰かと暮らしているのか。あのミサンガが効いて障りがつかなくなっているのなら、帰って来る理由はもうない。

「夫が現場から連れて帰って来た霊がいるって言ったでしょ? 事件は解決したはずなのに、まだいるの」

 事件の解決と共に消えると思っていた気配はまだ、寧ろ以前より近くにいる気がする。まさか、書類送検を待って成仏するつもりではないだろう。

「彼女が殺された理由、聞いた?」

「一応。旦那さんが浮気相手と結婚するためにってことくらいだけどね」

 泰生は、依頼品を詰め終えた紙袋を恭しく受け取る。

「今も時々、『わたしといっしょ』って忍び笑いする声が聞こえる気がするの。考えないようにしても、気づくと考えてる。もしかしたら、夫もしてるのかもって」

 考えないようにと思えば思うほど絡みついて、気づくと仕事の手まで止まっていた。

「じゃあ、調べてみる? もしかしたら、地獄の扉を開けることになるかもしれないけど」

 提案に、ゆったりと結ばれたネクタイのノットから視線を上げる。

 知りたくはないが、このままでは全てに支障が出てしまう。こんな不安を抱えて普通に生きていけるほど、私は頑丈ではない。

 小さく頷くと、泰生は懐かしいものを見るように目を細めて、柔和に笑った。


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