第6話

 真志は予想に反して、今日も帰って来た。でもその理由は、尋ねるまでもない。

「今日も、現場に行ったんだね」

「ヤバイ現場だと分かってても、行かないわけにはいかねえからな。これのせいで頭が半分も働かねえ」

 相変わらずの粘りつくような障りを消し、一息つく。霊がここにいても、死に場所にも念が残っているのだろう。夜には消せるとしても、楽な状況ではない。

「お前、御守みたいなもん作れねえのか。数珠とかいろいろあるだろ」

「でも数珠はパワーストーンが必要でしょ。これから注文してたら遅くなる」

 今あるものといえば布と糸……ああ、そうか。

「ミサンガならあるもので作れるよ。どれくらい効果があるか分からないけど、あとで作ってみる」

 地味な色味の刺繍糸を選べば、腕に着けていてもそれほど目立たないだろう。

「なんでもいいから頼む」

「分かった。ごはん食べたら作るよ」

 顔色の戻った真志は、血を巡らせるように首や肩を回す。本当は霊験あらたかな神社仏閣の御守がいいだろうが、調べるにも取り寄せるにも時間が掛かってしまう。

 一仕事を終え、傍らの紙袋を手に部屋を出る。結局、心身へのダメージが大きすぎてパンは夕食に持ち越しになってしまった。

「夕飯、パンだよ。今日、仙羽さんが差し入れでくれたやつ」

「俺は食わん。家に入れてねえだろうな」

「入れたよ、お客様だもん。仕上がった分を取りに来たの」

「自宅で襲われるパターンの加害者は殆どが顔見知りだぞ」

 溜め息交じりに返すと、刑事が忠告する。確かに、普段はそれを避けるために男性客は店を通すようにしている。叔母だ。叔母が問題なのだ。

「ただでさえ現場行って具合悪くなってんのに、あいつに会って余計酷くなったわ」

「仕方ないでしょ、仙羽さんも技術屋のプライドがあるんだから。『給湯システムは関係ありませんでした』って警察が謝罪するまで帰らないって言ってたよ」

 私はキッチンへ向かい、真志は昨日と同じようにダイニングの椅子にどさりと腰を下ろす。疲れた表情を一瞥して、紙袋から一つ目のパンを取り出す。くるみパンは一番好きなパンだ。

「上が頭下げねえことくらい、分かってるくせにな」

 ぼそりと聞こえた声に、視線をやる。

 真志はネクタイを解こうとして、簡単に解けないことに気づいたらしい。ウィンザーノットは、ノットの形はきれいだが解く時が面倒くさいのだ。

「頭下げるとしても現場だけ、要は俺だよ。あいつは、俺が頭下げるのを待ってんだ」

 どうなってんだ、と指を引っ掛けて格闘する姿に、取り出した二つ目を置いて助けに向かう。

――俺も現場の人間だから、上が勝手なこと言った尻拭いをする大変さは身に沁みて知ってる。

 上の代わりに下の者が頭を下げるのは、よくあることなのだろう。泰生は、相手が真志でなくても同じように謝罪を求めていたはずだ。逆に言えば、真志だからと言って求めなくなるわけがない。それは、私情を挟みすぎだ。

「次は、もっとシンプルなのにするよ」

 次、と言ったあとで不自然さに気づいたが、訂正するほどのことでもない。ぐるぐると巻きつけていた流れを解くと、真志は眼鏡を外して私に抱きついた。

「あいつには、下げたくねえなあ」

 ブラウス越しの熱が、みぞおちの辺りを温める。これまでにない行動にうろたえつつ、手持ち無沙汰な手を真志の頭にやった。

「あ、白髪」

「抜くなよ、ハゲる」

 即座に返った答えに笑う。今のところそんな気配はないが、十年後は分からない。十年後、か。

 不意に鳴り始めた着信音に、真志は舌打ちをして体を起こす。携帯を手に廊下へ消える姿を見送って、キッチンへ戻った。滲むように拡がっていく寂しさに、溜め息をつく。

 この感覚さえなければ十年でも二十年でもここにいて、刑事の妻もしていられるだろう。真志の稼ぎだけを目当てにして、自分の仕事や好きなことだけしていればいい。余程の無駄遣いをしなければ、真志が腹を立てることもない。

 私も、割り切ってそう変わろうとしたことはある。でも、無理だった。「金で磨かれた美しい私」や「高級ランチに舌鼓を打つ贅沢」は、心を満たすにはあまりに力不足だった。一通り経験して残ったのは虚しさと一層深まった孤独、なんの責任も取ってくれない流行を追い掛けた罪悪感だけだった。

 気を紛らわせるために実家へ行ったところで祖母と母には子供はまだかと催促され、父にはしっかり支えろと窘められるだけで理解はされない。

 趣味の読書にも没頭してみたが、読めば読むほど感受性が研ぎ澄まされて、感情の収集がつかなくなって諦めた。要は元々の性質が、絶望的に刑事の妻に向いていないのだ。

「着替えて出る」

 真志はリビングへ入って来ると、そのまま自分の部屋へと向かった。

 私が刑事との結婚生活の実情に疎かったのはともかく、真志は知っていたしその洞察力で私には向かないことも分かっていたはずだ。それでも私を選んだ理由は、障りを消せるからだろう。必要とされているのは私の力であって私ではない。でもどこかで、まだ。

 パンを出し終えた紙袋を畳み、真志の部屋へ向かう。真志は早速、着替えに取り掛かっていた。

「しばらく留守にする。二日分、着替え準備してくれ」

 「しばらく」の割に着替え枚数が少ない理由は、知っている。

 新婚の頃、ろくに帰って来ないで洗濯物や風呂をどうしているのかが疑問だった。真志の答えはコインランドリーと銭湯だったが、実際はそうではなかった。久しぶりに通帳記入をした時、独身時代に借りていた部屋をそのまま借り続けていることに気づいた。単身赴任になったあと引き落としは途切れたが、今春、また復活した。

 浮気をする暇があるなら仕事をするだろうから、そこは疑っていない。多分捜査の最中は、捜査のことだけを考えていたいのだろう。私ごときが、仕事に敵うわけがないのだ。

 要求された二日分の着替えを揃え、スーツをガーメントバッグに入れる。

「澪子」

 呼ばれて振り向くと、真志がネクタイを差し出す。黙って受け取り、今日は一番簡単な結び目を作っていく。

「今のが片付いたら休み取るから、旅行でも行くか」

 思い切り胸を揺らす台詞に、手元がブレる。一旦解いて、もう一度結び直すことにした。

「行かない」

「澪子」

「期待して裏切られるのは、もういやなの」

 今度はちゃんとできた結び目を胸元に収めて、整える。

「できたよ。いってらっしゃい」

 顔を見ないまま告げた言葉は、突き放すように響く。真志は黙って、私の前から消えた。振り向かないまま追っていた音は、すぐに聞こえなくなっていった。顔を覆い、長い息を吐く。

 不意に刻むような笑い声がして、ゆっくりと手の内から顔を上げる。震えと汗、粟立つ肌の反応にも慣れてきた。でも、もう分かり合えないと知っている。

「わ、たしと……いっしょ」

 背後から聞こえた女性の声に、目を見開く。続いた忍び笑いは卑屈で、決して心地よいものではなかった。私と一緒、か。

 やがて気配が消えるのを待って、キッチンへ戻った。

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