第5話
予定どおり十二時過ぎに姿を現した泰生に、補修箇所を確認してもらう。
「シャツは、すぐに着られるようにアイロン掛けといたから」
「ありがとう」
大きな垂れ目を緩ませて嬉しそうに笑う泰生は、十年前にはなかった縁なしの眼鏡を掛けていた。楕円形のレンズが、角のない甘い造作によく似合っている。真志は長方形の銀縁だが、あれはあれで尖った顔立ちによく似合っていた。
「ほかのはもう少し掛かるから、昨日の予定どおり一週間後でね」
「うん、大丈夫。まだ当分いると思うし」
引っ掛かる予定にシャツを畳む手を止める。
「今回の件、そんなに掛かりそうなの?」
「うん。警察に『給湯システムは関係ありませんでした』って謝罪してもらうところまでが仕事だから。謝罪されたところで業界の株価がどれくらい戻るかは分からないけど、このままでは終われない」
メディアでは、センバの給湯システムだとは報じられていない。その分、業界全てで痛み分けをする形になったのだろう。確かにあれが事件でありシステムにはまるで問題がなかったとしたら、いい迷惑どころの話ではない。真志は、どこまで関わっているのだろう。
「あの刑事さん、やっぱり澪ちゃんの旦那さん?」
「そう。ごめんね、口が悪いでしょ」
「いや、仕事になったら俺も似たようなもんだよ。まだ若いのに警部補なんてすごいね」
口の悪い泰生は想像し難いが、それより初めて聞く真志の評価に戸惑った。
「そうなの?」
「旦那さん、ノンキャリでしょ? 三十八で警部補なんて、一握りだよ」
「そうなんだ。仕事の話は全くしないから」
大卒で地方公務員として働いていることくらいはさすがに知っているが、その程度だ。
「おばさんが、離婚したいのにさせてもらえないって」
身内からの迫撃砲に、項垂れて顔を覆う。叔母が泰生を気に入っていたのは知っているが、それはそれ、これはこれだ。離婚もしないうちに次を勧めるのは、さすがに礼を失する行為だろう。
「で、『澪子どうよ』って言われたんだけど」
「ごめんね。歳のせいか、年々気遣いと倫理観が磨り減ってて」
「いや、大丈夫だよ。ちゃんと諌めといたから」
予想以上のものが含まれていた泰生の答えに、手の内から顔を上げる。泰生は人懐こい顔でにこりと笑った。
「確かに澪ちゃんのことは好きだから結婚できるものならしたいけど、離婚をしていないうちから手を出したり、それを目的として離婚を促したりするのは人道に悖る行為だと思ってる。何より、そんな行為の片棒を澪ちゃんに担がせたくないしね。子供時代の俺が泣いて怒るよ」
まるで当たり前のように願望を伝えられたが、「そうだね」と無邪気に受け入れられるわけはない。
「クリーンさに安堵する自分と詰めの甘さに頭を抱える自分が、せめぎ合ってるよ」
苦笑して、シャツとスーツを収めた紙袋を差し出す。
「私は泰生くんの性格を知ってるから大丈夫だけど、既婚者に『好き』とか『結婚できるものならしたい』とか言うのもだめだよ。粉をかけてるみたいだから」
「ああ、本当だ。良くないね、ごめん」
泰生は受け取りながら、すまなげに苦笑して頬を掻いた。
十年前はおろか、子供の頃から変わらない姿に安堵する。泰生が孝松から仙羽に戻ったのは、実母の死が切っ掛けだった。父親がいるとはいえ、義母や義弟との生活はつらいものだったはずだ。
大人になれば、あんな幼い子供が絶えず障りを背負うおかしさに気づく。あれは死んだ誰かのものではなく、生きている誰かの念だったのだろう。でもあんな暗いものをピンポイントで泰生にぶつける人間なんて、一握りしかいない。
ただ十年前も今も、泰生の背に障りは見えない。生来の気質で打ち勝ったのだろう。
「話は変わるんだけど、実は今、多分そのお風呂で亡くなった女性の霊がうちにいるの。夫が連れて帰って来たみたいで」
泰生も当然、障りのことはよく知っている。切り出しても驚くことなく、そうなんだ、と頷いた。
「今日はまだないけど、昨日は何度か気配があってね。足が見えた時に『捕まえて』って言われたの。それで事故じゃなくて事件なのかなって思ってるんだけど、あの家にあった給湯システムで人を殺すのは可能なの?」
「いや、今回の住宅に設置されていたタイプでは不可能だよ」
泰生は受け取った紙袋を置き、表情から笑みを消す。十年前は技術部の主任だったが、今は係長らしい。経営ではなく、技術屋として現場で働く道を選んでいた。
「今回の事件で警察が給湯システムのエラーを疑う理由になったのは、遺体発見時の湯温が九十五度だったことでね。ちなみに、どんなシステムかを簡単に説明すると」
スーツの内ポケットから取り出したメモを開き、簡単な図を描く。
「まず夜間のうちに専用のユニットで湯を沸かして、この屋外タンクに三百リットルから四百リットルくらい溜めておく。そして日中は生活に合わせて、設定された温度になるよう水と混合してから配水管でキッチンやお風呂に送るんだ。お風呂だったら四十度くらいだね。そして警察は第一報に、この混合時にエラーが発生して熱湯を張ったんじゃないかと『事故の可能性』を盛り込んだ。熱湯なのに気づかず足を入れ、そのショックで湯船に滑り落ちて死亡したんじゃないかってね」
確か遺体は朝発見されたと、昼前のローカルニュースで報じられていた。全国区のワイドショーに登場したのは多分当日ではなかったが、報道内容は事故に偏っていた。事件と事故の両方で捜査を続けていたとしても、メディアは「給湯システムの事故」を強調した方がより視聴者の興味を惹けると判断したのだろう。泰生が丁寧に仕組みを説明してくれた内容は、既にテレビで説明されて知っていた。
「でも、それは不可能なんだよ。このタイプの沸き上げ温度は、確かに九十五度まで設定できる仕様にはなってる。でも調べたらあの家の設定は六十五度で、タンク内にもそれに近い温度の湯が残されていた。六十五度の湯を四十度にはできても、九十五度にするのは無理がある。もし沸き上げ機能にエラーが出て九十五度まで沸かしたのなら、湯船だけじゃなくタンク内も九十五度じゃなければおかしいんだ」
泰生はペンを置き、腕組みをする。確かにその仕様なら、タンクより湯船の湯温が高いのはおかしい。納得できる説明だった。
「これがもし利用する度に温めるタイプだったら、考えられないわけじゃない。実際、数年前に他社がそのタイプで同じような事故を起こしてるしね。でもうちは、それを教訓に安全面の機能を更に向上させたんだ。俺が、責任者として」
予想外の展開に、泰生を見つめる。だから、派遣されてきたのか。
「あの家に設置されていたシステムには、最新の安全機能が搭載されてた。なんのエラーログも吐き出さず人を殺す温度の湯を張るなんて、ありえないんだよ。だから今、電力会社とも協力して完璧な証拠を準備してるとこ」
泰生は閉じたメモ帳とペンを内ポケットへ戻し、一息つく。
「あの給湯システムで事故に見せ掛けて殺すより、誰かが風呂に熱湯を張って女性を突き落とす方がよほど難易度は低いよ。これは事故じゃなく、事件だ。どうやったかは知らないけどね」
短く鳴った音に気づいて、泰生は携帯を取り出す。しまった、長居させてしまった。
「ごめんね、忙しいのに引き止めちゃった」
「気にしないで、話ができて嬉しかったよ。あとこれ、差し入れ」
泰生は振り向き、後ろのチェストに置いていた紙袋を差し出す。
「この前ふらっと寄ったパン屋さんがおいしかったから、そこのパン」
受け取って紙袋を開けると、ふわりと立ち上る香ばしさが鼻をくすぐる。急に、お腹が空いてきた。
「わあ、おいしそう。ありがとう」
「一人だとちゃんと食べてないだろうと思って、いろんなの買っといた」
「仕事してると、まあいいかって抜いちゃうんだよねえ」
紙袋を手に部屋を出て行く泰生のあとに続き、見送りに向かう。
「昼から警察署に行ってくるよ。旦那さんとは毎度けんかしてるけど、別に嫌いじゃないからね。俺も現場の人間だから、上が勝手なこと言った尻拭いをする大変さは身に沁みて知ってる」
「ありがとう」
――あのインテリクソ眼鏡、知り合いか。
精神性と度量の違いを目の当たりにして、苦笑する。真志はもう少し、大人になるべきではないだろうか。
「まあそれはそれ、これはこれで助けが必要な時はいつでも呼んで。おかげで小金持ちにはなれたから、澪ちゃん一人夜逃げさせるくらい余裕でできるよ」
「……ほんとに、夫のこと嫌いじゃない?」
窺う私に、泰生は明るく笑った。
「じゃあこれ、ありがとう」
「うん。ほかのは全部済んでから連絡するから」
よろしく、と泰生は笑顔でドアをくぐり、子供のように手を振った。振り返して見送り、閉じられたドアに一息つく。不意に耳元で聞き慣れない音がして、反射的に視線をやる。何も見えないのは良かったが、胸は何かを察知してざわついていた。まるで、歯軋りするような音だった。事件がすぐに片付かないから、苛立っているのだろうか。
「今、夫が事件を調べてる。もう少し、待ってて」
振り向いて、誰もいない廊下に話し掛ける。目には見えないが、確かに「いる」のだ。
ふと背後に気配を感じたが、今度は振り向かない。背中に突き刺さる視線に、大きく吸った息を細く吐く。手のひらに滲み始めた汗をスカートで拭った。
少しずつ、気配が近づいているのが分かる。粟立っていく腕を撫で、恐怖に浅くなる息を深く吸う。できることなら叫んで逃げ出したいが、足は竦んでいるしそんな度胸もない。
「犯人、できるだけ早く見つけるから」
掠れた声で告げるが、消える気配はない。やがて感じ始めた息苦しさに喉を押さえる。何を巻きつけられたのか、首が絞められていくのが分かった。
「お願い……やめて」
顔を仰がせ、荒い息の間に訴える。私は事件を明らかにできる刑事でも、技術者でもない。霊能者とも呼べない、ただ障りが見えるだけの凡人だ。
喉が濁った音を立てた時、不意に力が消えて楽になる。崩れ落ちるように座り込んで、ひとしきり荒い咳を吐いた。一気に顔に血が巡ったせいか、顔が熱くてふらふらする。座っていられず、廊下に転がった。
知らず伝い始めた涙を拭い、震える手を握り締めて縮こまる。理解できればいいと甘いことを願っていたが、相手は近づくだけで冷や汗が浮く、障りを生み出すような霊だ。
決して相容れないものを思い知って、洟を啜った。
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