第4話

 真志が帰宅する理由は障りと性欲の解消だから、予告どおり帰って来たのに驚いただけで、目的に驚く要素はない。でももう、これまでのように受け入れるつもりはなかった。

「着けてね」

 これまでにない要求をした私に、真志は体を起こす。朧な常夜灯に照らされる、筋肉の流れを眺めた。その体に、私の知らない傷はどれくらいあるのだろう。

「持ってねえよ」

「買ってある。そこの引き出し」

 ベッド脇にあるチェストを指差すと、溜め息が聞こえた。

「指輪外して避妊して、次は何したら気が済むんだ」

「判を押してくれたら、それで終わるよ」

「離婚はしねえって言ってるだろ」

「なんで? もう限界だって、散々言ってるじゃない。あなたは良くても、私はもう……刑事の妻なんて無理だよ」

 涙声で訴える私に、真志は黙って顔をさすり上げる。俺は、とぼそりと聞こえた時、背後で携帯が高らかに着信音を鳴らした。

「っざけんなよクソが!」

 突然の荒い声にびくりとしたが、だからと言って無視するわけがない音だ。こんな大事な話をしていても、選ぶのは私ではない。

「呼び出しでしょ。もう、行って」

 引っ張り上げた布団に肩口まで埋もれ、背を向ける。ベッドの軋む音がして、真志が離れていくのが分かる。ドアの向こうで途切れた呼び出し音は、いつもどおり敗北の合図だ。

 洟を啜りながら体を滑らせ、ベッド下に落とされた下着を探す。指先でブラをつまんだ時、低い視界に薄く透ける足が見えた。血の気が引く一方で、全身から汗が噴き出す。胸が早鐘を打ち始め、肌は小刻みに震える。真志を呼びたいが、荒い息を吐くばかりで声が出ない。お願い、気づいて。

「……つか、まえて」

 か細く聞こえた女性の声に、固く瞑っていた目を開く。足はもう、消えていた。

 そうか、私が聞いたから。

 がばりと体を起こしてベッドから飛び下り、ワンピースだけ被って寝室を出る。玄関の方で、音がした。

 待って、と掛けた声に真志は振り向く。ノーネクタイでシャツの前も開けっ放しのだらしなさに、思わず苦笑した。

「なんだ」

「さっき幽霊を見たの、足だけだけど。『捕まえて』って、か細い女の人の声だった。犯人、捕まえて」

 女性の願いを託した私を、真志はじっと見据える。

「分かってるよ。それが俺の仕事だ」

 少し間を置いて答えたあと、自嘲の笑みを浮かべた。返答に詰まり、なんとなく手を伸ばしてシャツを引き寄せる。黙ったまま、一番上を残してボタンを留めた。

「ネクタイは」

「えっ……じゃあ、出してよ」

 戸惑いながら答えると、真志は上着のポケットから丸めたネクタイを取り出す。結ぶ以前の問題だろう。軽く整えてから首に回し、高校卒業以来のネクタイを締めていく。でもあの頃は自分のネクタイだったから、他人のを締めるのは初めてだ。

「太いな」

 真志は結び目を確かめながら軽く揺する。

「ごめん、違う結び方が良かった?」

「いや、いい。なら、行ってくる」

「うん。気をつけて」

 出て行く背を見送って、長い息を吐く。

 犯人を捕まえて、か。

 何も考えず滑り落ちた言葉を、胸の内で繰り返す。店に泥棒が入った時も、なんの疑問も持たず頼った。真志は被害者だった私達に、一番寄り添って安心させてくれた。自分の秘密を話してもいいと思えるほどに感謝したから、障りに触れたのだ。

――それが俺の仕事だ。

 被害者にとっては、この上なく頼りになる刑事だろう。でも、家族になってしまったら。

 今更迷い始めた決断を連れて、ベッドに戻った。


 見慣れぬ番号が携帯を鳴らしたのは翌日の昼前だった。

「はい、折辺おりべです」

「もしもし、澪ちゃん? 泰生です。忙しいとこごめんね、今話しても大丈夫?」

 予想外の相手に、ルーペを外して伝票を手に取る。私の連絡先は知らせていなかったが、叔母が教えたのだろう。暗躍するのはやめて欲しい。

「大丈夫だよ、どうしたの?」

「実はさっき、シャツを全部クリーニングに出しちゃったことに気づいてね。明日着るシャツがないんだ。澪ちゃんとこに出したやつ、今日取りに行かせてもらえないかな」

 泰生らしい抜け具合に懐かしさを感じて、ほっとした。

「いいよ。シャツとスーツ上のボタン付けはもう済んでるから」

「良かった、助かるよ。じゃあ、十二時過ぎに取りに行く」

「了解。住所はメールで送るね」

 ありがとう、と明るい礼を最後に通話は終わる。なんとなく温まった胸に感謝して、シャツにアイロンを掛けておくことにした。

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