第3話

――澪ちゃんと一緒にいたら、怖くないし寂しくないね。

 泰生は、センバの現社長と前妻の間に産まれた息子だ。両親の離婚で母親と共に母方実家のあるここへ、確か二歳か三歳の時にやって来た。斎木と孝松たかまつの家は昔から交流があり、特に祖母同士の仲が良かった。その縁から私と泰生も自然に出会い、仲を深めていった。

 私達は同級生で、私は障りが見えるために、泰生は体が弱いために引きこもりがちだった。でも泰生の体の弱さは生来のものではなく、障りによるものだった。泰生はあんな幼い頃から、障りを背負って生きていた。

 初めて触りを消したのは、原因不明の病で苦しむ泰生を助けたいと願いながら触れた時だった。どろりとした障りに飲まれて見えなくなっていた泰生が少しずつ姿を現し、やがて息を吹き返したように目を開いて笑顔を見せた。

――澪ちゃんが助けてくれたんだね。ありがとう。

 泰生はその後、育つにつれて少しずつ障りを跳ね除けられるようになっていった。東京へ戻ることになった小六の時にはもう、私の助けが不要なほど強く逞しく成長していた。

 『久しぶりだね、連絡ありがとう。取りに行くからまた連絡して』

 泰生からの返事は卒なく、感傷らしきものもない。前回の転勤時にはいろいろあったから少し心配だったが、さすがにもう大丈夫か。

――俺、大人になったら澪ちゃんと結婚できると思ってた。

 十年前は、結婚の報告をした私にとんでもないことを言い放った。

 私にとっても泰生は初恋の相手だったから、その未来を考えたことがなかったわけではない。でもその選択に至るには、継続的かつ細やかな交流が絶対的に必要だろう。携帯もメールもある時代に育ちながら、なぜ年賀状のやり取りだけで大丈夫だと思ったのか。泰生は昔から鷹揚で穏やかな性質だったが、絶妙な塩梅で抜けているのだ。あれでちゃんと仕事ができているのか、老婆心ながら心配になってしまう。

――あのインテリクソ眼鏡、知り合いか。

 まあ真志と揉められる程度には、優秀なのだろうが。

 一息ついてルーペを外した時、玄関で音がする。昼間の現象を思い出してびくりとしたが、そうではないらしい。まさか、本当に帰ってきたのか。作業中のパンツを置いて振り向いた時、ドアが開く。

「なんだ、この塩」

 怪訝な表情で窺う真志を、じっと見据えた。まさか帰ってくると思わなかったから、夕飯の準備も風呂の支度もしていない。

「なんだ」

「いや、本当に帰って来たと思って」

 苦笑した私を鼻で笑い、真志は小皿を手に取る。塩の様子に変わりはないが、おかげで作業には集中できた。一定の効果はあるのかもしれない。

「あなたが出て行ったあと、変な感じがしたから塩を盛って置いてたの」

「今日消してもらったやつのせいか」

「多分ね」

 七時を過ぎた時計を確かめ、作業台のランプを消して腰を上げる。受け取った小皿を手に、キッチンへと向かった。

「帰って来ると思わなかったから、準備してないよ。適当に出前取って食べて」

「お前は何食うんだ」

「冷食の素うどんだけど」

「俺もそれでいい」

 真志は答えながら、ダイニングテーブルの椅子を引き出して座る。それならまあ、ねぎでも刻むか。取り出した鍋にいつもより多めに水を入れ、火に掛けた。

「ビール飲むなら買ってくるけど」

「いや、呼び出しがあるかもしれねえからやめとく」

 真志は上着を脱いで椅子に掛け、ネクタイを緩めた。そういえば、捜査中か。そんな最中に帰って来る余裕があったとは。

「警部補になったから、多少融通が利くようになったんだよ」

「何も言ってないよ」

「顔に『帰って来られるじゃねえかクソが』て書いてある」

「そんなに柄は悪くない」

 それでも、外れてはいないのだからタチが悪い。帰って来ないし心は読むし、刑事の夫なんて勧められるものではない。冷凍庫を開けてうどんを取り出したあと、野菜室からネギと塩蔵わかめを選ぶ。わかめの塩を洗い流し水に漬けたあと、ねぎを刻んだ。

「あのお風呂で亡くなった女性、旦那さんと仲良かった?」

「なんで」

 沸騰した湯にうどんを滑らせつつ、視線に応える。眼鏡を外しても、炯眼は少しも和らがない。

「障りがこんな風に残るのは初めてだからよく分からないけど、何か私と引き合うものがあったからかもと思って」

 落とすものはなんでも良かったはずなのに、なぜ私達の写真を選んで落としたのかが気になっていた。

「メーカー勤務の営業マンで、家を建てたばっかのとこに辞令が下って四月から単身赴任中だった。でも嫁の病気を受けて帰還の申請を出し続けて、今度退職するところだったらしい。会社は、週末に帰って世話しつつ折り合いをつけながらやってくれって考えだったらしくてな。あの日は、嫁の様子を見るために帰って来て遺体を発見したらしい」

「そっか、ちゃんと愛されてたんだ。じゃあ違うな」

 もしかして、「やり直せ」方面のお節介なのだろうか。そっちは、もっと必要ない。

 水洗いして絞ったわかめを一口大に切り、ほぐれたうどんを鍋に確かめる。

「やっぱり、私なら少しは感じ取れるからってだけなのかもね」

 食器棚から丼を二つ取り出して、振り向いたところで目が合った。

「えっ、何?」

「なんでもねえよ」

 真志は不機嫌そうに返して溜め息をつき、会話を拒否するように携帯を取り出す。まさか、さっきのあれで機嫌を損ねたのか。溜め息をつきたいのは、こちらの方だ。

 器に鍋から引き上げたうどんを二等分し、刻んだわかめを載せる。

「あなたなら帰還申請なんて出さないし様子見にも帰って来ないし、私が死にそうになってても事件を選ぶでしょ」

 刻みねぎを散らしたあと、思い出して天かすとかつおぶしも振り掛ける。

「あなたは、そういう人だもの」

 予定では具なしの素うどんだったのに、まともな一品になってしまった。どうしてまだ、こういうことをしてしまうのか。

「先に食べてて。お風呂掃除してお湯入れてくるから」

 できあがったうどんとつゆをダイニングテーブルへ運び、バスルームへ向かう。冷たいシャワーを頭から浴びたかったが、三十五歳の解決方法としてはあまりに未熟だ。

 手早く風呂を洗い、泡を流す。水を弾く鏡に映る、不安げな表情に溜め息をついた。幼い頃から障りに怯えながら育ったせいなのか、大人になっても顔立ちから線の細さが抜けない。下がり眉と潤み目のせいで、友達には散々「幸薄そう」「未亡人ぽい」と言われ続けた造作だ。年齢と共にこけてきた頬と一つに束ねただけの髪が相俟って、近年はますます薄幸具合が加速している。まあこの十年の結婚生活に相応しい顔つきになったのではないだろうか。真志が判を押さない限りはこの先も、ずっとこのまま。

 虚ろに漂わせていた視線を、ふと滑らす。鏡越しに合った視線に、勢いよく振り向いた。

 ……誰もいない。でも今、確かに「誰か」と目が合ったのだ。

「何か、言いたいことがあるの?」

 思い切って尋ねてみるが、答えは聞こえてこない。ぞわりと粟立つ落ち着かない肌を撫で、湯船に栓をして蛇口を捻る。湯の温度を確かめて、再びリビングへ戻った。


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