第2話

 帰宅後、作業台に依頼品を広げて再び補修する箇所を確かめる。どれもそれほど大きなものではないから、一週間でいいだろう。手に取った伝票には、携帯番号に加えてメールアドレスが記入されていた。電話をかけるよりは、メールの方がいい。

 携帯電話を取り出した時、玄関で音がする。チャイムを鳴らさないのは、客ではないからだろう。携帯を置いて振り向くと同時に、作業部屋のドアが開いた。

「澪子、悪い。頼む」

 黒々としたものを背負って現れた真志は、具合悪げに床へ腰を下ろして背を丸める。疲れ切った様子で眼鏡を外し狭い眉間を揉む指先は、相変わらず痩せて尖っていた。

「どす黒いけど、溜め込んでたの?」

「いや、ちょっと前に急に来た。今抱えてる現場のせいだろうな」

 後ろに回って背中に向けた手が、ふと止まる。

「それって、お風呂で女の人が死んだ事故?」

 思わず尋ねた私に、真志は肩越しに鋭い視線を向けた。ああ、しまった。

「珍しいな。気になるのか」

「そうじゃないけど」

 真志の仕事内容は、暗黙の了解と消え失せた関心により長らく踏み込んだことのない話題だ。もちろん最初からこうだったわけではなく、はぐらかされたりごまかされたりしているうちに学んだのだ。真志が話すこと以外、仕事について「聞いてはいけない」。

――今、何をしたんですか。

 真志と出会ったのは二十三歳の春、叔母の店に泥棒が入った事件が切っ掛けだった。あの時もどす黒いものを背負って現れ、一人だけ顔色が優れず具合悪そうにふらついていた。私の目にそれが見えてしまうように、真志はそれを背負いやすい体質らしい。通りすがりの人なら見ないふりをするが、真志は一番親身になって捜査し犯人を捕まえてくれた刑事だった。その礼として、背負っていた「障り」を消したのだ。

 突然楽になった体に真志は当然のように驚き、理由を尋ねた。

――どうしてか分からないけど、幼い頃から人に憑いた黒いものが見えるんです。

 まあ人の形だったことはないし、体調を崩している人のものしか見えないから「障り」と呼んでいるだけで、正確な名前は知らない。「黒っぽくてさらさらしたもの」から「どす黒くてべったりしたもの」まで、質感はさまざまだし症状もピンキリだ。でも幼い頃の私にとって、得体の知れない黒いものに苦しめられている人の姿は恐怖でしかなかった。人の多い場所に行くのを嫌って引きこもりがちになったのも、致し方のないことだろう。「くろいのがみえるからいや」と訴えたところで、家族は誰も理解してくれなかった。

 それはともかく、打ち明けた秘密のせいで目をつけられてしまったのだろう。熱心に口説かれて付き合い、最後は半ば押し切られる形で結婚した。私が二十五、真志は二十八だった。

「離婚しても、障りはこれまでどおり払うのに。お金を取ったりしないし」

 何度となく伝えたことを繰り返すと、真志は溜め息で応えたあと黙る。離婚したい私としたくない真志で話し合いは平行線のまま、単身赴任が終わったところで生活は何も変わらない。元々、ほとんど家にいなかった夫だ。

 期待しては傷つき、信じては裏切られ、この十年で心がずたぼろになった。私は「刑事の妻」を全うできるほど強くはないし、これ以上強くなれない。

 一息ついていつもどおり障りに手を突っ込み、真志の背中へ触れる。触れているだけで障りが消えていくのは、小学三年生の時に発見した。

――澪ちゃんが助けてくれたんだね。ありがとう。

 驚いて手を見つめる私に、血色を取り戻した泰生は嬉しそうに笑った。

「今日のは、結構しぶといね」

 いつもより濃密な障りは、沼のような感触だ。亡くなった女性の無念が詰まっているのかもしれない。

「大丈夫そうか」

「うん、なんとか」

 触れ続けることしばらく、障りが薄くなるにつれて真志の息が深くなっていくのが分かる。これを良かったと思う気持ちが残っているうちに、もう私を自由に。

 胸に湧く痛みに俯いた瞬間、障りが再び色を濃くして私に襲い掛かる。悲鳴を上げる間もなく飲み込まれた暗闇の中には、悪意に満ちたいくつかの手が待ち構えていた。

「澪子!」

 声に呼び戻されて目を開くと、悲痛な表情を浮かべる真志の顔があった。ああ、と顔をさすり上げて長い息を吐く。

「大丈夫か。急に意識を失って倒れたんだ」

「障りの中に飲まれたみたい。初めてだから、びっくりした」

 腕の中から体を起こし、まだ早鐘を打つ胸を押さえる。あの悪意が亡くなった女性に向けられていたのだとしたら、相当なものだ。考えられるのは、一つしかない。

「亡くなった女性、いじめに遭ってたってことはない? 飲まれた先で、悪意に満ちた手が見えたの。三、四人くらい」

 踏み込むべきではないと分かっているが、見えてしまったものは無視できない。真志は少し黙ったあと、私の前に胡座を掻いて座り直した。ひょろっとして背が高く肩や腰も細いが、警察学校では柔道を選択して過去には警察柔道大会にも出たらしい。

「いじめかどうか分からねえけど、旦那の話だと数ヶ月前から精神疾患を抱えてはいた。あの日は自殺を考えて梁に首吊り用の紐を準備したあと、風呂に向かってた。まだ新しい家だから近所トラブルも考えられるな」

――仕事の話なんて、聞いても救われない気分になるだけだ。

 初めて聞いた仕事の話は、確かに一つも救いがない。ただそれでも、以前の私は聞きたかった。刑事の仕事に興味があったわけではなく、真志のことをもっと知りたかったのだ。

 頷いて腰を上げ、再び作業台へ向かう。

「何してんだ、寝てろ。倒れたんだぞ」

「あれくらいなんともないよ。仕事しないと」

 出来高で食べていく個人事業主に、休んでいる暇などない。財産分与でこのマンションをもらってすぐ売る皮算用はしているが、売ったところで安寧な老後には程遠い。もっと、稼がなければ。

仙羽せんば泰生?」

「あっ、ちょっと」

 音もなく忍び寄り伝票を覗き込んだ真志に、慌てて裏返す。

「勝手に見ないで」

「あのインテリクソ眼鏡、知り合いか」

 それは、寧ろ自己紹介だろう。

 少し吊った目尻と下向きに尖った鼻先、薄い唇と細い顎。銀縁眼鏡の向こうから冷ややかに見下ろす真志の第一印象は、「頭良さそうだけどなんか怖い人」だった。

「幼なじみだよ。小さい頃から小学校卒業までこっちにいたから、よく一緒に遊んでた。亡くなった女性の家の給湯システムがセンバで本社から派遣されてきた話は、さっき店で叔母さんに聞いたとこ」

 溜め息交じりに答え、伝票を依頼品の下に隠す。

「そういうことかよ」

 真志は舌打ちして、髪を掻き上げる。その袖に糸引きを見つけたが、言ったところで拒否されるのは知っている。

「仙羽さんと揉めたの?」

「大したことじゃねえ」

 否定しないが、全てを言うわけでもない。聞き飽きた言葉だ。

「そう。じゃあもう行って、あなたも仕事でしょ」

 とりあえず簡単なボタン付けからして、玉縁の補修、糸引き、傷みの順でいくか。そうだ、仕上がり予定日の連絡をしておかなければ。

「今日の晩、帰るわ」

 想定外の台詞に振り向くが、真志の姿はもうドアの向こうへと消えていた。玄関を出て行く足音を聞き遂げて、再び携帯へと視線を戻す。

「もう、いい加減にして」

 新婚の時ですら、用意した食事がメール一本で無駄になるのはしょっちゅうだった。メールさえなかった日も一度や二度ではない。突然帰って来なくなって数週間音信不通だったり、帰って来ない間に刺されていたりもした。いつどこで何をして何をされたのか、妻として知りたいことはたくさんあった。でも刺された理由さえ、真志は話してくれなかった。

 結婚二年目からは単身赴任で転勤し、戻って来るのは三ヶ月に一度。性欲が溜まった時と障りを背負った時だけだった。そんな適当で、子供なんてできるはずもない。

――警部補より出世するつもりはないから、昇進したら必ず埋め合わせする。

 募る孤独に耐え兼ね離婚を切り出した私を、そう言って引き止めたのが二年前だ。そして今春、真志はその警部補となって県西部からこちらへ戻ってきた。でも半年経っても、まるで変わらない。死んでいく心に耐えきれず、結婚指輪を外した。

 ふと背後で硬い音がして、糸を探す手を止める。玄関に、何か落ちるようなものがあっただろうか。泰生のシャツを置き、玄関に向かう。部屋のドアを開けて窺うと、たたきに写真立てが落ちているのが見えた。あれは。

「なんで、ここに」

 しゃがみこんで手に取った写真立ては、長らく靴箱に奥にしまい込んでいたものだった。笑顔で映る二人の写真は、両家の親に願われてした食事会での一枚だ。挙式も披露宴もなかった私達には唯一の堅苦しい席だったが、二人ともよく耐えた。

 苦笑して立ち上がった時、ふと足元に重なる影を見る。慌てて振り向いたが、当然誰もいない。ただリビングから漏れる陽射しが、静まり返った廊下に長く伸びているだけだ。

 気のせいだろうか。でもなんとなく、いやな感じがする。落ち着かない胸を押さえて深呼吸し、鳥肌が収まるのを待つ。もしかしたら真志が彼女の霊を連れて来て、置いていったのかもしれない。この手のものがまるで見えない人に比べれば慣らされてはいるだろうが、幽霊は見たことがないのだ。普通に怖い。

 周囲の安全を確かめつつキッチンへ向かい、粗塩を小皿にこんもりと盛って戻る。部屋の前に置いて、ドアを閉めた。これでどれくらい防げるか分からないが、多分何もしないよりはいいだろう。私は、仕事をしなければならないのだ。

 忘れていた仕上がり予定日を泰生にメールし、シャツのボタン付けから作業に入った。

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