そばにいてよね
きつね月
プロローグ――高校二年生、冬
十二月前半の、とある冬の日。
外には乾いた風が吹いて、秋と共に散ってしまった赤い紅葉の葉が忘れ物のようにくるくると舞っているのが見えた。ホームルーム前の朝の教室。空調の効いた教室は気だるく、私はあくびをしながらその長くて短いような時間を待っていた。
「ふああ……」
しかしこの世の中には心配ごとばかりが溢れているという。
まあ、その通りだと思う。
一説によると、人間という生き物は身の回りにあるありとあらゆる心配を見つけ出しては、それを解決することで――もしくは解決とはいかないまでも、なるべく危険のない距離まで遠ざけることで――あらゆる危機からここまで生き残ることができたのだという。
つまり人間とは元来、心配ごとな生き物なのだ。
うん、そうだろうな、と思う。
この比較的平和な現代日本で、まだ社会に出てもいない高校二年生という分際で、探そうと思えば心配ごとなんていくらでも見つけられる。いわんや大人をば、ましてや戦争なんてものが当たり前だった戦国時代をや、それこそ猛獣たちが周りを悠々と歩き回っているなかを暮らしていた原始時代なんて、心配じゃないことの方が少なかったのではないのかな、と思うもの。自他ともに認めるのんびり屋である私がもしそんなところにいたら、瞬殺で消滅してしまうだろうな。
「ふああ……」
――イライラしそうなときにさ、無理にスピードを上げようとすると空回りしてしまうだろうよ。だからそういうときは、のんびりあくびでもして待っていればいいんだ。また笑えるようになるまでな――
幼い私にそんな言葉をくれたのは、母方の祖父だった。
祖父はその言葉通りにいつも穏やかな人で、怒っている姿を見たことがない。私は彼のそんな姿がいいな、と思っていて、そのアドバイスを忠実に守っているうちに、いつの間にか本当にのんびり屋になってしまったというわけだ。
この現代日本にはとりあえず直接の命の危険はない。でも命をすり減らす
「ふあああ……」
そんなことを考えながら、本日三回目のあくびをする。
すると側頭部にちくりと鋭い痛みが走った。
見ると、隣の席にいる
「いたい、なにするの」
私は抗議の声をあげる。
左隣の席に座る叶ちゃんのこちらに伸ばした右手には、つやつやと光るメタリックなシャーペンが握られている。きっとその尖った先端で私の頭をつついたのだろう。高校生にもなってそんな子供のようないたずらが許されるわけがない。万が一芯が折れて頭のなかに残ったりしたらどうするのだ。
しかし叶ちゃんはじとっとしたその目線を崩さず、「あかりが悪い」と開き直った。
「人が必死こいて勉強してる横でそんな無遠慮なあくびをされたらね、突き刺してやりたくもなりますよ」
「必死こいてって……叶ちゃん、それ今日の数学のプリントでしょ。宿題やって来てないだけじゃん」
「うるさい」
家で勉強してくるなんて暇は私にはないの、と叶ちゃんは再び自分の机に戻ってしまう。
叶ちゃんは真面目だけど根が不真面目だ。脳のリソースをなるべく楽をするための方法に割いているって感じ。成績も悪くなくて、いわゆる要領がいいってタイプだけど、その針がちょっとだけ不真面目の方向に振れているせいで、こうして苦労することもあるようだ。
「ていうかさ」
叶ちゃんは手元のプリントから目を離さずに言う。
「あかりはこれ、ちゃんとやってきたの?」
「うん」
私は側面にへんなキーホルダー(猫のようで犬のような、もしかしたら狸にも見えるキャラクターがつぶらな瞳をこちらに向けているという)の付いたナイロン製のスクールバッグから、記入済みのプリントを取り出して見せる。
叶ちゃんはそれを一瞥すると、再び目線をもとに戻して「おかしい」と呟いた。
「あかりってさ、最近真面目だよね」
「そうかな」
「一年の時は宿題なんてやってこなかったじゃん。成績もよくなってるし、おかしいなあ……」
「そ、それはほら、前にも言ったじゃん。家庭教師の先生が来るようになったからだよ」
「ふうん?」
そんな私の嘘に気づいているのかどうなのか、叶ちゃんは意味ありげに語尾をあげてハテナマークを強調したあと「ま、いいけどね」と話を切り上げた。
ふう、と心のなかで一息をつく。
元来、私は嘘が得意な性格ではないのだ。なにかを誤魔化そうとすると普段の自分の姿まで見失ってしまう、そんなタイプだ。それでもなんとか小学校以来の友人である叶ちゃんにそれがバレずに済んでいる(たぶん)のは、その全部が嘘というわけではないからだ。
具体的に言えば「家庭教師の先生」というところは嘘で、あとは嘘ではない。
「……あ」
その時とてもタイミングの悪いことに、後ろのドアが開いて誰かが教室に入ってきた。
誰か、といっても、遅刻寸前の時間、他の生徒はみんな自分の席に座っている。そんな状況で後ろのドアが空いたということは、きっとそれは彼女だろう。
と、そこまで瞬時に理解してしまった私は思わず声が出てしまう。
隣の席の叶ちゃんの耳がぴくりと動いた――ような気がした。
高幡さんはやっぱり今日も、こんな遅刻ギリギリの時間だというのにも関わらず、りん、として学校に来た。
私は彼女の方を向いてしまわないように、左側の窓から外の景色を見ようとして、そっちには叶ちゃんがいるのでそっちも向けないことに気がついて、ふわふわと正面を向いて、そしてまた、普段の自分を見失った。
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