第二十六話/世試亡仁

 結界や空間を作成する類いの能力には、いわゆる処理限界にも似たものがある。例えば人数は何人まで入れることが可能であるとか、どれだけの速度までならば空間内で耐え切れるだとかそういったものがあり、その限界値を超えると超える程に結界の精度は著しく低下して、最終的には空間を維持しきれずに崩れ去る。この空間の耐久性は能力を発動させる準備にどれだけ手間を掛かるかにより大きく左右される。


 サウロ・エテラン様の執務室より侵入したあの空間は圧倒的な前準備によって強大な空間耐久力を有していたために、オレの祝詞と四股で作り上げた結界では処理落ちさせるには至らない。掛けた時間と重みが違うために、だ。


 だが、オレの結界に付与されている特性である「結界内部にある全ての物体の平等化」により、結界内部と外部で空間に大きな耐久差が発生することになり、同一の空間作成によって編み出された空間にそんな穴が生まれれば空間耐久力は著しく低下し、空間の維持のため自動的に除去される。無論、オレの結界である【ジャッジメント】も強大な空間からの外圧で砕け散ることとなるが——問題無し。


 あの空間内のアナウンスで「アズマジロ」と呼ばれていた男とオレは大聖堂の礼拝広間へと排出される。互いの距離はおよそ五メートル……いつ距離を詰め、戦闘が開始しても何ら可笑しくはない距離だ。


「誰だテメェは‼︎」


 アズマジロが怒鳴る。


「名前を訊く時は自分から名乗るもんやで? 知らんかったんか? 学がないなら教えたるで?」


「ンだと? 馬鹿にしてんのか! コノヤローッ‼︎」


「馬鹿にはしてへんよ。ただ、未開人にはちゃーんとルールちもんを教えたらな先進人物として恥ずかしいやろ?」


「ぶっ殺す」


「そうカッカしんなや。お手手震えて得意の太刀筋も揺らいでまうやん」


 耳まで真っ赤にした茹で蛸みたいなアズマジロが、左切り上げ構えで駆け寄ってくる。

 意識はとっくの昔に戦闘モードに移行されていたオレはそんな相手の動きに注目し、アズマジロが間合いに入ると同時に放った刃を肘と膝で挟み込むことで受け止める。止まった刃に一瞬驚き顔を浮かべて、力を込めて押してみたり引いてみたり四苦八苦してはいるけれどオレとてやすやす離して切られてやる程優しくはない。


 それに——いくら優しかったとしても、甘いソウルくんを裏切らせる選択なんて誰にも出来はしないのだ。オレも、ヴァン・アストライヤも。


「どしたん耳真っ赤にして。地域の子供チャンバラ大会とちゃうねんで、白刃取りされたからてキレんなや」


「クソッタレ」


「腐ってへんよ、ピチピチ新鮮やで」


「腐ってね? とは言ってねぇ!」


 軽口を叩き合いながらも戦場は刻一刻と形を変貌し続けて、刀を諦めたアズマジロは流れるような手刀をオレの首筋へと突き立てる。当たったとしても首を穿ち抜く程の鋭さは秘めていないが、しばらく呼吸が難しくはなるだろうな。


「いい手だね」


 このアズマジロという男の才能は底が知れない。

 しかも完成形ではなく、発展途上だろうな……まず確実に。すると、だ——今ここで殺しておかないとコイツはソウルくんの障害になるだろう。それは頂けない、真面目な子にはハッピーエンドが必要だ。ヴァン・アストライヤは知らん。


「でも……」膝と膝で挟んでいた刀は再度アズマジロの手に渡らぬように蹴り上げて、迫り来る手刀は頭を傾げることで首ではなく頬で受け、首程には肉が詰まっていない頬はアズマジロの手刀で破かれ唇の端が耳の近くまで切開される。「甘いんとちゃう? 組み立てだけじゃ戦いは完結せぇへんよ」


「テメェはッ……何なんだよ‼︎ さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃとッ!」


 超近距離での徒手健脚による応酬。アズマジロが繰り出す攻撃の全てを眼で追い、弾くことで最低限の動きながらも確実に自らの防御を行いつつも反撃の機を待つ。


「誰なんだ! 誰なんだお前はッ‼︎ さっさとどけ! どっかに行け! 用があるのはアイツの方だッ‼︎ お前なんざ、どこへなりとも消えちまえッ‼︎」


「やーねー釣れへんやん。ええやんええやん、ちょっとくらい遊んできぃやぁ」


「ダルい! ダルいんだよ! ダルくて面倒臭い! ダルくて逃げ出したい!」


「ええよええよ、尻尾巻いて逃げたらええ。背中見せたら肋骨砕いて心臓だけは置いてって貰うんやけどね」


「クソ! 死ぬじゃんか!」


「お、テンション上がってきたやん。ええことやね、人間元気やないとあかんよ」


「……今だけはこれが憎い」


 徒手では勝てないと判断したのかアズマジロは「南無三ッ」などと意気込むや否や、大きく踏み込むことで顔と顔が接触してしまうのではないかと思われる程の接近を行って来たのだ。ほぼゼロ距離からのアッパーとなると、弾く術はまるでない……弾けたとしても続く攻撃をいなし続けるとはいかないだろう。


 さてどうしたものか。

 倒れたら、刀を拾いに行かれて切り殺されること差し合いだ。つまりあの拳を今ここで受けるワケにはいかないのだ、吸い込んでいる顎なんぞには。


 ——うん。


「やっぱ刀を手放すべきではなかったな」


 顎を狙って打ち上げられた拳の直撃点に顎を引いて頭を下げることで額を持っていき、あえて振り上げられた拳を額で受ける。直撃後衝撃、脳味噌が頭蓋骨の中でのたうち回っているようなイメージが視界を過ぎる。視界は白ばんだ上に明滅しているがぼやけているとは言えども輪郭は掴めるのならばそれで十全、胸部へ指を立てさながら鷹の爪が如き鋭さを持ってして皮を貫き肉を裂く。


 心臓を引き摺り出してやる。

 意気込みは十全だ。


 肋骨と肋骨の狭間へと指は滑り込んで、どくどくと指先が生温かさと鼓動を感じる。心臓までの距離、残るところ親指一本と言ったところで「ふうううぅぅぅぅァァァ」なんて品のない唸り声と共にオレの手首を掴み引き抜こうと力を込める。力を込められたからと安々手を引いてやる謂れはなければそんなつもりもまたまるでない。


 奥歯をギリギリと噛み締め踏み込む脚にも力を込めて、心の臓を握り潰さんと肩から二の腕、肘に前腕そして手首から指先に掛けて力を込めて行く。対するアズマジロの手は力を込めに込めていたために手首を握っていたそれは皮膚を滑って前腕部を両手で握り、必死な形相で押し留めんとしている。


 完全なこう着状態に陥った。

 このまま時を要すれば、いずれ勝つのは胸に五つも穴の空いたアズマジロの方だ。それが一時間後なのか二時間後なのか、あるいは大きく一日後、一週間後、一年後であるのかもしれないけれど——最後に勝つのは、オレの方だ。


「早ぅくたばれ! 阿保ンだらアッ‼︎」


「くたばるのはそちらだ……故、先んじて名を名乗っておくがいいさ」


 アズマジロは武人みたいに言ってきた。

 オレはさて名乗りを上げて勇ましくコイツを葬ってやるべきか、あるいは名乗ることなくこの男をただの一人の襲撃者として処理をするのか悩み……。


「ユリウス。名は持つが命は持たんさかい、そこんとこよろしゅうね」


「そうか……俺はアズマジロ。同じく名は持つけれど命を持たない」


 ニヤニヤと、何だか悪友でも出来たみたいな心地の良い感情が心を揺らがせる。こいつの心臓の鼓動が伝わってくるためか、オレの心の臓も鼓の音色で動かしてくる。


 そんなところであった。

 滅多矢鱈に勢い凄まじく聖堂の扉であることなんぞ知らぬと態度で示し蹴り開けて入って来た一人の人物が、オレとアズマジロを見るや否やナイフなんぞを投擲したのだ。


 アズマジロが引き抜こうと力を込めていた手へ逆に引き込む力を込めて来たので抵抗出来ずに引っ張られてしまい、オレが飛来するナイフの標的へと変貌する。このまま受ければ致命傷とまでは行かずとも充分に重傷を追う羽目になるため致し方なく心臓へと立てていた爪をやむなく引き抜き、両の手を持ってしてナイフを掴み取る。


 その間に勢いを殺すことなく扉を蹴破った威勢ほままで接近するヤツにナイフを投げ返すと、そいつは易々ナイフを受け取り袖口へと格納した。同時進行でアズマジロは解放されるや否や可及的速やかに放った刀の元へ駆け寄り、その手中へ納める。


「すまん、無駄なことした」


 聖堂へ勢いよく入って来たヴァンはオレの隣で止まると、意外にも素直にそう言った。


「構わん。それより、お前は執務室へ急げ」


「いや、ヤツは……危険だぞ。僕も手を貸す」


 キッとアズマジロを睨み付けて構えを取るヴァンだが、今こいつが成すべきことはこれではない。


「ソウルくんが一人だ。応援に行け」


「はぁ? 何してんのお前、馬鹿なの? 何でソウルを一人にしてんだよ。バーカ」


「オレだって手が足りるならやっとるわハゲ。今はあいつで手一杯さかいサクッと行けや」


「……だが、確実にあいつは僕を追ってくるぞ」


「何しでかしたんや、あんたら」


 その質問にヴァンはむむむと一度唸ってから、あっけらかんと答える。


「僕らのせいで奴さんの相方が死んだっぽい」


「自業自得じゃないか、責任取って死んでこい」


「違うのよ。先に襲って来たのはあちらさんで〜」


「逆恨みか」


「大変よね」


「大変そうやね」


 一時の膠着状態を解いたのはヴァンであった。

 力強く床を蹴ったヴァンは階段へ駆け寄ると手すりを右脚で踏み締めて一息の内に二階廊下の木柵に掴まり腕の力だけでよじ登る。その背中を先程とは一転して憎悪の感情を塗りたくった顔で追い駆けようと足を一歩踏み出したアズマジロ。


「世界に対して私は問う。


「揺蕩い、歪み、蝕み、眩み、明日を願う事すら許さぬ世界よ——


「伝導者よ、迷える私を導きたまえ」


 四股を踏む。

 祈祷を六行分省略したことで結界の強度は高が知れたものになってはいるが、しかして内部に付与されるべき平等化の特性を薄めて得た結界発生の高速化は目的を達成しヴァンとアズマジロの分断……即ちアズマジロを【ジャッジメント】内部への封鎖に成功した。


 薄氷の壁に阻まれたアズマジロは振り返り、さながら親の仇のようにオレを睨む。親の仇というかヴァンの話が真実だとしたら相方の仇の仲間になるのだろうか。


「もう遊んでくれないんか? 寂しいやん」


「くたばれッ‼︎ ユリウスッ‼︎」


 叫ぶと早い、担ぐように刀を構えたアズマジロが姿勢を低くしてオレとアズマジロの間に空いた距離を荒ぶる雄丑もかくやな粗々しい吐息を吐き散らして詰めて来た。先程まで浮かべていたどことなく楽しげな表情はどこにも見受けられないし、最早彼の頭脳の中にオレのあるべき場所は無いのだろう。


 悲しいね。

 どうでもいいけど。

 次手は、構えと超低姿勢での移動から考えて切り上げだろう。しかし切り上げを行うにはそうしますよと宣伝するあからさまな踏み込みと構えの変更が必要になる。狙い目はそこか。


 右脚を引き、腰を落として構えを取る。

 アズマジロは精神の幼さが目立って一見するだけでは自身よりも下と評価してしまいそうにはなるが、その実、剣の腕は超一級。有名どころから見たことないような組み立てまで多種多様な流派の剣術を状況に合わせて使い分けてくる。それ故に型にハマっていながら定型通りの対処ではこちらが不利になる……こういう言い方も阿保らしいが不義理な戦い方をしてくる奴だ。油断は禁物だが、人間としてどうしても心のどこかで甘く見積もっている感が拭えない。


 接近。

 アズマジロが移動とはまた別の一歩を踏み込む。来ると予期して構えの変更、その瞬間に仕掛けるつもりだった。だったのだが……。


「——————ッ⁉︎」


 消えた。

 否、背後⁉︎


 オレが仕掛けるべく移動していた重心を戻し背面に目を向ける一刹那前、オレの二の腕は半ばから切断された。ごとりと音が鳴って聖堂の床に腕が落ちる。続く左腕を狙っての切り返しを自ら転び地面を舐めることでことなきを得たが、距離を取って盤面を元に戻したところで失った腕までは戻らない。片腕じゃ格闘は十全に行えない……どうするべきか。


 地面を転がり、走って取り戻したあいつとの距離。あいつは迷う。オレをここで殺しておくべきか、さっさとヴァンを追うべきか。オレは敢えて何もアクションを起こさず上着を脱いで、右手の切り口に固く巻き付ける。止血としては潰した方が話は早いが、それをやってしまうと後でフィフティに繋いでもらえなくなる。


 腕を切り落とされた驚きで結界を維持する神経を失って、ジャッジメントは崩れ落ちちまった。元々結界強度を弱くしてた反動だろう、発生速度を強化したんだから妥当な末路だ。


「もう遊んでくれないのか? ユリウス」


「馬鹿言え。遊びってのは怪我しない範囲でやるから遊びなんやパッパラパー。ヤンチャ過ぎやでアホンダラ」


「じゃあ、行っていいのかな?」


 阿保言えよ。


「このくらいのハンデ喰らってようやくトントンなんだよ。こっからは遊びじゃなくて勝負が始まンだよ‼︎」


 口ではそう言っても正直なトコロ勝負なんざ継続することすらも難しい。もしも接近されれば次の一手は辛うじて防げたとしても二手で死ぬ。


 詰み、か。

 ごめんな、フィフティ。オレは最後の最後まで喰らい付くために少し狡いことをする。約束を破ることになるし、ちょっとだけ迷惑を掛けることになってしまうけれど……そこは飲み込んでくれるとありがたいかな。


「種火に対して手を伸ばす。


「揺らぎ、熱し、拓き、照す、明日へ導く夢を持たせる種火よ」


 肺が熱を帯びて、軽く開かれた口から吐き出される息は異常な高温を浴び始める。


「使徒として篝火をこの身に。


「この身に焔を。


「炉心に熱を。


「冒すべき試練の道は遠く」


 結界の応用には大きく二つの派生方法がある。

 一つは結界自体に付与される特性の有無やその詳細の設定。もう一つは結界の拡大や縮小といった外殻の変貌。


「淵源の鐘の音は遥か遠洋に、薪はここに。


「伝導者よ——」


 本来、詠唱を変えずとも結界の設定変更は可能ではあるのだけれど、意識を切り替える意味も込めて詠唱から変えることによって結界変更の成功率を大きく上げているのだ。しかし、成功率を上げる以前に結界という他の能力よりも優柔の効かないモノを捻じ曲げるには相応の代償が必要となる。


 残りの一節を口にするべく一息つく。

 瞬間、眼前で巻き起こった事象に呆れの息を吐き出して詠唱を停止する。


「忍ッ殺ッ……ってね」


 ヴァンは二階廊下から飛び出すとアズマジロの下へと落下し、踏み潰すと同時にその手に握った剣で昆虫標本よろしく串刺しにした。不可思議な刃のない剣はソウルくんの物だろう……つまり、ヴァンはどうにか間に合ってソウルくん救出後剣を借りて舞い戻って来たのだろう。


「あんがとさん」


「………………」


 あんぐりと口を開き固まるヴァン。


「何?」


「いや、槍でも降るのかなって」


「失礼だな」


 笑い、腕を拾うべく歩み出す。

 ヴァンもアズマジロの死を確かめた後で刀身についた血を払い、オレの後を追って来たのであった。

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