第二十二話/収斂懐古
石壁に反射して身を焼く寒さに覚えがある。
幼い頃に父と共に降りた階段は、同じ寒さを纏っていたから。
父は語った。
「——これを護ることは、この地に棲んでいる全ての人類を敵に回す行為なんだ」
と。
「——それでも護り続ける必要がある。きっとこれが、今出来得る最善の選択肢だから」
父の言っていたことはわからなかった。そして、今でも完全に理解している訳ではない。
いや、この旅を通じて俺は……逆に父の考えを否定する材料を集めていってしまっている。それ自体が悪いことではないと思うし、万人が同じ思想を抱くことなど決してないのだと理解している。
けれど、記憶の奥底にこびりついたカビのような記憶が、姿を現さないままに否定の意思を削いでいく。
何かとても怖いものを見た記憶……。
俺は、それがどうしても恐ろしくて父にしがみついて涙をこぼしたのだ……。
父はそんな俺の姿を見て優しく、しかして困ったような笑顔を作り——俺にヤハウェオブジェクトを砕かせた。護るための力を、変化を抑制する力をもたらすべくヤハウェオブジェクトから能力を得させた。
*
「【緩やかな変化を人間は求め、また自然も緩やかな変革を求める】」
「輪書二章の、人と自然の関係ですか?」
聖堂の地下へと続く螺旋階段を降りる足を止めずサウロさんが口にした言葉の出典を、俺は自身の記憶から導き出して問う。
輪書の第二章は大まかに言えば伝導者ケリィ・キセキ様の考えであるネボアシズムがどのようなものであるのか、その考え方をまとめたものだ。ネボアシズムを学ぶ二章は輪書の中でも最も教義に近しい部分であり、教徒として複数読み返すため必然的に内容を暗記することとなる。
「うむ、正解だとも。輪書の第二章は大まかな概要としては第一章で語られたネボアシズムという伝導者様の考え方……あるいは生き方について語られている。人との接し方、自然との接し方、生や死との接し方——そして、未知との接し方」
幼少から読み続けてきた輪書の内容がパラパラと高速でページをめくって再び意識下に浮上する。
輪書は広義の意味で聖典や聖書として扱われるが、しかしてその中身は伝導者ケリィ・キセキ様の日記であった。自身がどうしようとしているのか、どのように一日を過ごしたのか、どこへ向かっているのか、何を成そうとしているのか、今日の朝食は何だったか、昼食は何を食べたいのか、その日は暑くて憂鬱だったとか、そんな寒くなれとは言っていないだとか……極めて一般的な、良い意味で達観していない日記帳。
「ヤハウェオブジェクトとは本来ケリィ様の所有物であり、ここだけの話、公式的に受け継いだ訳ではない。各地を彷徨する中でケリィ様はヤハウェオブジェクトを世界の要所十ヶ所に設置した。何か意味を成すものであるのは確かなのだが、ケリィ様はその意味を伝え残さず、またヤハウェオブジェクトの設置箇所も伝えなかった」
「では、なぜ蒼教では石櫃の守護を?」
「うむ、答えは『重要であるだろうから』というところかな。ケリィ様の真意は私も、憶測とはなるが教主様すらもその意味は掴めていないと思う。だがしかし、彼のお方が残したものであるのならば何かしら意味を持っていてもおかしくはない……あるいは何かしら意味を持っているべきだ、という考えから我々はヤハウェオブジェクトを護っている」
「つまり、サウロさん。あなた方がソレについて言えることは『わからない』ということだけ、でイイんですか?」
後ろからヴァンが質問すると、サウロさんは軽く瞼を下ろしここにいない誰か別の人物が見たところでそれと認識出来ない程度に首を下に傾け、肯定の意を示す。
しかし……何もわからないとなると、俺はヴァンとの約束を果たせないな。あいつとの契約は〈ヤハウェオブジェクト〉に関する情報の提示であり、こうして南都の最高議席であるサウロさんでも知り得ない情報となると今後俺が手にする可能性は極めて低い。無いと断言してしまっても差異がない程に。
約束を守れない奴はクズだ。
俺は、今後の身の振り方について頭の片隅で思考を巡らせる。
長い螺旋階段の先には、木製の扉があった。
左右は階段の幅と変わらず、しかし石造りの中に発生したそれは至って不自然な存在であり、異物感とでも言うのだろうか、アンバランスさに微かな不快感を催している。サウロさんが削り出したであろう取手に手を掛けてその扉を引こうと動いた時、瞬間的に筋肉を収縮して防御の姿勢を取ったのはそんなアンバランスさからなのだろう。
「………………」
扉の向こうには、それがあった。
西都の聖堂地下でも見た記憶。
純白の、樹木を想起させる目測半径二メートルもの祭壇には細やかな意匠が至るところに施されており、その溝や段差が光を反射することで白一色のはずの祭壇に色彩が発生している。能力だなんだといった不自然の介入は一切として存在しない、極限まで煮詰められた技術の粋によって変動し続ける不定形を表したそれはただ美しく、しかしてここにあるもの全てを呑み込む姿は、真っ暗な廊下を覗き込んだ時のような恐怖感が脊髄を駆け巡る。
祭壇の中央には、俺が持っているものと同じ正六面体が鎮座している。
ヤハウェオブジェクトが。
「これは……?」
誰も声をこぼさない中で辛うじてヴァンが声を漏らす。
「ヤハウェオブジェクトが備えられている場所、ムーサーポイント。うむ、誰がこれを掘ったのか、誰が意匠を施したのか……その双方が不明な世界の宝である」
祭壇……ムーサーポイントが反射した光が目を刺す。
「これは、君のところにもあったはずだよ……ソウルくん」
「………………ええ」
思い起こす。もしくは思い出す。
幼い頃、父と共に降りた階段の先にも同じモノがあった。
そして、石櫃を持ち出す際にもこの祭壇を前にした。
だからこその苦手意識なのかもしれない。この祭壇を視界に入れない場所へと逃げ出したい、今すぐにでも階段を駆け上がってしまいたいと心臓が早鐘を鳴らして伝えてくる。嫌な記憶に紐付けられたこの場所はとても歪な形に取れてしまう。
「うむ。文献からムーサーポイント及びヤハウェオブジェクトは十対存在していることが判明しているが、しかし教会側が発見出来ているものはその半分の五箇所五つだけだ」
「それが、四都それぞれの大聖堂と央都の中央大聖堂……ですか?」
「うむ、その通りだ」
しかし、そうなると一つの疑問が浮かび上がる。
だが、その疑問を俺に先んじてヴァンが口にした。
「何故、教会はヤハウェオブジェクトの存在を秘匿し、更にはその上に教会を建て……封印しているのでしょうか?」
ヴァンの質問に、サウロさんは苦い顔をしてどう取り繕ったものかと言葉を選ぶ沈黙の時間を作り、慎重に言葉を選びながらもその疑問に面と向かって対峙する。
「うむ。様々な事情が複雑奇怪に絡み合っているために単純に一つの答えを提示することは叶わないが、あえて言うのであれば伝導者様の望みを叶えるため……だろうか」
「ですが、伝導者様は人の進化を望んでいました。ならば、積極的にヤハウェオブジェクトを用いて力を手にしていくべきではないでしょうか?」
「うむ、最もな意見だと思う。では、どうしてそうしないと考える?」
「法規組織としての一面も持つ教会として、不明な力による社会の混乱及び複雑化を避けるため……でしょうか?」
「うむ。それもある」サウロさんは大きく首を縦に振り、その社会批判とすら取れる言葉を肯定した。「だが、それ以前に起こる問題があるのだよ」
「問題、ですか?」
今度は俺が無意識中に言葉を紡ぐ。
「うむ、問題だ。君達はヤハウェオブジェクトに威を示し、そして選ばれた故わからないかもしれないが、ヤハウェオブジェクトは決して平等に力を与える万能機では無い。選ばれた者、組み敷いた者にのみ力を与える選別具なのだよ。すると問題は明らかとなる」
選民だよ。
サウロさんは言う。ヤハウェオブジェクトに選ばれ力を得る者と、仕損じて力を得られなかった者が平等に生きていく社会の確立は不可能であると。必ず力を得た者は優位に立ち、得られなかった者が組み敷かれる社会構造が出来上がるのだと。そんな中で俺の頭の中にはイワミ町の貧富が明確に分断された街頭のビジョンが映し出される。つまり、辿る結末はアレになると言うことなのだろう。
確かに、それはいけない。
しかし俺の耳はか細く誰に言うでも無くほんの静かに声にする意思なく発せられたヴァンの言葉が届いてしまい、もう何もわからなくなる。
「今更だろ」
ヴァンは言った。ある意味で手遅れであると。
それもその通りなのだろう。前例のイワミ町もそうだが、それ以上に大きな規模の話として防壁に守られ決して夷狄という意味での不幸が起こらない五都の壁内で暮らす人々と、原生生物や野盗に怯えながらも壁外で暮らす人々の間にはどれだけ外部に教会が支援を行ったとしても埋められない致命的なまでの溝。それは、はや谷と言っても過言ではない程に深く根深く事実以上に精神に作用する格差となっている。
「事情は……わかりました」
「不服そうだね」
「ええ、認めたくないものですよ。この仕組みの深さを解決するだけの頭脳が、自分自身には備わっていないなんてこと」
「若さだよ、それが。老獪になると、そうやって変革しようだなんて考えには至らず、ただ自分が死ぬまで何べく事が起こらないようにと全神経を向けるようになってしまう。大切な若さだと思うよ、個人の意見としては」
さてと、とサウロさんは話を終わらせて次の話題へと移行する言葉を発し、誰もそこに口を挟む者はいなかった。ユリウスさんはいざ知らず、俺とヴァンの二人は頭がどうにかなりそうな情報と倫理の濁流に押し流されてそれどころではなかったのだ。
「うむ。今後の話をしよう、ソウルくん。無策では央都に辿り着いたとて教主様に見舞えはしないからね。そのためにも、うむ、上に戻るとしよう」
言うと、元来た階段を率先して登り始めるサウロさん。
その後を追うべく振り返り、歩き出そうとする俺の肩をヴァンは掴み、顔を近付けて耳打ちをする。
「すまないが、今後の話に参加しなくても良いか?」
「それは、どうして?」
「旦那、アストライアについて知ってる臭い。さっきも、喋る内容を制限してなるべく根本に触れないよう迂回してる風だった。多分、僕がいない方が話がスムーズに進むはずだ。最悪の場合でもユリウスがいる。野郎、腕は立つから心配らしい心配はいらないはずだ」
アストライアを知っている。アストライアの実態を知っている。
それは確かに信頼の置ける存在にはなり得ない情報だし、話を出し渋ることにも納得出来る。俺に気を遣ってくれていることが伝わる以上、その気遣いを無碍にするのは得策ではないだろう。
「わかった。気をつけて」
「大丈夫だって、適当にそこらふらふらするだけだから」
気楽に話すヴァンに心配はいらないとわかっていながらも心配せずにはいられない気を遣りながらも、安心させる意と階段を進むことを勧める味で背中を押されて、俺は何の跳ね返りもない硬い石の階段を登り出す。背後で同じ意図の話をヴァンとユリウスさんが行っている。
心配。
西都を出てこの方、ヴァンを始め多くの人々に命を狙われ続けている。目的ははたして俺の命なのか石櫃なのか、はたまた別の何かなのかは明確では無いけれど……狙われていることだけは確かだろう。事実、何度も殺されかけているワケだし。
『大丈夫』
無責任な言葉だろうに、信じたくなる言葉。
おまじないでしかない適当な言葉だというのに、どうしてこれ程までに信頼してしまうのか。わからないけれど、わからないままで良い気がする。その方が、美しい記憶のままである……そんな気がする。
「すまない、皆さん先に行っていてもらってもいいかな? 先程の執務室で話そう。ヴァンくんと、少し話がしたい」
階段を登り切り、聖堂の広間に出るとヴァンはサウロさんにお呼びが掛かった。
俺も同席するべきかとも考えたが、ヴァンに手でシッシと仰がれたために後は二人に任せて二階に向かうべく階段を登る。その途中でチラリとなるべく頭を動かさずにヴァンとサウロさんの方へ視線を向けてみたが、剣呑な雰囲気はあるものの流血沙汰になる程双方共に子供ではなく、俺はなんとなく心地悪さを覚えはしたもののサウロさんの執務室へと歩を進めた。
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