第十七話/黒狗裁判

 月は雲に薄く隠れ厳かな光で大地を照らす、朧月。薄暗い世界は味方としてこの姿を透き通らせて、そこに在るのかないのかこの身を曖昧なものに仕立て上げる。


 空間に紛れ、影に忍び、目的の場所の前に立つ。何の変哲もない扉——この向こうに目的の物はある。扉に耳を当て、そばだてて音を聞いてみるが人間が活動している音はない。


 冷え切った星の空気が肌を刺し、夜風に吐いた白ばみの息が帯を引いて廊下の停滞した空気に紛れ、消え去っていく。


 そっとノブに手を掛けて、物音一つ立たぬよう、そして物音一つひとつに敏感になりながら回して、ゆっくりと部屋の扉を押し開ける。内部は暗く、空気からして長く明かりが灯されていない様子であるが、既に暗闇に目が慣れているオレの眼ならば物の輪郭を視認することが容易に可能である。奥に二枚、布団が敷かれており、膨らみもある……しっかりと横になっているらしい。


 オレは気取られぬようキツネの如くのっそりとひっそりと頭を動かして荷物を探し、布団の足元側に発見する。


 このような行為、教会的にはとても許されたものではないのだが、あんなものを持っていたら苦悩するのは彼らだ。罪を被ってでも人民に尽くす——仕方ないのだ。これは、誰かの為の行いなのだ。


 ヤハウェオブジェクト、伝導者ケリィ・キセキ様が残した正と負の両方の側面を保有する聖遺物。アイツが反応したところを見るに、少なくとも彼らがヤハウェオブジェクトに影響を受けたことは疑いようもない事実だ……今も尚持ち歩き続けているか、そこまで正確にはわからないけれども、可能性は高く見積もっていいだろう。ヤハウェオブジェクトの力を目にした者が簡単にその手の内からヤハウェオブジェクトを手放すとは考え辛い、人は自身よりも大きな力に溺れる性質があり、自らを高みに導くヤハウェオブジェクトはその典型と言えよう。


 ケリィ・キセキ様はヤハウェオブジェクトを人の可能性を開花させるための栄養剤のようなものとお考えになっていたようだが、しかしその考えとは裏腹にヤハウェオブジェクトは人の可能性に姿を与える——言うなれば開花した花を移植する性質を持っていた。ケリィ様が間違っていたとは言わないけれど、人間は、ケリィ様が思い描いていたよりも脆く狡く賢くなかったのだ。故に、力に溺れた。


 人は常に溺死して生きている。

 社会に、他人に、欲望に、自分自身に、力に溺れながら生きている。


「………………」


 なんだかな。


 狩りを行う際の肉食獣のように密やかに、されども大胆な足取りで荷袋に近付いた私は腰を屈め、荷の口に手を伸ばす。


 刹那、


 伸ばした左手末端から頸に掛けて落雷に撃たれたように神経がチリつき、頭ではなく本能で何かを感じ取ったオレは反射的に手を大きく引いた。次の瞬間、トンと軽やかな音を立てて私が手を置いていた空間を経由して飛翔した煌めきが床の木の板に着弾する。鈍色の線を引いて飛翔したものは見紛うことなき一本のナイフであり、あのまま手を伸ばしていればオレの手の甲は破かれ、掌から切先が突き抜けていたことだろう。


「よう、狗男」


 音は無い、どころか影もなく、ただ風が凪いだように布団から起き出たヴァン・アストライアがオレに言う。驚きも戸惑いも混乱もあるが、今はただ体表を焼くような圧倒的な殺意が恐ろしい。敵と見るやこれか……!


 視界の端には抜剣の構えを取るソウル・ステップの姿が映っている。夕食の際に語っていた通りに、もう一人の護衛と思われるあの虚無のような男がいないのが救いではあるが、それもブラフでどこかに息を潜めている可能性もあり得る。警戒は最大レヴェルであり、脳内では今すぐにこの場を離れるべきだと警鐘が音を立てて意識をぐらつかせてくる。


「……ッ」


 いやしかし、やはりヴァン・アストライア……察していたか。ソウル・ステップの側は知らないが、やはりヴァン・アストライアは恩恵を認識している。あの警戒している者が放つ特有の、常に反撃に転ずる構えと不信感からくる探り。やり手どころの話ではなく、見た瞬間に逃げ出すべき相手——手加減などしてはいられない、最初からフルバーニアでいく。


 強く、左足を踏み出す。


「世界に対して私は問う。


「揺蕩い、歪み、蝕み、眩み、明日を願う事すら許さぬ世界よ。


「篝火を守る使徒は何処か」


 この時点で何かを察したヴァン・アストライアはソウル・ステップへと目線を配り、それを受けたソウル・ステップは振り返り、勢いよく走り出す。同時に、再びどこからか取り出したナイフを手にしたヴァン・アストライアはこちらへ切先を向けた。


「魂に喝采を。


「真髄に平伏を。


「私は平等を求める者である」


 踏み出した左足をを原点とした半径五メートルの円形にシャボンのドームが張られ、そして凍てつき凍りつくことで概念的な檻となる。


 本来は真円の形を取るが、室内という限られた空間であるために壁や天井に押されて形が歪んだ——性能に変化は無いと考えられるために、このまま続行する。


 ソウル・ステップはドームの発生を目前に脱出、窓を蹴破って屋外へと逃げ延びたようだ。すぐにでも彼を追いたいところではあるが、迫るヴァン・アストライアをどうにかしなければ追うに追えない。ソウル・ステップを追ったとて、背中を刺されて死に晒すだけだろう。


「研ぎ澄まされた白き灰は、命の末路なりや。


「伝導者よ、迷える私を導きたまえ」


 だから、速攻だ。

 ヴァン・アストライアを気絶させて、ソウル・ステップを追う。

 結界の展開に用いた左足はそのままに、勢いを殺すことなく次の足を前に踏み出す。同時に左腕を肩から二の腕、肘、手首と捻りながら後方へ引き、腰も時計回りに捻りを加える。そして、踏み出した右足の接地と全く同じ瞬間——捻っていた全ての部位を腰から手首に掛けて順繰りに伸ばしながら、前方に突き出す。


 本来は拳を握るものだが、今回の目的は殺しではない。それ故、指を折り、掌を相手に向ける掌底の形を取った。


 暴力——つまり拳に限らず何らかの手段を用いて相手を傷つける行為において、その威力を決定するのはスピードと硬さだ。硬さに関しては、オレが発動した結界がある限り問題として発生し得ない、そういう性質を帯びている。ならば、この場を支配するのは残る要素であるスピードだ。


 さながら押し潰されたバネが弾けるように、捻られた身体を解放することで打ち出された腕は人身を最も効率良く動かすことで一般人が出せる最高速度をマークしている。対するヴァン・アストライアは発動した結界へと注意が逸れている上、ソウル・ステップの安否も気に掛ける必要がある。するとどう考えるか、あるいはどのような行動に出るのか。


 無論、速攻による短期決戦。


 高速の突きを回避して反撃の一刺しを狙ってくるはずだ。


 だからこその最高最速の一撃。


 避ける前に当てるッ!


「——シッ」


 とは言え、心配事はある。


 一つはヴァン・アストライアの恩恵。まず有るものとしてこれを考えるとして、攻撃性を持つものであるか否かもわかってはいない。この攻撃がトリガーに発動して、オレを一撃の元に伏せさせる可能性もあるが、あくまて可能性、乗り越えてこその覚者だろ。遠距離対応であるとは考え辛い、遠距離攻撃が可能であるのならばこうして距離を詰めることはないだろう……ならば射程が短い攻撃か、あるいは戦闘向きではない恩恵か。あるいは自己の中でのみ完結する恩恵であるとも考えられる。ナイフを握っているのがブラフでないのであれば——いやさ、あの投擲技能から考えてナイフはメイン、恩恵は攻撃性を孕んでいないと考えるべきだろうか。サブとして扱う恩恵ならば威力は期待出来ない、また警戒を大きく裂く必要はないだろう。ならば残す可能性は先頭向きではない、あるいは自己の中で完結するモノ……そこまで考えては混乱するのみか。仮定は〈攻撃性を持たないモノ〉、次点で〈射程距離〉が短いモノ、といったところだろうか。


 二つ目の心配はソウル・ステップの行方。護衛対象故逃したのだろうが、逃げるに当たりアレを持っていかないとは考え難い……そして三つ目のフィフティ・フィフティのことにも繋がる。ソウル・ステップがアイツを襲う可能性は大いにあり得る、顔を見られればまずその行為に出てこちらの出方を伺う——アイツであればそう苦労せずに人質になる上、もしもオレに効力がなかったとて問題が発生しないのだから……無論、そのような状況になったとしたらその時点でオレは手を引く他ないのだが。


「ケリィ様」


 力をお貸しください。

 伸び切った腕はヴァン・アストライアが回避行動に入った瞬間にその体に触れることとなる。ノーガードの左肩に掌が入ったのだが、その刹那、ナイフが床に落下する優美な音と共にヴァン・アストライアは自ら勢いに任せて体勢を崩すことで肩に入った掌底の完結を前にこちらの攻撃を強制的に終了させてきたのだ。達人の剣士が敵の突きを受けた際のように、自ら後ろに跳ぶことで威力を落とした。


 全霊を込めての一撃、半ばで外れたと言えど勢いを殺し切ることは敵わず自身の拳に引っ張られる。そんな中、自ら体勢を崩したヴァン・アストライアは右腕をオレの首元へと伸ばし、襟を握ることで体を支え、残る左手でオレの虚空を打った拳……の手前、手首を掴み、腰を捻り右足を大きく左足の向こうにまで踏み込んで、その痩身のどこにそのような力があるのか……いや、オレ自身の勢いとヤツが持ち得た力の流れを制御する技量からだろう——オレを投げた。


 背負い投げ、あり得るかそんな反撃!


 この野郎——やり慣れている、生き方を知っている、殺し方も知っている、何よりも状況の壊し方を知っている。積みに近くなったらチェス版をひっくり返して盤面を戻すような暴挙だが、現状で最善に近い手をさも平然と息を吸って吐くように、日常行為の一環みたいにこなしやがった。


 何者だ? ただの護衛じゃあこうはならないだろう、明らかなまでの偉業を前にしている。クッソ、怖い……手も足も痺れているし、筋肉が萎縮した。口元も定まらなくて歯がガチガチ音を鳴らしやがる。あの殺意もそうだ、ソウル・ステップが平生を装っているようには見えなかった。あれはソウル・ステップが未熟故に影響を受けていないのではない、ヴァン・アストライアが殺意を表す肉体表現を支配しているために、オレに対してだけ殺意を向けるよう調整したんだ。人間技か? そんなもの。あり得ないもの程があろう。


「カッ……」


 床に叩きつけられて、肺胞に蓄えられた空気が全く全て吐き出される。一時の無酸素状態に眼前がチラつくが、何とか死に際でギリギリ吸い込んだ空気が辛うじて肺に達して意識を継続させてくれた。断絶していたら、と考えるとゾッとする……生きているハズがない、死んだように眠る夢も見ることはない、恐れに顔を歪ませて悪魔にでも獲り殺された形相で死に至ることだろう。


 危なかった。


 とは言っても、今尚無防備に腹を晒していることに変わりはないのだ。追撃を行わんと動くものだと思い復帰の傍らとは必然的になってしまうが防御に意識を割いたのだが、しかし、ヴァン・アストライアはバックステップにより大きく距離を取る選択を取った。殺せる隙があったというのに、後方の、結界の縁へと身を寄せた。


 そして悟る、安全策を取りながらであれば正しい行為だと。


 場面がリセットされたのだ。

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