第二話/生命奪取
夜闇に紛れるまでもなく、月明かり以外に街を照らす街灯などという文明のない街道から逸れたこの町では、そこに在るだけで僕の存在はもみ消される。唯一、降り止むことを知らずに積もり続ける雪に残る足跡だけが僕がそこにいたと記しているけれど、どうやら天は彼ではなく僕に味方してくれるようで、横殴りに吹き下ろす風は表面に積もった軽い雪を舞い上がらせて歩いた軌跡を包み隠す。
吹き荒れる強風の中でも確かな足取りで目的地へ向けて歩を進め、宿屋の隣に建つ家屋の塀や軒に手足を掛けて屋根の上へとよじ登る。遮蔽物となる建築物のない屋根の上は一段と風が強く吹いており、姿勢に気を配らなければ誤って地面に真っ逆さまに転落してしまいそうだ。だが、いくら最悪を想定しようと流石にそのようなヘマはしない。プロだから。そこまでのバラエティー能力を持っているのだとしたら、こんなせせこましい仕事なんぞとは縁を切り真っ当に順当に働いていると言うものだ。
屋根の縁に一度立った後で三、四歩後方に退がり、歩数の計算を入念にこなした後で助走をつけて隣の宿屋——その一室の窓枠へと飛び移る。辛うじてつま先が乗る程度の狭い足場の上へと難なく着地し、窓枠の上辺を左手で掴むと同時に持ち前の体幹で落下しないようバランスを整える。
着地した一室の窓枠。
嵌っているのは板張り窓。
その中央にある左右を分断する切れ目に細い板状に加工した金属を差し込み、内側で落とされているであろう持ち上げ式の錠を外す。窓の右側のみを軽く開き、室内へと虫の羽音程も物音を立てぬように慎重を期して侵入を試みる。
難なく侵入に成功したならば後ろ手に窓を閉め、そっと、足音も息も殺して丘陵のように膨らんだベッドへと足を進めて近付いていく。正しく死神が如く枕元に立つや否や、掛け布団の膨らみからおおよその体勢を予測。軽く腕を引き、袖口に隠し持ったナイフを取り出して無音の内に振りかざし、首元目掛けて一刺しを行う。
——直後、眼前が薄汚れた白が包み込んだ。
それが先程までベッドに掛けられていたシーツだと理解するまでにそう時間は要さない。それだけ理解出来たのならば、次の一手も必然、予想が付くというものであろう。
シーツを被ったままに全力を持ってして床板を蹴り、大きく後退する。後退の最中で被せられたシーツを払い除け、目視による確認を行った標的の予想通りの行動に内心かなり安堵する。
寝たふりをして、ものの見事に僕を欺いて見せた稀代の天才詐欺師はこちらの接近に気付き、掛けていたシーツを用いて視界を奪った直後——抱えて寝ていたのだろうか——どこからともなく取り出した装飾過多にも思える銀鍔の片手直剣による横薙ぎ一閃を見舞って来た。室内へと侵入して来た不審者に対する行動としては教科書に図解付きで載せても良いレヴェルで平均的であるために予測、対処することが出来たが……なかなかどうして、見事なものである。
回避の際に少々ばかり左後方に寄って跳んでしまったために窓への距離が空いてしまった——四、いや三歩といったところだろうか。
行けるか?
いや、無茶だな。当然の話ではあるが、ベッドから起き上がって正面中段に構えを取ったボンボンが見逃してくれるとは到底思えない。
正面中段の正々堂々とした構えから見て流派はワイト・ユニコーン流で間違いないだろう。教会公認の正当流派とは、依頼を聞いた時は耳を疑ったものだが、よもや本当に良家の坊ちゃんだったとは……だが、ワイト・ユニコーン流は公認流派故に構えから次手は読み易い。問題は先の一閃で感じた違和感だが——何だ? 正体不明故、警戒に留める他ないか。
しかし本当にボンボンなのかぁ……いや、それもそうか。今見えているだけでも相当なものだ。あの片手直剣も小洒落た装飾と言い、別に一家言あるってワケでもないけれど剣身もそれなりの業物なのだろうさ。今の考え知らずな行為にも、世間知らずが見え透けている。その上、着装している旅装束も質の面で平民のソレとは雲泥の差があろう。何だあの生地は、ツヤツヤしやがって。
「人の寝込みを襲う無礼者よ、名を名乗ることを許す。疾く名乗りを上げよ」
構えを解かないままに、夜半であるためか声量を抑えながらも威風堂々と口上が述べられる。が、無論のこと真夜中に襲撃をするようなヤンチャ盛りなこちらがそんなお貴族様の流儀に興じる気などあるはずがない。
右足をバレない程度に後ろへ、腰は落とす。
右手のナイフを握り直し、口元を隠すマフラーを左手で上げる。
合図など存在するはずもないが、しかし、互いに意識の波が最高潮に達した瞬間に踏み出した動きは完全なシンメトリーを描いていた。始動から初撃まで、時間は掛からない。完全なシンメトリーと上記したが、あちらは第二歩で大上段へと構えを変えての振り降ろしであり、こちらは前方向からの一撃を受け流しつつの刺突を目的としたカウンター考慮の前進であったが、あちらの取った大上段へと変更を受け、初撃すらも受けることを避けようと動いたため実際のところシンメトリー要素はほとんど無かったりする。
片手直剣の大上段からの斬り降ろしをナイフで受けるなど、それが受け流しであったとしても肉体が多大な負荷を受けることは想像に難くないだろう。あちらの構え直しによって生まれた一瞬の隙にこちらも構えを変えると同時に大きく上体を下げ、間合いに滑り込む。長身の片手直剣でこのような狭い場所での戦闘、尚且つこちらがナイフ使いであることを加味すると、最適解は逃げ出すべき場面ではあるのだが——意地か矜持か、はたまた興味か。振り下ろされる剣の間合いに入り込み、太ももを浅く切り裂いて走り抜ける。落下する剣は力の流れるままに振り下ろされ、床板にめり込むことでようやくその運動を止めた。剣が引き抜かれるまでの間、生じた隙を狙い撃ち、駆け抜けることで勝ち取った背面からその肉目掛けて刃を向けたけれど、背から一刺しで殺すことはこちらの武器がナイフである限り毒でも塗っていなければ困難なことだ。こちらの初撃を受けて尚、救助の叫びを上げないところを見るに未だ勝ちを確信した愚者であるのか……あるいは、今後の運命を運否天賦と割り切り身に起こる全てを受け入れる覚悟して来ている者か。前者であればいくらか良く鳴かれてしまうが、後者ならばあるいは……。
「見せてもらおうじゃないか。聖堂の聖職者の覚悟とやらを」
「何ッ⁉︎」
つい、漏らしてしまう。
戦場での対敵とはどうにも運命的な因果を感じざるを得ないものであり、今こうして相対する彼にも僕は運命的ナハトムジークを受信したのだろう。これは僕の彼への評価が殺害対象を超え、興味以上の対象となったことを意味する。
なればこそ、確実にその命を刈り取ろうというもの。
心臓は肋骨と肩甲骨、そして何より筋肉に阻まれるために狙うだけ馬鹿馬鹿しいことは承知している故、肋骨の下で腰骨の上、つまりは脇腹に向かって刃を通す。肉を切り裂く感覚を手の平全体で感じながらも込める力を抑えることはせず、筋肉収縮によって刃が動かなくなるまで深く、深く、深々とその肉体を傷つける。続く刺突は許されるのか一瞬判断が遅れたらしく、剣を諦め拳に切り替えたあちらの振り返り様の左手でのスイングを受け、ナイフから手を離し辛くも両腕を用いてガードには成功したものの、急遽のガード動作からの重撃だったために足の踏ん張りが効かずバランスを崩してベッド上へと転倒する結果となった。
こんなあからさまなミスを見逃されるはずもなく、立ち上がる暇もない素早い踏み込みと同時に跳び上がったあいつは——右手を手刀の形に変え、こちらの首を明確な殺意を持って狙い裂こうと振りかざす。首の骨を折る気かはたまた鈴を転がす声を奏でるこの喉を破く気なのか、貴族が求める胡散臭い高潔さなんてない野蛮極まる闘法なことで。
不確かな違和感を全身の毛が怖気立ち、一時の迎撃思想を一転して逃走思考へ取り変える。騎士とサシでやり合うとか冗談じゃねぇや、殺し屋ってのは暗闇に紛れてしれっと相手を殺すのが醍醐味なんだからゲーム性失わせるんじゃねぇってんだぃ、べらぼぅめぇ。
うぅむ……しかしどうする?
どう動いたら避けられる?
受け止める、正面から?
——————否、不可避。
避けられないし、防げない。選択肢というものは常に見えるヴィジョンの中から選び取るものであるが、今の僕にはそのヴィジョンが何ひとつとして観測出来ない。あるいは見えていながらにそれが掴み取れるものではないと本能的に察知して、目を瞑っている。
あちらは、最善の選択を取っている訳ではない。先の一撃とて、平生ならばよろけるどころか迎撃することすらも可能だった。負け惜しみなどではなく、僕はこの剣に負ける程に落ちぶれた殺し屋ではないのだ。これで影の世界では名の通った一族に末席とは言え名を連ねている。であれば、であるのならばそれ自体が僕という者の技能保証はそれだけで行われるというもの。
では、何故に避けられないのか。
答えは単純なものである。何のことはなくヤツの剣撃は刻一刻と時が過ぎるごとに疾く、速く、早く——加速していっているのだ。体が暖まってきた時のような慣れによる加速ではなく、もっと根本から異なる加速の権能。
「ああ、待って待って。降参、負けたよ」
両手を挙げて、負けをこの星に向かって公言する。刹那、僕の首筋を手刀が飛来した。
こんな、こんな万国びっくり人間ショー出場者とやり合ったとしても、そんなもので得られるモノはなく守られるプライドもありゃしないのだからただアホを見るだけになるだろう。今回は別に雇い主に対して恩も何もありゃしないことだし、命なんて賭けてたまるかって話だ。不誠実な雇い主には不誠実で返したって構わないというもの。
この不明の加速を相手し続け段々と加速し速度が上限なく上がっていった場合、万一にも目視不能の範囲まで加速することが可能であったならばその時点で僕に勝ち目はなかった。そして逃げる術もなくなった僕は逃げる選択肢すらも取れずに斬り殺されていたことは疑いようがないだろう。
ともすれば、このオチが理想的とも言えるか。
「にゃはぁ! くすぐったいくすぐったい! 何? セクハラ? 捕虜に手ぇ出すとかサイテー」
「違いますよ、静かにしてください」
降参するや否や、あちらさん……というか昼間に酒場でちょっかい掛けた旅のお兄さんは僕からナイフを取り上げて身体をペタペタ触って隠し持っていないかを探り出した。次々と発見されていく僕のナイフではあるけれど、服の上から持ち物検査をしただけでは全身に仕込んでいる内の二割程度しか見つけられなかったらしく、残る八割は見逃されることとなった。
「痛ァッ! ちょいちょいそこなるお兄さん。捕縛するのは構わないが、もうちっと優しく出来んのかね。僕の柔肌が悲鳴を上げてますがな」
少々のナイフを没収した後、几帳面にもベッド下に隠していたらしい鞄から取り出された縄と元々ベッドに備え付けられていて、戦闘開始のゴングにもなったシーツで僕は簀巻き状態にされてしまった。下手に手縄するよりは賢いやり方であるが、別に身体中にナイフが仕込まれたままなのでその気になれば切り裂いて抜けられるのであまり拘束として意味がなかったりする。
拘束し終えたところで、お兄さんはようやっとこちらのフードを脱がせてマフラーを首元まで下げてきた。素顔での対面は、これで二度目となるワケだ。
「……やあ、お兄さん。おひさ〜」
折角の対面なので、礼節を重んじて挨拶をしてみた。
凄い渋い顔をされた。
「君は……酒場の。君、狩人じゃなかったんですか……」
失望にも似た悲しみが瞳に映ったように見えたが、果たして僕の目を信用して良いものなのか、今更ながらに人殺しを犯してきた自分の感性を心配することとなる。汚れ切ったこの目では、彼の真意は生憎と見透かさないらしい。
大体、昼間にちろっと会った程度の相手に何を期待していたというのか。僕が悪いみたいになるからそういう被害者面はやめて欲しいよね。
「まあでも、狩人ってのもあながち間違えじゃなかったり? 正確性を求められちまうとそりゃ違ってくるけどね。僕は……括りとしては暗殺者寄りの殺し屋さんなのかな。依頼を受けて参上したワケだし」
「人を狩る狩人ってコトで……? 嫌なジョークですね、冗談下手くそですよ」
「遊び心じゃお貴族様にゃ敵わないさ、下層階級だからね。こっちがいそいそと日々の生活のために依頼をこなして金を稼いでる間に、そちらさんは僕らに仕事を依頼して足の引っ張り合いだろう? 日々が楽しそうでよぅござんす」
「依頼が、出ているのですか……やけに最近命を狙われることが多い訳だ。しかし、そんな口が軽くてその仕事は務まるのですか? 情報漏洩とか問題になったりするんじゃないので?」
「別に良いんじゃない? 万一の時に情報を漏洩されたくないお客様は契約書にそう記載するし、それが無いのは相手方の過失だからね〜」簀巻き状態のまま、相手と対等であると言わんばかりにヘラヘラと語る。「それに、たった今から今回の依頼にゃ手を引くことにしたしね。契約破棄! 知りまっせ〜ん」
「契約ね、恐ろしいものですね。紙切れ一枚の上にインクが垂らされただけで、人が殺されそうになったんですから」
「紙切れ一枚で人を殺せば、その紙切れが無数の紙切れに形と価値を変えて帰ってくるんだからしゃーなしよ。生きるためには、仕方ないよネ! 死んでいった皆様にはクマにでも出会ったと思って諦めてもらおう!」
生きていくためには衣食住が必須であり、必要最低限の衣食住を確保するためには金が必要となる。
だからその金を稼ぐために、人は物だとか知恵だとか、持てるモノを売り払い金に変換する。僕ら人殺しはその売却対象を自分達が得意とする暴力としているだけの話なのだが——言うは安くとも受け入れるとなると別の理屈が必要となることくらい、理解しているとも。影の世界のパンピーみたいに自分達の理屈がこの世の理屈だと思ってる能無しとはちょびっとだけ格が違うんでね、社会ってヤツにも理解のあるカレくんなのですよ僕ぁ。
「生きるため……ですか。君は金を払ったら俺の依頼でも受けてくれるので?」
「んー? もちもち。金のあるところに人が集まるように、金があるヤツに味方するのが僕らだから。時たま情で動くこともあるけど、金はあるに越したことはないしね」
「じゃあ、暗殺者。こんな契約はどうですか? 『依頼人と知っている詳細情報全てを話してくれたら、手持ちの三分の一の金を渡して逃してあげる』ってね。悪い契約じゃないと思うのですが」
「逃したら、も一回来ちゃうゾ。それでもいいの?」
「依頼から降りたのに?」
「それもそっか。バレて恨まれる前にとっとこずらかっちゃおーっと」
今回の依頼、無名の人物からの暗殺にしては高値の仕事だ。成功報酬のおよそ五割に当たる額を前金として吹っ掛けても乗ってくるような奴だからな……正直に言ってしまうとかなり胡散臭い。この依頼から身を引く旨の言葉を口にはしたが、未だ紙面上での契約は継続している状態にある。つまり、依頼さえ達することが出来れば未だ報酬を受け取る権利があると言うことだ。拘束を解かれた瞬間に襲えば殺せる自信はある——が、そんなもので報酬を受け取っても、そりゃ何というか不快だろう。プライドとかじゃなくて、単純にムーブとしてダサ過ぎる。
しかし、ここで奴さんの言う通りに依頼主や依頼内容を流すというのは……少々、はばかられるな。殺し屋なんて世のクズの最後の砦なのだ、そう簡単に手放す訳にもいかない。
どちらの船に乗った方がより利益を得られるかで考えるならば、どちらにしても泥の船か。
要は、こっから先は自分の運と直感に賭けるしかないってワケですかいそうですかい。掛け金は自分の命、二分の一の生か死か。全ては運否天賦の導くままに。
「じゃあさ。その契約、聖典に誓ってみてくれない? 僕が依頼主を売ったら解放してくれるってさ。ごめんなさいね、僕らってば口約束は条約破りのためにあると思ってるタチの人間だから……信頼は明確なカタチにしておきたいの」
真っ当な聖職者である限り、自分の親よりも何よりも、これ以上の宣誓対象はないだろう。それで尚、殺し屋なんざと契約するようなお人好しならば……人情に応じてペラペラと舌に脂を乗せるのもやぶさかではないというものだ。
だって、そっちの方が面白い。刺激的でファンタスティックなら、僕は君の剣にだってなってやるとも。
「聖典に……?」
「うん、聖典に。信心深い君ならば、聖典に誓うのが最も強固な契約証明になるだろう? 信じさせてみろよ、僕に。君が僕を無事に解放するってことを、僕に信じさせてみろ」
「確かに、そりゃそうか……」納得したと言わんばかりに頷いて、扉の横に立つポールハンガーに掛けられているコートへと歩み寄る。コートの胸元のポケットを弄り実物の聖典を取り出して見せた後で僕の方へと向き直り、彼は自身の胸の前に聖典を掲げて言い放つ。「俺はこの聖典に誓って、盟約は必ず守ろう」
月光が彼を照らす。
自分の口元が緩むのを自覚する。
「ああ、良いだろう。ならば僕は、殺し屋相手にそこまでする君の善意に敬意を表し、アストライアの血に誓いお前を生かして見せようじゃないか」
刹那——
——宿屋の壁は圧倒的なまでの質量によって吹き飛ばされ、木片は室内へと飛散した。
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