第一話/氷雪平原

 携帯していた食料が底を尽きながらも何とか辿り着いた小さな宿場町の酒場にて、俺は実に三日振りとなる食事にありつく。この深雪に覆われた大地の中で旅をすることの難しさというものは、頭ではわかっているつもりになっていたのだが……どうにも見込みが甘かったらしい。予定日数より一日分も多く食料を持てば問題は無いと考えていたのだが、よもや強風によって軽い雪が巻きあがり視界を奪うホワイトアウトと呼称するらしい自然現象があそこまでタチの悪いものだとは思わなかった。一歩として動かないなんて対処法が事実だなんて、世の中わからないものである。


 未だ道半ばにすら着いていないというのに、どれだけ自身が恵まれた環境の中で甘やかされて育ってきたのか思い知らされる旅である。もう既に挫けそうである。泣きたい。食のありがたみ、火のありがたみ、安心して眠ることが出来る場所への感謝——これら三つを給与されて尚、自身の力で生きていると勘違いしていた自分はどれほど傲慢で自尊心に満ちた存在であったことだろうか……今では双方共に生への執着と羞恥心へと置き換わり、ただ過去の自己を恥じるのみである。


「なあ、このコイン……君のかい?」


 己が痴態を恥じつつも、久方振りの食事であるたまご粥に心からの感謝を込めて黙々と食べ進めていたその時、後方からそんな声が響いた。目だけを動かし左右を確認するも昼とも夜ともつかない下手な時間だからか人の影は見えず、その声が自分に向けられていることは紛れもない事実のようである。左手を腰に吊るした剣の柄頭に当て、鞘がカウンターに当たらぬよう注意して声のした方へと振り返ってみると、そこにはふかふかの毛皮で出来た防寒具に身を包み、肩からは猟銃を下げた気持ちの良い笑顔の青年がコインを手に立っていた。青年が持つコインに目を向けてみれば、確かにそれは俺がこのたまご粥を購入した際にも使用した五百モンク硬貨がそこにはある。


 落としたか? と考えるも、何か違うような引っ掛かりが思考に生じる。


「いや、多分俺のものじゃないよ」


 反射的にそう返すと青年は、


「そう? でも、この町で硬貨なんて使うの、あんたくらいのもんだぜ?」


「……? それは、どういう?」


 純粋に疑問に感じ、社会について学ぶ機会だと思い質問してみた。先も語った通り、俺はどうも世間知らずなところがあるようなので、より深く知るために様々な知識と経験を蓄えるべきだと自己を評価している。

 しかし、この町で硬貨を使うのが俺だけとはどういう意味なのだろうか? 金銭なのだから、日々の暮らしにおいて必要となるだろうに……。


「おいおいお兄さん。まあ、軽く予想は着いていたけれど、さては旅慣れしてないな? そりゃ危ないよ。ここじゃあ会わなかったらしいけど、多少デカい町に行ったらカモられちまうってもんだ」


 一瞬にして見抜かれてしまったが、俺は曖昧にぼかすようにしてその青年に視線を向け続ける。猟師としての勘か人としての格なのか、視線の色の変化に気付いたらしい青年は俺の隣の席に腰を下ろし、俺と彼の丁度中間地点の卓上に硬貨を置いた。


 一瞬の逡巡の後に俺と同じたまご粥を注文した青年は、腰から下げていた折り畳まれた何かの皮を店主に手渡している。物々交換というヤツか。


「ここだとまだ西都に近いからこのコインも価値を持ってるけど、ちょっと南に行ったトコにある隣町じゃ、もう使えたもんじゃないのさ。なぜかわかる?」


「貨幣の価値が薄いから……?」


「YES。この町でも同じことが言えるけど、東西南北と中央を合わせた五都とその周辺、あとはまあ五都同士を繋ぐ十字の街道沿いでギリか? そこから外れりゃ金よか現物のが価値が上がっていくワケよ。んで、距離が離れりゃ離れるほどその風潮が濃くなっていくって魂胆だ。まァ、この硬貨そのものにはそう大した価値はないからな。別の価値基準を上書きするのがどれだけ難しいことなのかって話だな」


 お上も大変よね、と続ける青年。

 いやはや、よもや金が使えなくなる可能性があるとは……このまま知らずに進んでいたら、その内に大変な事態に陥っていたかもしれない。この場所での青年との出会いに感謝だな。早々にこの知識を入手出来たならば、ホワイトアウトに巻き込まれて飢えただけの価値はあるだろう。


「ありがとう。そいつは、拾った君が貰ってしまえばいいさ。……いや、素直に情報料と言っておくか」


 右の人差し指をコインの上に置き、青年の方へとスライドさせる。価値には価値を返すのが義というものだろう。


「え? マジで? そんじゃま、お言葉に甘えて頂いてしまおうかな。ラッキー、ミー」


 ほくほく顔で店主に追加注文を行う青年。欲深く、貯蓄をしようともしない様子はとても誉められたものではないけれど、まあ、明日を生きている保証もない世界なのだから、その日その日を全力で楽しむ生き方というのも、またありなのかもしれない。俺も、この旅路が終わった後でならば……あるいはそういう生き方も良いのかもな。


「で、兄さんはどっから?」


 注文を終えた青年は、何やら俺に興味を持ったらしくそんな質問をしてきた。

 俺も青年からより多くを学びたいと考えるため、会話の継続は望むところである。


「んー、あー、西都の方からちょっとね」


「へぇ、やっぱり良いとこ出のボンボンなのか、兄さん。西都といえば……五都の中でも二番目に大きな都じゃないですかヤダー。しっかし、そんならどうして防壁の外に? 西都ってんなら街の中で一生を過ごせるらしいじゃんか、ワケありで?」


「さてね。そこまで話す必要はないだろう? ま、強いて言うなら仕事ってヤツさ」


「仕事、ねぇ。そんな仕事なんてしなくとも『誰もが飢えず、苦しまず、楽しく暮らせる楽園』なんだろ、防壁の中って……そう聞いたケド」


「そんな楽園があったら良かったんだけどな。防壁の中には沢山の人がいる、沢山の人がいれば格差が産まれる、産まれ落ちた格差は貧富を生み、貧富は差別を孕む。……ストリートチルドレンだって、確かにあの街には存在するのさ」


「嫌だねぇ、人間ってのは。結局、楽園ってのはどこまで行っても幻想ですかい」


 何気なく呟いただけであろうことは、彼に確かめるまでもなく真実であるだろう。しかし、その何気ない言葉こそが俺の心を抉り出す。

 表面上の平和しか無いあの街を見たら、この青年は一体何を思うのだろうか。こういう若く世界の厳しさを知っている者の意見こそ反映されるべきと言うのに、いつまでも頭でっかちの自分が死ぬまでの未来しか考えていない老人など頭に据えているから……。


「君は、この街の人かい?」


「ん? いやいや、ここ一ヶ月程この街に滞在してるだけの流れ者さ。ウチの村はちょいとばかり前に飢饉で滅んじまってね、帰る場所無くなっちゃったからぶらり世界回りの旅ってなァ」


「飢饉で……? 教会の支援があるはずじゃないのか⁉︎ 五都の中で育てられた野菜、畜産の類いは外部の町にも提供されているはずだろう!」


 思わず青年の両肩を掴み、事実確認をする。

 これはかなりの問題だ。町の位置を確認、管理教会を確かめて仕事ついでに報告を行わなくてはならない案件だ。


「おや? おたく、もしや……いんや、そんなことは何だっていいか。……ま、あれだよ。宗教観の違いというか、ひっ迫した人間の狂気を目の当たりにした聖職者はそれから目を背けるために近付かなくなったって感じかな」


「それは……どういう?」


「極限まで追い詰められた人間は、どうすると思う? 腹が減って減って仕方がなくなった人間が」


「……わからない」


 わかりたくない。

 想像がついてしまう自分が憎くなるくらいに非情な現実なんて、知りたくない。


「食べるんだよ、死んじまった人を。勿論最初は抵抗があるさ、誰だって彼だって。でも、一度食べちゃうと選別される……耐えられない奴は自殺して、それでも生きようって奴は喰らいつく。やるしかなくなったらなんだってやるぞ、人間は」


「それで、その光景を見て……」


「ま、仕方ないよね★ そりゃそうだろ、僕だってあの光景を見たら近付かんとこってなるわ」


「でも、恵まれた者は万人を……」


「そういうことだってあるさ。富は万能だが人間は万能ではないんだ、富が人間を介した時点でそれは万能性を失うってモンだろう?」


「それを……聖職者が行っては、一体民衆はどこに救いを求めれば良いっていうんだ。誰もが助けを求められる場所であるべきだろう、教会ってヤツは」


 物を口に含む気も失せて、たまご粥の器の縁にスプーンを掛ける形で置く。何なら戻したいくらいである。

 何も知らず朗らかに平和な壁内で過ごしていた自分自身への失望。街の外での非情な現実に向けての罪悪感。何もすることなく見捨てた教会への怒りと、そんなことを知らず何も出来なかった自分への怒り。


 様々な感情が俺の中で渦巻いては積もってゆく。己の無力さ以上に世界が平和であると考えていたことが憎らしい……救いようがない楽観主義者の過去の自分が愚かしくて殺したい。知らなかったのではなく、知ろうとしなかった……機会はいくらでもあったのに、世界がシステム通りに回っているだなんて幻想を信じて仕方なかった。


「そんなのってないだろう」


 悔しさに、目頭が熱くなる。


「お前……ありがとう、でも良いんだ」そんな俺を見て、青年は優しく俺の背中に手を当てて言う。「言っただろ、仕方なかったって。死んだ方がマシだったんだ、死ねた方が幸福だったんだ。意地汚く生きたから、こうして苦しんでいるんだから……駄目なんだよ」


 言った後、彼は俺の背中から手を離すや否や物凄い勢いでたまご粥を掻き込んだ。喉に詰まるのではないか、口の中を火傷するのではないかと心配になる程に勢いよく掻き込んで、はふはふと何度か口を開閉した後で喉の動きがわかるくらい大仰にゴクリと呑み込む。


「食えよ、食ってアンタの使命ってヤツを果たして……ついでに僕らみたいなのを一人でも減らしてくれ。ここで食わなくちゃ、続かないよ」


「ああ、ああ……」


 スプーンを手に取り、器を傾ける。何も口にしたくないなどと甘えたことをほざく肉体に喝を入れ、傾けた器内に残るたまご粥を一粒残らず掻き込んだ。

 口内に残るミルクの甘い味を水で呑み下し、両の手の平を合わせ食事に対する感謝の言葉を述べる。いや、それにしても食べたな。満腹だ。


「信心深いんだね」


 などと軽口を叩く隣の青年にも感謝の一礼を行い、青年の注文分の代金を卓上に置いて酒場を後にするため出口へと足を進める。酒場の分厚い板材で出来た重量を感じる扉のノブに手を掛けたその時。


「宿屋は向かいだよ」


 と、どこまでも親切な青年の言葉を背に受けた。ノブから手を離して振り返り、再度彼に頭を下げる。頭を戻して扉を開き店外へと出た俺は、青年の言っていた向かいの宿屋にて部屋を取るために一本道の両端に栄えた町中を進む。

 二階建ての木造建築の宿へと入り、丁寧な口調の女性店員との交渉を果て一泊部屋を借りる。ただ一泊するだけで、朝食などは付かなかった。


「二階の一番奥の部屋となります」


 という言葉と共に渡された鍵を受け取って、部屋へと向かう。まだ部屋に着いてもいないというのに体は長旅の疲れを訴えて、階段を上ることすらも憂鬱だ。


 階段を登り、廊下を進み、廊下の突き当たりにある一室の扉に鍵を挿す。手首を捻り、鍵を外した後で扉を開けてみれば、正面にはガラスが嵌め込まれた窓が見えた。


 室内へと入り扉の横に立っているポールにコートを掛ける。入って左手側には質素なものの丁寧にシワが延ばされたベッドがあり、右手には机と椅子のセット。更には蒸気暖房も備え付けられていた。


 何はともあれ、鞄も下ろさずに蒸気暖房に吸い込まれるように近付いていった俺は、丁度七輪にでもやるように蒸気が発せられている溝の付近に手を近付けて悴んだ指を温めることにする。急激な温度変化に血管が開き痒みを覚えるが、これも生きていると言うことだ。


 この旅は元より、あの青年(名前を尋ねておけば良かった)の話は俺の人生観を大きく覆して生きていることのありがたみを真実の意味で実感出来るようになったと言えるだろう。程々に生きて適当に死ぬことすらも出来なかった俺は、よくやくスタートラインに立てたのかもしれない。


 一通り手を温めたら今度はベッドの側へと移動して、肩に掛けていた鞄を下ろしベッドの下へと仕舞い込む。ベッドの縁に腰掛けると同時にまだ日が落ち始めたばかりだと言うのにどっと体を襲う疲れに耐えきれなくなり、レザーブーツを脱いだ後でベッドに横たわる。最初は目を瞑るだけにしてすぐに動き出そうと考えていたのだけれど、満腹ということもありだんだんと意識は遠くの方へと揺蕩って、遂には深い眠りへと俺を誘った。

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