今は白きこの世界
白井戸湯呑
序文/煉獄樹海
大陸の最東端に存在する半島は、この無限に続く氷と雪の世界に於いて珍しい青々とした樹木と本来人間が生存するのに適した春のうららかな気温が包んでいた。この土地に住む人々はその事実を神の慈悲であるとして、大森林の中央に位置する蔦と木の根に侵された祭壇に毎年贄を捧げている。
そんな大森林は今、轟々と音と黒煙を吐き、怒りにも似た火炎を纏うことで生物という生物の生命を徹底的に刈り取らんと暴虐の限りを尽くしているのだ。無論、大森林が唐突に発火した訳ではない。そして、雷が落ちたとかそういったごく自然的な事象を発端とした発火でもない。
この大森林の火災は、何のことはなく一人の男によって巻き起こされたものであった。
大森林にいくつか点在する集落の中でも一際大きく、同時に大森林内で最も強い権力を持つグオス地区。平素であれば狩人や商人が行き交い、雑多でありながらも悪くはない活気ある生活音に満ち満ちている場所であるのだが、その日の音は、常日頃の人々が息吹く快活なものなどでは決してなく、狂気と混沌にも似た恐れと怒りの声が大小様々と語られていた。
「何の騒ぎだ?」
集落のある丘上に構える家から顔を覗かせて、街の様子を見やる初老の男性——長老であるトーノの問いに、彼の古い知人であり大森林随一の狩人であると呼び声高いエドワードが応える。
「サキハラが面倒見てたアメミヤがやらかしたらしい。村の狩人も衛士も総出で彼を追っている……勿論、サキハラも。……すまない、騒ぎの原因は『火災』だ。アメミヤが火を放ったらしい。火の手はもうかなり回っていて、とても消せたモンじゃない……この地区はもう捨てることになるだろうな」
そう言いながらエドワードが顎で指し示した方角にトーノが目を向けてみれば、そこには、先祖代々外界の人間から守り通してきた大森林が燃え、黒煙を吐き、着実に荒地と化している様子が非現実味を帯びた現実として存在している。トーノはその光景に一度目を見張ったものの、次の一刹那にはアメミヤがこのような行為に及ぶ前に気付いてやらなかった自分自身を恥じた。それが過ぎたことは取り返しがつかないという考えからくるものか、はたまた自分自身の愚かさを正当化するための恥であるのか……それは誰も知るところではない。
伝えることを伝えたためか、エドワードは体重を任せていたトーノ邸の外壁から背を離し、左肩に掛けた負い革を軽く指で動かすことで背負っている猟銃を掛け直す。その姿を見たトーノは、エドワードがこれから何を行おうとしているのか、大方の予想が付いていながらも確認と真意を知るべく口にする。
「どこへ行くんだ?」
今度の問いにエドワードは愛用しているマントに付属するフードの端を掴み、目元が隠れるほどに深く被る動作と共に沈黙でこれに答えた。
同時刻。
火炎の中を我が庭の如く駆け抜け、追跡者達を一呼吸の内に突き放して進む男が一人。煤のような黒髪は後ろにすきあげられ、その下に広がる顔の中央には横一文字の古い刀傷が刻まれている。上半身は裸体の上に羽織りを、足には草鞋を履いている。この男こそが大森林に火を放った張本人であり、グオスの衛士長を務めるサキハラ・キショウ直属の弟子であるアメミヤ・アマツユである。
彼はこの日、街の外れより無断で外出し、前々から目を付けていた一本の枯れ木に火を灯してそれを観察していた。一本の枯れ木に灯った火はあっという間に大きく育ち、辺りの木々にも炎という病を伝染させ、遂にはアメミヤの周囲を包むほどの焔へと成長を遂げる。アメミヤの周囲を焔が包む頃にはグオスの衛士達も火災に気付き、故郷たる大森林を守るべく鎮火を試みようと火元を目指して駆け出していた。火元へと到着した衛士一行はそこに立つアメミヤの姿を見て、瞬間的に彼が犯人であると看破する。いや、その堂々たる立ち姿を見て、彼がこの火災の被害者であると考える者の方が少ないことだろう。
その場にいた衛士の七割は鎮火に、三割はアメミヤの捕縛に駆り出された。そうして、衛士と焔に囲まれた状態から始まった追いかけっこであったにも関わらず——アメミヤは火炎急流の中をいともたやすく掻い潜り、二重に敷かれた檻から脱出を果たす。その脚が目指すのは大森林の外に広がる世界であり、あまりの美しさに見惚れていただけで本来は火災に乗じてこの土地から脱獄することが目的であったのだ。
瞬く間に広がった火炎の中を選び追跡してくる衛士を撒いて、遂にお互いにお互いの位置を確認出来なくなった頃。アメミヤはコソコソと身を隠しながら進む行為を止め、己が出せる最高出力での突破を開始した。脇を締め、腕を大きく振るその走法は大森林内で主流である獲物を追うための自己の存在を隠しながらの走法などではなく、大森林外で開かれるリレー大会などで扱われる短距離を高速で走り抜けるための走法である。
しかしその走法も長くは続かず、自身が進んできた道が正確であることを知るために通過しようとしていた、いつからそこにあるのか誰も知らない石造りの大門が佇む広場にて、焔すら味方につけて走り抜けてきたアメミヤをも先回りして、彼を待つ者がいた。
自身の不甲斐なさに打ちのめされながらもその場に立つ者は、アメミヤの師であるサキハラ・キショウその人である。
彼女は右手に握っていた一振りの刀をアメミヤに投げ渡し、アメミヤは観念したようにそれを受け取った。お互い、合図は無くとも同時に抜刀し、サキハラは正眼に構え、アメミヤは白刃を右手のみで握り左には腰に掛けたホルスターから拳銃を取り出して、握る。真剣での勝負に於いて拳銃を握ったアメミヤに対し不快な感情を持ったサキハラではあるが、これは真っ向からの殺し合いであることは重々承知の上であるために、戦場に善悪を求めることが筋違いであると考えを改めてこれを受け入れる。
「サキハラ・キショウ。罪人アメミヤ・アマツユの捕縛、あるいは殺害のためこの剣を抜刀した。弁明があるのならば今、口にするがいい。これより先は死狂いである」
口上を述べるサキハラに習い、アメミヤもこれを返す。
それは剣士としての誇りからくるサキハラの口上とは異なり、ただサキハラに対する恩義からくる最後のやり取りであったことは語らぬ方が美しいものかもしれない。
「アメミヤ・アマツユ。我は我が想いに従い、これを成す。この行いに後悔をするつもりはないし、後悔などしようがない。この先へ通さぬと申すのであれば、押し通らせてもらう」
サキハラが、右脚を後ろに引く。
「やってみろ」
アメミヤは、左脚を後ろへと引く。
それを合図にお互い一歩として譲ることなく距離を詰める。
接近と同時に引き上げられたサキハラの刀は大上段に構え直され、アメミヤは接敵前に左手に握るシングルアクション式小型自動拳銃による射撃でこの構えを崩そうと考え、そして射撃する。撃ち放たれた弾丸は高速で回転しながらサキハラの頭蓋目掛けて飛翔したが、一瞬の逡巡もなくサキハラはこの弾丸の軌道を刃によってそっと逸らす。しかしこの動作によって射撃による死亡は免れたものの、アメミヤの接近を許し、右に握る刀から繰り出された一振りを大きく三歩後方へ跳ぶことで辛くも躱す。
回避に対する追撃としてアメミヤは刀を引き、銃を前に出す牽制の形で距離を詰め、射撃から一瞬遅れて正面突きを行なう。サキハラは銃弾を逸らしてから突きをいなすことも、銃弾を躱し突きをいなすことも、銃弾を逸らし突きを躱すことも不可能だと踏み、大きく体を落とすことでこの両方を回避する。回避の際、刃を左腰の位置まで落とし、同時に構えることで次の右脚での踏み込みと同時にアメミヤの右腰から左肩口かけて切り上げた。アメミヤはこれを予想し、皮一枚で避けることが出来ると考えた一歩半を無理矢理に後退したものの、しかし、その身からは死には至らぬまでも一撃を受けたために血が吐き出されることとなる。これは一般と異なりサキハラが刀を握る際に左手は握るのではなく、柄頭を掌で包むように。それでいて小指を外し薬指、中指、人差し指のみで軽く握る特殊な握りをしていたからである。この握りによってサキハラの刀は拳一つ分も間合いが広くなっており、これはサキハラが本気であることの証明でもあった。
分が悪い。
回避したという絶対の自信があったアメミヤは、この一撃により完全に戦意を喪失する。しかし、ここで構えを解く及び降参を意味する行為はアメミヤのプライドが、そしてサキハラの殺意が譲るはずがなかった。
「……逃げ勝ち、ですか」
言い聞かせるように呟いて、アメミヤは二歩も大きく後方へ距離を取る。構えを解くことはせず、互いに間合いの外へ出て睨み合う。
逃走経路を求めただの一瞬アメミヤが目を逸らしたその刹那の隙にサキハラは刀の間合いへと割り込み、袈裟に斬り落とそうと斬りかかる。辛くもそれを受け止めたアメミヤであったが、片腕で受けるにはその攻撃は余りにも重く、銃を握る左腕で峰を抑えなければ押し負けることは明白である。しかし今銃を失う選択はない、となると、銃を握ったままに峰を抑える選択しかあるまい。
獣のような気迫で刀に力を込めるサキハラに、アメミヤは心の奥底で恐怖し、畏怖し、そしてやはり尊敬の念を抱いた。これ程までに真剣になれるものが自分にもあれば、などと言ったところで何も変わりはしないもしもが頭をチラつくも、喉から息を絞り出して馬鹿正直に受けた刃を一息の内に押し返すことでもやを払う。
サキハラの一撃を押し返したことで自由になった左腕を機動し、銃撃により牽制する。同時に自身も後退し、近距離から中距離の戦場へと移行させることによって銃を持つアドバンテージを確立する。装填済みの銃弾は残すところ四発……不吉な数字に揃ったことに軽く落胆するが、そんなことをしている暇はない。まず間違いなくサキハラとの戦いでは再装填の時間は与えられないと悟ったアメミヤは、一か八かの賭けに出る決断をする。
折角取った間合いではあるが致し方なしと距離を詰め、一本筋を通した太刀筋でサキハラの左肩から右腹へと袈裟斬りを狙うアメミヤ。これを受けたサキハラは左脚を退げ、左腕を引き高く突きの構えを取る。アメミヤから見ればサキハラの肉体の側面しか見えない形になっていたものの、それでもアメミヤの太刀筋には一点の曇りもない。腰を落とし、アメミヤの胸中一点に集中したサキハラは、互いに間合いに入ったその瞬間、突きの構えから円弧を描く形で流れるように刀を振るい、放たれた矢の如く駆る刃を横から打った。刃を打たれたことで右肩ごと大きく弾かれたアメミヤの左脇腹目掛け、追撃として攻撃の勢いを活かしたままに左脚の踵による蹴りを与えるサキハラの猛攻により、アメミヤは防御もままならずその腰を地に落とすこととなる。
刀から手を離し、地面に寝転がり、肩で息をするアメミヤの腹を右脚で踏みつけたサキハラは、逆手に握った刀を今度こそ胸中一点に狙いを定めて停止する。
「どうして、こんな事をしたんだ」
サキハラが問う。
「自由になりたかったからです、先生」
とアメミヤは答えた。
サキハラが唇を噛み締め刀を突き下ろした瞬間、アメミヤの左腕がおもむろに持ち上がり、その手に握られた銃が一メートルもないような超近距離からサキハラの額目掛けて発砲される。が、しかし、驚くべきはこの不意打ちではなく、不意打ちと同時に舞い上がった爆炎であった。
トリガーが引かれると同時に撃鉄が落ち、装填された弾丸のヘッドを叩く。それによって生じた火花が彼の"力"によって炎を育み、銃口から放たれたのは弾丸の一発に留まることなく、大森林を包む炎の原型となった爆炎を産み出したのであった。
「……はぁ……はぁ……はぁ」
サキハラの生死を確かめる事はせず、アメミヤはこの一撃で生じた隙を突いて再度逃走を試みる。広場を抜け、続く大森林を抜け、そして終いには純白の氷土へと辿り着いた。ここまで来れば、もう追っ手など気にすることはない。どうせ大森林に息づく人々には、大森林外へと出る勇気などないのだから。
安堵の息を一つ漏らし、アメミヤは白い世界へと足を踏み出す。
凍てつきそうな空気の中であっても、彼の周りだけは『熱』が残っている。
知識なんて欠片も無く、右も左もわからない新世界。
その全ては冒険であり、これより先に広がる世界はどこまで行っても未知のモノに溢れているのだ。
新たな出会い、新たな知識、新たな故郷を目指して歩を進める。
彼——アメミヤ・アマツユの旅路はこうして幕を開けたのであった。
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