第27話 失踪-2

 そんなある日、春香は部屋で二枚の名刺を眺めた。一枚は後藤から無理やり渡されたもので、もう一枚は寺脇から貰ったものだ。長い間考え抜いた後に、思い切ってそこに書かれている連絡先に電話をかけた。

「はい、●●損害保険、大宮火新調査課です」

 電話口の女性に名乗って寺脇を呼び出して貰うと、しばらく流れる保留音を聞きながら、まだ心が揺れていることに気付く。すると彼の声が聞こえてきた。

「お電話変わりました。寺脇です。どうされましたか?」

 なぜ春香が電話してきたのだろうといぶかしんでいる彼に対し、思い切って告白した。

「実はお話ししたいことがあります。ここ最近、また体調が悪化し寝込んでいたのですが、このことをお話ししないと私はいつまでも立ち直れないと思い、信頼できる寺脇さんにお電話しました。お忙しいところすみません」

 そう切り出し、心の奥底に閉まっていたあの案件をそこで一気に吐き出した。勤務中で忙しいはずなのに、彼はこちらが話し終わるまでずっと静かに聞いてくれていた。

 そのことに感謝しながら喋り続け、話すことは全て言い切ったところで彼は予想外の言葉を口にしたのだ。

「天堂さんはそのことでずっと苦しんでいたのか。気付いて上げられなくて申し訳なかった。でも安心して欲しい。天堂さんはあくまで被害者だ。既に会社でもあの案件を中心に本格的な内部調査を進めていて、君が巻き込まれていたこともある程度把握している。当時私も隣の部署にいたから何度も話を聞かれたよ。第一支社にいた後藤君も調査チームの一人として参加しているはずだ」

「そうだったんですか! 後藤さんがこの旅館に二回ほど来られて、何度もあの件の事を聞かれたのはそういう理由だったのですね」

「何? 彼は旅館にまで押しかけて、聞き取り調査をしていたのか。電話だけで十分なのに。あいつそんなことを?」

「はい。二度目はあの土砂災害後の時です。営業の応援で来たと言っていましたが、何度か問い質されました。一回目はプライベートで二泊されましたよ」

「天堂さんはこの件で、彼には何も言わなかったのかい?」

「後藤さんのことは余り信頼できる人だと思えなかったものですから」

「なるほど。その気持ちはよく判る。特にあの頃、加納君が長期療養をし始めた時の彼の勤務態度は良くなかったからね。でも今は一番近くにいた内部告発者の一人として情報を集めているらしい。だから今君から聞いた内容は、私から彼のいる部署に伝えよう。もしかするとその部署から連絡、または天堂さんの所に調査担当の社員が尋ねてくるかもしれない。その場合は後藤君以外にするようお願いしておくよ。体調の件も含めしっかり事情を説明して、担当は丁寧な対応ができる社員にするよう依頼するから」

「有難うございます」

 寺脇に話したことでようやく胸のつかえが取れた。しかも会社がすでに調査していることには驚かされたが、自分に罪はないと聞いて安心した。思わず涙が頬を伝わる。

「私を信頼し打ち明けてくれてありがとう。だけど何度も言うが申し訳ない。君があの件で苦しんでいることが判っていたら、もっと早く手を差し伸べられたのに。気付かなかった俺にも管理職として責任がある。本当にすまなかった」

 寺脇に何度も謝られ恐縮してしまった春香は、思わず電話口で首を横に振り頭を下げていた。

「いいえ、そんなことはありません。こちらこそ今頃こんなことを言い出してすみませんでした。もっと早く相談すれば良かったと思います。私が弱かったせいで、こんなことになってしまっただけですから」

「いや、それは難しかっただろう。あの頃はノルマノルマで厳しい時だったし、あの時の第一支社は太田さんを中心に異常な雰囲気だったからね。一番下の立場だった天堂さんが言い出せなくて当然だ。そういう私自身も、なんとなくおかしなことが行われていると気付いていながら、上に報告できなかった。だから君より私の責任の方がずっと大きい。申し訳ない」

 電話の向こうで彼が何度も頭を下げる姿が目に浮かぶ。声から伝わってくる温かい誠意がとても有難く感じられた。電話を切って話し終わるとその後どっと疲れが出て再び眠ってしまった春香だったが、決して嫌な疲労感では無かった。

 それどころか目覚めた時には、重い鎖が体を取り巻いていたかのような倦怠感が一気に無くなり、解放感で一杯になった程だ。

 布団から跳ねるように起きた春香は久しぶりにしっかりと化粧をし、問題の件について話そうと旅館へと足を運んだのである。

 まずは直属の上司に当たる小畑へ伝えると、話を聞いた彼女に連れられ人事部に話を通すため、場所を移動することになった。そこでこう言われたのだ。

「話は判った。だけど天堂さんは何も知らされないまま、巻き込まれただけだろう。それにまだその案件が向こうの会社で刑事事件になった訳でもないし、公表された訳でもない。もしかすると社内処分だけで済ます可能性だってある。いやあれだけ大きな会社だ。その可能性の方が高いと思うな。だから天堂さんが責任を取ってここを辞めるという決断は、拙速すぎはしないか。今の段階で私はあなたがそこまでする必要性を、全く感じられないのだが」

 連れていかれた部屋の中で再度春香から説明を聞き、小畑からも補足説明を受けた人事部の役員の言葉に、横で連れ添ってくれていた小畑も深く頷いた。

 しかし小畑に告白した時点で、春香は旅館を辞めると決意を固めていた。

「いえ。やはり自分自身の中で、ケジメをつけなければならないと思います。以前いた会社から近々連絡があるでしょう。そうなれば今度こそしっかり協力したいと思います。その上であちらの会社がどのような結論を出すかは判りませんが、旅館に迷惑をかけたくありません。ただでさえここ最近、私は仕事のできない状況が続き、足手まといになっています。ですからこちらを退職した上でこの件について対応し、その後改めて体調の改善に努めながら、新たな道を探したいと思っています」

「新たな道って、何かもう決めたことがあるのか」

「いえ。ただここで学んだことを活かすためにも、そして自分自身の為にも和太鼓は続けたいと思っています。一度地元に戻り、罪を償うために和太鼓を通じて何か社会貢献のできる福祉関係に付くことができればと、漠然とした想いはあります」

「いや、それも立派な考え方だが、引き続きこの旅館にいて働くことで恩返ししようとは思わないのかね」

「そうよ。天堂さんはここで一生懸命やってきたじゃないの。あなたはよくやってくれた。その折角のキャリアを捨てるのはもったいないでしょう」

「申し訳ありません。ただ心の中に閉じ込めていた懸案事項を吐きだすことはできましたが、体調もまだ完全ではありませんしご迷惑をおかけしていることは間違いありません。しかもこの病気が再発したのですから、またいつ寝込んでしまうか判りません。ここでの勤務は、やはり万全な体調と精神を持っていないと努められないと思います。こちらで入社面接を受けた際にお約束したことが果たせませんでした。私の考えが甘かったのだと、ここ二カ月ほどで身に染みました」

「確かに旅館業の仕事は楽じゃない。しかも天堂さんは和太鼓部に所属しているから、休みの時間も削っていただろうし大変だったと思う。だが今回の再発は、土砂災害による業務の負担も関係しているはずだ。それはこちらも重々承知している。それでもあなたは今まで色んな苦労を乗り越えてきたじゃないか。今度だってもう少し休めば、やり直せる。私たちはそう思っているよ」

「いいえ。努力はしてきましたが、結局乗り越えられませんでした。もっと肩の力を抜くことを覚えれば、多少は続けられるのかも知れません。でも不器用な私にはそれができないのです。それにまた迷惑をかけるかもと思うだけで、プレッシャーとなりストレスになるでしょう。いくら皆さんに大丈夫だと言って頂いても、自分の心と体がそれを許してくれません。融通の効かない人間だとお思いでしょうけど、これが今の私です。こんな人間でも生きていける場所、人の役に立てるところを新たに探したいと思います。我儘を言って本当に申し訳ございません」

 説得することが困難だと思った人事役員と小畑は、結果的にしぶしぶと春香の意思を尊重してくれた。ただし退職は前職の会社が行う調査前に退職することだけは許されず、少なくとも長期休職の期限までは在職するとの条件を飲まされた。

 なぜなら旅館では状況が落ち着けば、災害により傷ついた地域の復興を願うイベントの開催を予定しているという。そのため出来れば体調を整え太鼓パフォーマンスに参加し、被災者達を勇気づけることを期待するとまで言われたからだ。

「あなたがけじめと言うのなら、そこまでやって初めて区切りがつけられるのではないのかな。今回の災害で苦しんだ人々と同様、復興イベントを通じて新たな旅立ちに向けてあなたも一緒にスタートするべきだと思うのだが」 

 そこまで言われれば断る訳にも行かなかった。自らの心の中に抱えた秘密に決着をつけることも含め、なんとか体力を回復させ最後の奉公をしてから旅館を去る覚悟を決めたのである。

 その後寺脇が言った通り、後藤とは違う人事調査部の社員から電話があった。先方からは直接会った方がいいから一度そちらに伺いたいと言われたので、春香は了解した。

 人事部の調査員は男性一人に女性一人の二名体制で、春香に対する聞き取りを行った。そこでは寺脇に告げた通り、自分の知っている範囲について全て語り、その上で予測できていた事実について自分の考えを述べた。

 知らされていない部分は多かったが、それでも加納の担当していた仕事を田中と共に約二年も手伝ってきたのである。よって体調を崩すまでにおかしいと気づいたいくつかの点を正直に伝えたのである。

 寺脇同様、最初は春香の話をできるだけ聞くよう心掛けていた調査部の人達は、しばらくするといくつか質問を投げかけてきた。答えられるものもあったが、中には全く知らないことも含まれていた。

 それらの質問から判ったことは、やはり会社の内部調査はかなり進んでいて、こちらが告げた内容程度の事は全て把握していたことである。二時間ほどのヒアリングを終えると、調査部の男性が最後に言った。

「お話はよく判りました。今回天堂さんがお話しされたことは、調査済みの事がほとんどで、その裏付け証言の一つに過ぎません。しかもあなたはすでに当社を退社されておりますし、あくまで巻き込まれたにすぎません」

 春香はそれに反論した。

「でも私がおかしいと気づいた時点で、誰かに報告していればもっと早く公になっていたでしょう。ですから私が単なる被害者だとは言い切れません。加担していたと言われても仕方がないと思っています」

 だが担当者は首を横に振った。

「そういう考え方も出来るでしょう。しかし会社としては、言わなかったから悪いと必ずしも言えないのです。あなたは当時新人として配属され退職するまで、最も下位職の立場でした。そんな職員が普通上司に逆らうことなど言えないでしょう。それに天堂さんが口に出せなかったのは、そのような状況を作った周りの上司や同僚、しいてはそうさせた会社自体の責任です。しかもあなたは体調まで崩された。そのような人に今回の件で責任を取らせること等全く考えておりません。そこは安心して下さい」

「でも、私がもっと勇気があれば、」

「いいえ。加納さんが体調を崩され、あなたまでもが退職された。その後しばらくして内部告発があり、会社は調査に入ったのです。あなたの退職が、ある意味この件を調査するきっかけになりました。ただ調査は第一支社の案件だけではありません。全国に渡って様々な不祥事が出始めていたため、まとめて本格的な社内調査を行っているのです。詳細は言えませんが、もっと悪質な行為をしていた部署もあり内容も多岐に渡ります」

「そうだったんですか?」

「はい。ですから当社としては、天堂さんに感謝とお詫びこそすれ、この件で責任を問うことは決してありません。ただこれはあくまでまだ社内調査ですし、内部の個人情報なども絡んでいますから決して口外なさらないようお願いします」

「判りました。しかしこの旅館の上司の一部の人には話してしまいました」

「大丈夫です。事前にこちらへ連絡を頂いていますし、そういった事情も理解しています。あなたとお話しする前に、旅館の方々には口外しないよう依頼済みですからご安心ください。それよりこちらの方々は、あなたの事をとても心配していました」

 春香の知らない所で、旅館の人事部から直接保険会社に対して説明があったようだ。そこで春香の処遇がどのようなものになるか、または罪があるとしても情状酌量されるようにとお願いされたという。

 その気遣いに思わず目が潤んだ。それをごまかすように頭を下げた。

「ありがとうございます。それを聞いて安心しました」

「これは余計なお世話かもしれませんが、今ご説明した通り天堂さんに責任を問うことは致しません。ですから例えこれが公になっても、あなたが責任を感じ旅館を辞める必要などありませんよ」

「そんな話もご存じでしたか。ただ旅館を辞めると決めたのは、この件だけが原因ではありません。私の体力と精神的な問題ですから」

「そうですか。それでは本日はお時間を頂き有難うございました。調査のご協力に感謝します」

 そう言って二人は頭を下げて席を立ち、旅館から去った。後にこの件に関して会社は刑事事件として扱わないと決めたことを知らされたのである。

 ただ保険会社を管轄する金融庁へは、この件以外にも多数あった社内不正に関する内部調査の報告を行ったらしい。その為業務改善命令を受けたという。

 今回の件は会社にとって全国的な不正問題のほんの一部に過ぎなかったようだ。新聞でも報道され正式に金融庁から改善命令を行った事例を見た所、もっと悪質な事案が指摘されていた。

 例えばノルマ達成の為、生保の加入時に必要な医師による健康診断の際、健康状態の良い別人を立てたことや、私的な領収書を発行し積立保険の契約保険料を着服していたケースなどがあった。

 よって小曽根第一支社で行われた不正は、少なくとも新聞記事に乗ることはなかった。太田が行った不正は、生命保険契約に関するものだ。ノルマの達成を優先するが為に保険業法違反を犯し、手数料のキックバックを行っていたのである。

 しかしそうした裏取引を後で聞かされた加納は、契約成立後に発生する手数料が代理店に支給され始めてから、手数料バックの橋渡しをするようにと聞かされたらしい。さらに太田からは指示された通りにしろと言い含められたという。

 知らぬ間に違法な契約手法に手を染め、加担させられたことを加納は思い悩んだ。それまでの仕事における疲労や太田への不満も溜まっていたこともあったのだろう。結果心を病んで体調を崩し会社を休みがちになり、長期療養を余儀なくされたのである。

 そこで慌てたのが太田だ。田中主任を巻きこんで手続きを続行させたものの、いつまでも自らが関わる訳にはいかないと考えたらしい。その為後で着任した春香に手伝わせたという。

 また田中に言い聞かせて、キックバック手数料の受け渡し資料をプロ代理店の高畠からの回収書類に紛れ込ませたのだ。

 最初は良く判らない状況で言われるがまま仕事をこなしていた春香だが、あるきっかけからそのやり取りが、本来不正に当たるものだと気付いた。

 もうその頃は新人と違い、様々な保険知識や契約を結ぶ時点で注意すべき事項なども理解していた。その為あの書類の中身は不正なものだと疑念を持つ程度の想像力と知恵は持っていたのである。

 書類はしっかり封がされていて、中身が確認できなくなっていた。それでも手触りで単なる書類で無いことに気づいた。そしてある時意を決し問題の書類を注意深く触ってみたところ、紙幣と硬貨だと見当をつけたのだ。

 それでもしばらく気付かない振りをしていたが、確かめたいという心理が働いた。そこである時こっそり封を開けたところ、中身が小銭を含めた金銭であることを知ったのである。

 手数料のキックバックの取り決めをした際、一円単位まで正確な金額を返金するという決めごとがあったのだろう。だから小銭が含まれていたようだ。

 その上別件で気付いたこともあった。回収書類の中に真中宛の封筒がある時には、太田宛ての書類も必ずあったことだ。

 最初は支社長宛ての連絡事項だと思っていたが、その封筒もばれないように封を開けたところ、硬貨は入っていなかったものの紙幣を発見したのである。

 そこから春香は悩んだ。これは明らかに不正である。しかもただの手数料バックでは無く、支社長までが中間マージンとして金銭を受け取っていることが判明したのだ。

 しかしお金には色がついてい無い。よってそれがバックマージンだと証明することは難しいだろう。しかしこのことはおそらく田中も気づいているはずだ。ならば元の担当だった加納はどこまで関係しているのだろうか。

 そんなことを考え出してから春香は太田や田中を見る目が変わり、信用できない人達だと思う不信感がぬぐえなくなった。そこで日が経つにつれ、自分も不正に加担しているとの罪悪感を持つようになってしまったのである。

 その頃からだ。自ら判断して動く場合は良いが、二人から指示された全ての仕事に対して心と体が拒否反応を起こしだしたのである。その結果うつ病と判断され、休職することとなったのだ。

 後に太田は会社を自主退職し、田中は降格人事の処分を受け、さらに会社は高畠とグレープとの代理店契約を解消したとのうわさが耳に入った。

 おそらく刑事事件にしない代わりに、そうした処分で幕を引いたのだろう。高畠もグレープも、年間の保険料扱いは損害保険だけで数千万から一億越えの大きな取引先だった。

 ということは会社として年間で一千万から二千万円以上の利益が失われることを意味する。内部だけで処理したとはいえ、それほどのお得意様と手を切ったのは、それだけ体制の改善に本気を出した意思表示なのだろう。

 また加納に関しても春香同様すでに退職している為、何のお咎めも無かったようだ。どうやら高畠と真中との間の交渉に、加納は全く関わっていなかったらしい。

 しかしその時点ではまだ彼の行方が判らなかったので、本人には直接報告できず、会社はそのことを家族に伝えたという。

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