第26話 失踪-1
旅館には被災住民以外にも、国や県などの自治体からくる対策本部の人達が大勢出入りし始めた。土木工事の関係者達や保険会社等の調査チームといった方々の受け入れも行ったが、全国各地からやってくるボランティアの受け付け窓口まで兼ねることとなった。
そこで屋内外に支援物資の受け入れのスペースも確保し、ボランティアでやってくる人達の宿泊スペースとして屋外の一部にテントを張れる場所も設けた。さらに駐車スペースで車中泊できるように専用区域を設ける等、様々な準備の為に従業員達はしばらくフル稼働し大変な時期が続いたのである。
そんな多忙の中、覚悟していた通り前職に関わる会社の人達も災害対応の為にやってきた為春香は秘かに苦しんでいた。
土砂災害などによる家屋や自動車等の損害調査の為、自治体の行う調査員とは別に各損害保険会社の社員や保険会社から依頼を受けた調査会社の人々が次々とやってきたのだ。もちろんその中には春香のいた会社も含まれている。
以前いた部署は営業なので直接関係はなかったが、大きな災害が起こった際には、全国各地に点在する損害調査の部署から応援に駆けつけることは聞いていた。
春香が入社する前に起こった阪神大震災や東日本大震災は当然ながら、入社後に起こった令和元年台風十九号等の広域災害等がそうだ。
あの時も一週間から二週間の交代で損害調査チームが入り、建物の損害などを調査して保険金を迅速に支払う作業を行ったらしい。
今回の災害は幸い人的被害は少なかったもものの、家屋の倒壊や自動車の損害等が相当数あった。その為損害調査員達も多数訪れていたのだが、その面々の中に意外な人物と出会うことになる。
それは突然だった。慌ただしく走り回っていた春香を呼び止める声がしたため振り向くと、かつていた隣の部署の第二支社長だった寺脇がいたのである。
「やはり天堂さんか。さっきから天堂、天堂と君が色んな所で呼ばれているから、もしかしてと思ったんだ。覚えているかな。小曽根にいた寺脇だよ」
「もちろん覚えております。ご無沙汰しております」
彼には会社で一瞬目が見えなくなって倒れた際に、優しく声をかけてもらった。その上実家で休養している時に体調を気遣うハガキを頂いたこともある。雰囲気が悪かった第一支社とは違い、彼の人柄もあったのか隣の第二支社は元気で活気があり羨ましく思った記憶があった。
そのため彼は以前の職場の人間の中で数少ない、好印象を持つ社員の一人だ。
「こんな偶然もあるんだね。天堂さんは今、ここで働いているの? 体の方はもういいのか?」
「はい。お気遣い頂き有難うございます。退社後、体調が戻りつつあったので思い切ってここの面接を受けました。入社してもうすぐ二年になります。寺脇さんこそ何故こちらへ? 震災の応援ですか?」
「ああ。君が退職した後、埼玉の大宮にある火新事故調査課に異動したんだ。それで応援要員に選ばれたんだよ」
火新事故調査課とは自動車事故の対応をする部署とは別に、火災保険や施設損害賠償保険等の新種保険と呼ばれるものの事故対応を専門にしている部署だ。
今回のような災害が発生した時は、火災保険に加入している顧客への事故対応の為、彼のような課の人間がやってくる。もちろん自動車損害課も同様だ。
寺脇は大宮での名刺を差し出したので、春香も旅館で使っている名刺を渡した。そして頂いた名刺を眺めながら思わず尋ねた。
「寺脇さんは確かこれまでずっと営業でしたよね。それなのに事故課へ異動されたのですか」
彼は苦笑しながら説明してくれた。
「会社の人事方針もきまぐれでね。昔もこういうことがあった。基本的には新人の時に一度営業へ配属されたら、大抵はしばらく営業が続いたものだ。事故課も同じだった。それが支払いを行う事故課も営業の視点が必要で、営業も事故対応や支払い知識を持った人材がいた方が良いと最近になって上が言い出した。だからここ二年程でかなりの社員が入れ替わった。俺もその一人だ」
「そうでしたか」
「事故課の経験が全くない上に、いきなり課長として配属されたから最初は面食らったが、最近ようやく慣れてきた。そんな時にこの災害だろ。会社として対応マニュアルはあるけど、何せ初めてだからまだ戸惑っているよ」
「大変ですね。長く火新事故課にいらっしゃる方なら、ここ数年は水災害が多発しているので経験豊富でしょうけど」
「そうなんだ。本当ならそうした経験者を中心に呼べばいいのに、ベテランばかりが現場を離れると、それはそれで文句も出る。だから会社もできるだけ平等に分担させようとするから、俺みたいな素人でも選ばれるんだよ」
温暖化による異常気象のせいなのか、近年では全国各地で集中豪雨が発生している。毎年のようにやってくる台風による風水害に加え、土砂崩れや河川の氾濫による広域災害が増えた。損害保険会社の火新損害課にとってここ十数年は多忙な日々が続いているのだろう。
「そうは言っても俺の場合はあくまで応援要員だし、忙しいのは一週間だけだ。来週には別の部署の管理職か、課長代理辺りが交代で来る。主に忙しいのは現地であるY県の火新調査課だろう」
「そうでしょうね」
「ああ、ごめんよ。そっちも忙しい時に声をかけちゃったな。でも元気そうで安心したよ。君は真面目だから、余り無理せず頑張り過ぎないようにね。まあそう言う訳でこれから一週間お世話になる。よろしく」
「こちらこそ。寺脇さんもお忙しいでしょうから、旅館にいらっしゃる時はごゆっくりおくつろぎ下さい。ご心配いただいてありがとうございます」
そう言って頭を下げその場を離れた。やらなければならない仕事はたくさんある。だが思わぬ人物との遭遇で胸の奥底に仕舞い込んでいた事が再び心を搔き乱した。
その上この時期に前職の会社からやってきた人物は、寺脇以外にもいた。再びあの後藤が姿を現したのである。
彼は本社から現地の営業部門の応援として派遣されたようだ。これほど重なれば単なる偶然だとは思えない。これは何かの暗示か。そうでなければ天による嫌がらせだろうかとすら想像した。
そのような心理状況に加え、旅館の業務に忙殺されたことによりストレスを強く感じ徐々に体調を崩していった。
この時の症状が単なる働き過ぎによるものでないことは自分でも判っている。頭痛に動悸、倦怠感と絶えず訪れる眠気、または不眠。全て前職で休職した頃の症状と同じだった。本格的にあの病が再発したのだと気付く。その原因も判ってはいた。
やはりあの秘密を抱えたままでいること自体が問題なのだろう。前職の人達に会う度に過去の出来事を思い出し、罪の意識にさいなまれるのだ。
やはりこの苦しみから抜け出すには、胸に秘めた案件を一度吐きだす必要があるのだろう。度重なる偶然の出来事は、その時期が来たことを教えてくれている。そう考えるようになった。
後藤は以前のように春香と顔を合わせば必ず呼び止め、時にはフロント裏の事務所で仕事をしている際にも呼びだされることがあった。その度に彼は問い質してくる。
「あれから何か思い出したことはないかい? 小曽根支社でいた頃におかしいと思ったことがあるだろう。君が体調を崩し会社を辞めた事だって、そのことも関係しているのではないのかい」
その話題が出る度に、
「何もお話しすることはありません」
「昔の事は忘れました」
「すみません、仕事中なので」
と彼の質問から逃れるように接してきた。ただ唯一聞き逃せない質問は、加納の事だった。
「君、加納さんの事を覚えているかい? 長い間体調を崩されていて最近会社を辞められんだ。でも今は失踪中で連絡が取れなくなった。それで困っているんだけど、何か知っていることがあったら教えてくれるか?」
加納がこの旅館に家族でやってきたのは先月の事だ。本来ならお客様の個人情報を他人に知らせることなどしてはいけない。だが失踪と言う言葉が引っ掛かり思わず尋ねてしまった。
「加納さんが失踪したってどういうことですか? 先月、この旅館にご家族でこられたばかりですけど」
「そうなの? 先月のいつ?」
情報を与える代わり彼に関する話を聞き出したところ、連絡が取れなくなったのは今月の半ばらしい。後藤は春香に質問していたことを加納からも聞き取ろうとしていたようだ。
しかしよく事情を知っているはずの彼の口は重く、情報は何も得られなかったという。彼の体調の事も考慮しなければならなかった為、時間を置きながらそれでも何度か連絡をしていたらしい。
それがある日急にいなくなったと奥様から聞き、その後大騒ぎとなり警察にも失踪届を出したようだ。
けれども心の病にかかっていたとはいえ、徘徊癖もなくそれまで自殺未遂を起こしたこともなかった。そんな大人が帰ってこないだけなら、はっきりとした事件性が無い限り警察は簡単に動いてくれないという。その為今のところ全く情報が無いままらしい。
「すみません。私は先月お会いしただけですから」
家族旅行の件を彼は奥さんから聞いていなかったらしいが、その答えに落胆していた。その為新しい情報は得られないと諦めたらしく部屋へと戻り、その後すぐに旅館からいなくなったのである。
後に彼はこの旅館ではなく市内の施設で宿泊していたことが判った。会社の営業所が駅前にあったからだろう。だったら何故わざわざここに顔を出していたのだろうかと春香は不信に思った。
その頃旅館には寺脇がまだ残っていた。一週間の予定が後任の都合でさらに一週間延期されたという。
そうしたことも影響したのか、春香はそれまでに積み重ねてきた疲れもあったのだろう。かつての症状が再発し始めて酷くなり、とうとう寝込んでしまったのである。
小畑や友永、柴田を中心とする部のメンバーや同じ管理部門の先輩達、そして片岡までも心配してくれた。同じ寮生である小畑や片岡は寝込んでいる春香の部屋にまでやってきて、体調はどうかと何度も様子を見に来てくれた。
食事はなんとか這うようにして旅館の食堂まで行き、社員用の食事を食べさせてもらった。それでも食べ終わるとすぐに部屋へと戻り、布団を被って眠る日々が続いたのである。
旅館ではまだ避難している人達や災害対応の騒ぎが収まらず、忙しい最中だった。その為申し訳ない気持ちで一杯だったが、どうしても心と体がついていかない。
寺脇も延長した勤務をようやく終えて戻ったけれど、旅館へは入れ替わり立ち替わり保険会社の人間達がやってくる。
その中にまた知っている人がいるかもしれないと思うだけで春香は怖くなった。そこで布団に潜り込んだまま目を閉じて眠り続け、現実逃避し続けたのである。
時折旅館前からバスに乗り、駅前の心療内科へ通って処方される薬を貰った。そのおかげである程度の悪化は抑えられた。だが今までと同じように忙しく動き回って働けるほど改善する見込みは立たなかった。
心配をした母までもが寮にやって来て、一度実家に戻ろうと打診された。しかし今ここで旅館を離れたらあの時と同様、二度と戻ってこられなくなるのではないかと不安になり、なかなか決心がつかなかった。
幸い旅館からは休職扱いとし、病状が安定するまで寮にいることを了承された。その言葉に甘えて春香は居続けることを決めたのだった。
しかし以前の福利厚生の手厚い職場とは違い、有給休暇を使い切った後の休職期間中の給料は最初の半年が三割程度の支給、その後は無給となると説明された。さらに長期療養期間が一年続けば、その後は退職しなければならないとも告げられたのだ。
それでもこの旅館に再就職した時点で病が再発した場合の覚悟はできていた。休職となればどうなるかという規定も、入社前からしっかりと頭に入れていたので特に驚きもなかった。ただ恐れていたことが現実となっただけだ。
春香は休職している間に自殺することを除き、色々な事を考えた。自分は今何をすればいいのか。どうすればこの状態から脱することができるのだろう。このままだといけないことは判っている。時が過ぎて病状が安定するまで休み続けていることが本当に正しいことなのだろうかと、何度も自問自答した。
だが考える度に頭痛や動悸、倦怠感が体を襲ってくる。その度に苦しみから逃れるため眠り続けた。目を覚ますと食事やお風呂、最低限の身の回りの家事をこなし、再びまた悩み考える。
しかし苦しみから逃れる度にまた眠ってしまう。そのような行動を何度も繰り返す悪循環から、なかなか抜け出せないでいた。
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