第24話 災い-1
一週間続いた夏のイベントが無事終わり、九月に入ると繁忙期を過ぎた旅館はほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。季節も秋に近づき、朝晩がぐっと涼しくなってきた。
しかし旅館では次のイベントに向けた準備がある。近年定着し始めたハローウィンだ。今やバレンタインの市場規模を抜く程の一大イベントとして根付いた。サービス業としてはその流れを取り入れない訳にはいかない。
しかもこの辺りは山深く気温の下がり始めが早いため、十月を過ぎると早くも紅葉の季節が始まる。その為観光客はどっと増え、また忙しくなるのだ。
大庭園に植えられた木々の葉が赤や黄色に染まり始める頃、ハローウィンの為に飾られるカボチャ等と同じ暖色系の彩りとコントラストをなす。
それらがが独特な温もりを生み出し、寒さを和らげてくれる。その素晴らしい景色を見たいと、夏に負けない程の観光客達が再び押し寄せてくるのだ。
その前の九月下旬の連休、シルバーウィークも客は多い。よって今は次の繁忙期に向けての準備期間に過ぎない。しかしそんな時に毎年騒がれるのが台風である。
予想のため定かではないが、どうやら今回はシルバーウィークの半ば辺りに最接近しそうだという。やがてその台風が、春香達の想像を超える被害をもたらすとは誰も思っていなかった。
予報通り台風がゆっくりと九州南部から上陸し始め、日曜日の夜には近辺を通過するとの情報が流れていた。九州から四国、近畿と各地で河川が氾濫するなどの被害が出ているらしい。
その為旅館周辺に点々とある集落の一部では、避難指示が出されていた。特に今年の夏は例年に比べて雨が多かったため、地盤が緩んでいると事前に警告されていたからでもある。いつ土砂災害が起きても不思議ではないという。
台風の影響で観光客は少なかった。だが一時避難場所にも指定されているこの旅館に駆け込んできた周辺住民達がいた為、夕方以降は慌ただしい時間を過ごしていた。
春香も夜十時に仕事を終え、翌朝からの勤務に備えて眠っていた時である。突然遠くでドドドッという音が聞こえたと思った瞬間、寮全体がドンと大きく揺れたのだ。
さすがに目が覚めて飛び起きた。すでに台風が通過し雨は止んでおり、カーテン越しにはうっすらと日の光が差している。そんな中でベッドがぎしぎしと激しく音を立ててきしんだ。棚に置いていたバチがガチャガチャと床に落ちる。テレビが台の上で踊るように飛び跳ねた。
地震か? 上の小畑や下の片岡の部屋からも騒ぎ声がする。外に出ようと体を起こしたがすぐに揺れは収まった。その為しばらく様子を伺おうと、頭から布団をかぶりじっとする。
だが大きな揺れはあの一回だけだったようで、寮全体に静けさが戻った。そこで立ち上がりカーテンを開けると外はもう明るい。時計の針は朝六時過ぎを指していた。
窓を開けて外の様子を見る。旅館の方角を眺めたが、特に大きな被害は無さそうだ。それでもお客様が怪我をしたり、騒ぎになったりしてはいないかと心配になる。そこで落ち着かないこともあり、十時からの勤務だったが早めに旅館へ行くことにした。
その前にニュースを見ようとテレビをつけた。台風は本州を通過したが勢力を弱めながらも北海道へ近づいていると気象予報士が伝えている。
しかし地震の情報はない。だったらあの揺れはなんだったのだろうと首を捻ったが、しばらく経ってから原因が判明した。それは周辺地域に流れる防災無線の放送によってである。
がさがさとマイクに雑音が入った後、そこから思いがけない言葉が流れたのだ。
― ただ今、北森地区で大規模な土砂災害が発生しました。繰り返します。ただ今、―
「土砂崩れ?」
頭に浮かんだのは九州北部で起こった水害や、広島で起こった大規模な土砂災害だ。近年の異常気象によりゲリラ豪雨や集中豪雨が頻発している。それに伴い、かつてないほど大量の雨が急激に降ったことで地盤が緩み、各地で河川の氾濫や土砂崩れが多発していた。
今回の台風でも既に九州や四国で数か所起こっていたが、この近くでもあったというのか。しかも北森地区は旅館から決して遠い場所では無い。そこで先程の揺れは土砂崩れによる振動だったのだろうと推測した。
急いで着替えながらニュースを横目で見ていたが、やはり地震に関する速報は流れない。しかしこの地域で起こった土砂崩れの情報すら入っていない様子だ。
チャンネルを変えても、既に被害があった地域の状況ばかりを扱っている。防災無線でも土砂崩れが合ったことと、その周辺に住む集落の人達への避難を促す言葉を繰り返しているだけだ。
被害の状況は判らないがじっとしていられなくなり、簡単に化粧を終えた春香は旅館に向かって走った。その途中で同じく寮から飛び出した小畑が後ろについてきた。走る速度を弱めると彼女が追いつき声をかけてきた。
「防災無線の放送聞いた?」
「聞きました。揺れたのは土砂崩れの影響ですかね。小畑さんは大丈夫でした?」
「大丈夫。少し部屋の物が倒れた程度よ。でも旅館の方はどうだろう? お客様は大丈夫かな?」
「そうですよね。驚いたり慌てて逃げようとしたりして、怪我をする人もいるじゃないですか。旅館の建物自体は寮よりしっかりしていますから揺れはもっと小さかったでしょうし、被害も無いとは思いますけど」
「そうだといいけど。でも心配だからあなたも勤務時間前なのに出てきたのよね」
「小畑さんもそうですよね。ここから近い地域で土砂災害があったのなら被害状況も気になります。雨が止んだ今になって起きたのなら、周辺の地盤も相当緩んでいるでしょう。だったらいつどこでまた起きるか判りませんから」
早足で移動しながら話していた二人は旅館に着いた。従業員専用口から入った春香達が見たのは、事務所のテレビに釘付けとなっている従業員達と、電話中の従業員数名の姿だった。
「お早うございます!」
挨拶して入ったが、そこにいた人達の多くは振り向くことなく、皆テレビを取り囲んでいるか受話器を掴んでなにやら連絡を取ったりしていた。
春香達もテレビ前の集団に交じり覗きこむと、土砂災害に関するニュースが流れていた。
「先程午前六時前後にY県東部の北森地区で大規模な土砂崩れが起こった模様です。被害の状況はまだ詳しく判っていませんが、複数の家屋が倒壊している模様です。怪我人等の情報はまだ入っておりません」
この近辺の土砂災害の情報がようやくニュースで流れ始めたらしい。
「旅館の中の被害は? お客様でお怪我された人は?」
ニュースに見入っていた春香をよそに、小畑が管理部門の別のチーフである
「今のところ被害はない。手分けして館内を見回っている従業員からも連絡は随時入ってきている。建物もお客様にも今のところ特に問題は起こっていないようだ」
そう言って電話し終わった他の従業員に目で確認をとると、頷きながら
「庭を流れている川の水位がかなり上昇しているようですが、危険水域にまでは達していないようです」
と、答えていた。確かにこの旅館の広大な庭の中にも川が流れている。台風の影響からか昨日から水位が上がりつつあり、宿泊客には近づかないようにとの指示が昨日から出されていたはずだ。
ただ本来流れる川から水を引いているため、緊急事態となれば流れを変えて止められる仕組みになっていた。さらに旅館の敷地の奥深くには万が一の為に雨水を貯められる空間がある。
そこは普段和太鼓部が練習で使っている場所だ。かなり広く他の施設とは完全に遮断できることから、非常時以外はそうした使い方には適していた。
今はまだ稼働させる程ではないらしい。それでも北森地区では土砂崩れが起こったのだ。今後地盤の緩いところが何かしらのきっかけで更に崩れ出すことはあり得る。
通話状況は問題ないため、見回りに出ている人達から逐次携帯などを使って報告させているらしい。引き続き小畑が質問した。
「食堂などでの被害は? 土砂崩れの影響なのか少し揺れましたよね。この時間なら朝食の準備で火を使っていたはずですし、食器も並べていたりしているはずですが」
「いや、音は聞こえたけど体感としてはほとんど揺れて無い。この旅館は地盤の固い所に建っているからね。寮の建物はやや古いから揺れたかもしれないな。そちらも被害はないと寮の管理人から連絡を貰ったが問題なかったか?」
「はい。私達は大丈夫です」
春香達のいるところは総務であり管理部門である為、そういった情報が全て集まってくる。従業員達はここでフロントや客室係などからの情報を集約しようと待機しているのだ。
今のところ旅館周辺の水道や電気やガスなどのライフラインに支障が無いと判っている。それだけでも大きな安心材料だった。
「小畑達は十時からの勤務だったな。心配でこっちに駆け付けてくれたのか」
「はい。被害は有りませんが大きな揺れを感じましたし、土砂災害の状況も気になりましたので。それにこちらの方が多くの情報が聞けると思いまして」
春香も同じく頷いた。
「ありがとう。しばらくしたら勤務交代になるが、被害状況によっては相当忙しくなるかもしれん。頼むぞ」
そう言われたが、意味が今ひとつピンとこなかったため尋ねた。
「忙しくなるって、どういうことですか?」
すると片山が説明してくれた。
「この旅館は今の所無事だから、周辺地域の損害が大きければ救助や復旧の為に各地から人が押し寄せる。住居が崩壊して避難してくる住民もそうだが、規模によっては自衛隊や警察や救急隊のボランティア、それに水道、ガス、電気などを復旧させる人達が、うちのような旅館やホテルに集結するんだ」
そこで研修時代に受けた、災害時のマニュアルなどで学んだことをようやく思い出す。よく考えれば判ることだがそこまで頭が回らなかった。
「しかもここは周辺にある旅館の中で一番大きく、収容人数も十分あるし庭園が広いから広域災害の避難場所にも指定されている。実際昨日から避難してきた住民が何十人かいるだろう。今後はもっと多くなる可能性が高い」
「そうですね。しかも北森地区はここから近いですし。あとは被害のあった地域に工場や企業等があれば、そこの関係者達が来ます。他に保険会社も。火災保険に加入している人達の対応の為、被害状況を鑑定する人が近隣各地から駆けつけるでしょう。車が流されたりすれば、自動車保険の車両保険が適用されますし」
「さすが元保険会社にいただけあるな。天堂の言う通りだ。後は自治体から災害対策をする人達やボランティアスタッフ、災害による被災地の住民に対してのメンタルケアのカウンセラー達もくるだろう。自然災害発生時におけるマニュアルにも書かれているが、今回のような場合は被害地に近い安全な宿泊施設から人が埋まっていく。ここはそういう方達を迎える場所に指定されているからね。だから一気に忙しくなるだろう。それだけじゃない。家が倒壊したりして被害にあった住民を一時的に宿泊させたりする必要もある。まあ被害状況がはっきりするまでは判らんが、そういった問い合わせなどが入ってくる可能性があるって訳だ」
そこで電話で各地に被害確認をしていたフロント係のチーフが発言した。
「この周辺地域の電話が繋がりにくくなってきた。外部からの問い合わせが集中してきたからだろう。しばらくは役所やテレビなどからの情報を得ながら、館内やお客様の安全を確保するのが先決だ。同時に万が一の時に備えての準備をしよう」
「万が一?」
片山チーフが苦笑いをする。
「こういう場合の対応マニュアルがあるだろ。天堂は研修で習わなかったか? 読んでないなら今の内に目を通しておけ。小畑は大丈夫だな?」
彼女を見ると頷いていた。春香も管理部門研修で少し習ったが、短い期間だったこともあり詳しくは学んでいない。後で読んでおくようにと言われていたが、熟読していなかった。忙しさにかまけて後回しにしていたことを思い出す。
「すみません。しっかり読んだことはありません」
俯いて正直に答えると、早速指示された。
「今のうちに急いで目を通しておけ。俺が説明した程度のことは全部書いてある。それ以上のことも、だ」
そこで小畑から対応マニュアルを渡され、席に座って読み込むことにまず集中した。よく判っていない人間が動いても邪魔になるだけだ。
その間に小畑や他の従業員は館内からの報告を受けたり、旅館に通っている従業員の安否確認をしたりしていた。安否確認はあらかじめ登録しているメール等で行われる。
しばらくして従業員全員が無事だと判ったようだ。しかも無事が被害はほとんどないという。多くが市街地に住んでいたためだろう。
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