第23話 イベント

 いよいよ待ちに待った夏のイベントが始まった。緑あふれる大庭園に設置された、屋根付きの特設舞台に五尺大太鼓が中央と左右で三張り、三尺大太鼓が六張り並んでいる。さらに長胴太鼓が十六張りと桶胴太鼓が四張り、絞太鼓が六張りで計三十五張りの和太鼓が置かれていた。

 最多で約三十名が一つ一つの太鼓を担当して演奏する“大霊峰富士”は迫力満点だ。もちろん一時間のショーを、部員三十五人全員で叩き続けることはできない。

 舞台では入れ替わり立ち替わりで二十名近くの演奏者が一曲を叩く。時には複数の太鼓を担当するものもいれば、一部しか参加しないメンバーもいる。春香はほんの一部しか担当しないメンバーの一人だ。

 演奏されるのは全部で十二曲。そのうち一時間で七曲演奏し、一週間続くイベントでは必ず演奏する“大霊峰富士”を中心としたメインの三曲以外は、日替わりで演奏することになっていた。

 春香がその十二曲の中で叩くことができるのは、大霊峰富士の長胴太鼓のパートとメインでない二曲だけだ。よって出番はイベントの二日目に二曲、四日目に二曲、七日目に三曲というスケジュールになった。

 もちろん宿泊客が大勢集まる繁忙期であり、通常業務もフル回転している。その為他の部員もずっと舞台に立ち続ける訳にはいかない。それでもイベントに参加する日はやはり少しでも長く立っていたい、少しでも長く太鼓を叩いていたいと考えるのは当然の思いであった。

 しかし日に二曲から三曲叩く事は、他の四曲から五曲が演奏されている間、舞台袖に控えて裏方の仕事をしなければならないことを意味する。

 前回は舞台外で見学しただけで、後はビデオ映像を見た程度の知識しかない。よって裏方の仕事に関しては、先輩達からの口頭による指示だけが頼りだった。

 イベントに関わること自体、今回が初めてだ。曲目に関しては何度も何度も繰り返し、これまで撮影された映像は全て観ている。その度に早くこの舞台に立ちたいと待ち望んだ。

 しかし初日は残念ながら、春香は旅館従業員として遠く離れた所から眺めることになった。悔しい気持ちもあったけれど仕方がない。

 それでも生で聞く演奏は凄かった。総勢二十数名の叩く大霊峰富士が響かせる、空気を引き裂かんばかりの和太鼓の大音量。すさまじい速さで刻まれるリズムに今年も鳥肌が立った。

 もちろんイベント前は全体練習に参加したが、勤務の都合もあり三十五名が一堂に集まって練習する機会など一度もない。最大二十名ほどで音合わせをすることが多く、大人数で叩くのはある意味ぶっつけ本番と言っていい。

 その中で力強い音を出そうとバチを振り下ろし、一打一打を一糸乱れぬリズムで演奏する姿からはただならぬ気迫が観客にも伝わるのだろう。

 また観客による熱気に包まれ、さらに気合が入って叩き続ける演者達の姿は決して練習だと見られない。その一瞬一瞬が二度と感じられない尊い空間を作り出す。その威風堂々たるスケールには圧倒されるばかりだった。

 明日はこの舞台に立って演奏をするのだと考えるだけで緊張し、その夜は本当の武者ぶるいというものを春香は生まれて初めて経験した。

 とうとうイベント二日目の本番を迎えた。演奏開始時間まであと五分だ。他のメンバーと一緒に、設置された和太鼓の皮の張りなどのチエックを行う。

 既に特設舞台の前には、大勢の宿泊客が取り囲んでいる。薄暗いライトの中、緊張した面持ちで歩き回っている春香の背中を、パンッ! と叩く人がいた。

 振り向くと小畑の姿があった。彼女も今回のイベントで今日が最初の出番だ。そのためかいつもの彼女より、若干緊張した表情をしている。

「どう? 初めてのイベントで固くなっているんじゃない?」

 彼女は引き吊った笑顔で話しかけてきた。その姿を見て思わず笑った。

「小畑さんこそいつもより緊張してますよ。顔が怖いです」

「生意気言うんじゃないわよ!」

 彼女はそう言いながらも自分の顔を手で揉んでいる。このイベントに参加してから八年目になるというが、それでもまだ慣れないものらしい。ベテランの彼女でもそうなのだと思うと逆に気が楽になった。

「ありがとうございます。小畑さんの固まった顔を見て、緊張がほぐれました。今日は楽しんで叩かせてもらいます!」

 一瞬眉をひそめた彼女も今度はいつもの柔らかい表情に戻った。

「そうよ! 私達が楽しまないとお客様も楽しめないからね!」

 もう一度春香の背中を、パンッ! と叩き、自分の位置へと戻った。今日のマイクパフォーマーは彼女だ。しかも今日は七曲の内二曲しか叩かない春香と違って、彼女は一時間ずっと舞台に立ち続けなければならない。

 さらに一曲休憩を挟むだけで残りの六曲を演奏し、かつ最初の挨拶からその曲の合間のトーク、最後の締めの挨拶までこなすのである。

 彼女の責任は春香よりずっと重い。そう考えれば戸惑っている場合ではないと言い聞かせ、楽しむのだ、夢の舞台で演奏するのだと胸の中で呟いた。

 小畑の挨拶が始まる。いよいよだ。一曲目のパート、長胴太鼓の後ろに陣取り足を肩幅程度に広げ、手を後ろに組んで顔を上げる。

 数百という観客の視線が目の前に広がっていたが、暗闇で人の顔までははっきり見えない。舞台を照らすライトもまだ薄暗い。

 挨拶と曲目の説明が終わり、会場から拍手が沸いた。

「ハッ!」

 小畑の大きな気合が聞こえ、と同時に照明が一斉に点く。一気に舞台がライトアップされ、眩しいくらいの光が春香達を映し出す。

 演奏が始まった。最初の曲だ。春香も足を広げて大きく踏ん張り、腕をしならせバチを振り下ろし、軽快なリズムを叩いていく。ロビーでも演奏したことのある曲だが、いつも叩いている時と全く違う大音量が周りから響いてくる。

 さらに屋外である為、室内で叩いている時の様な反響音はない。その代わりに旅館の建物等に跳ね返って聞こえる、ずれたリズムが耳に入ってくる。本番前に舞台上で演奏した時とは異なる空気が漂っていた。

 春香は戸惑った。拍子は狂っておらず、太鼓を叩いた時にバチを通じて伝わる跳ね返りからも、しっかり音は出せていると思う。それでも耳から聞こえる音がいつもと違うからかしっくりとこない。

「ハッ!」

 大勢の演者の掛け声がする。そこで目を覚ました。

― 戸惑うな、悩むな、考えるな! 

― とにかく叩け、耳で聞くな、体で感じろ! 

― 楽しめ、そして叩くんだ、一生懸命、がむしゃらに叩け!

 今まで何度も練習で言い聞かされた先輩達の言葉の数々が、頭の中でよみがえる。

「ハッ!」

「ハッ!」

 舞台上に立つ十八人が奏でる和太鼓の音が、大庭園を覆う夜空に響き渡る。大音量のリズムが続く。汗で濡れた腕を振り上げてはバチを叩きつけた。

 演者達の熱気が高まり舞台上の温度が上昇する。真夏の夜に必死の形相で和太鼓を叩き続ける集団が、一つの大きな芸術を生み出していた。

「ハッ!」

 所々で発せられる気合いが会場の空気を引き締める。がむしゃらに、ただひたすら叩き続けた。

 一曲目がようやく終わった。会場から割れんばかりの拍手が起こる。それでも春香の耳にはぼんやりとしか聞こえない。太鼓の音がまだ頭の中で鳴り響き、暑さで意識が朦朧としていたのだ。

 二曲目の準備の為に人が入れ替わるため、舞台袖へと下がった。これで最後の曲まで今日の出番はない。まだ春香には実感がなかった。

 憧れの舞台に立ち一曲演奏し終えた満足感よりも、ただ終わったという脱力感が強く残っている。パンパンに張った腕を揉みほぐしながら、袖からじっと二曲目の演奏を聴いていた。

 観客席にも目を向けてみる。すると少しずつ興奮が蘇ってきた。もう次の曲を叩きたくてうずうずしだす。

 汗でびっしょりになった体はまだ火照っていた。踏ん張っていた足や腰、腕は張りがあって確かに疲労も溜まっている。それでも気持ちだけはまだまだいけると掻きたてた。

 二曲目が終わり、三曲目、四曲目と進む度に太鼓を移動させなければならない。その為控え組は舞台に上がっては引っ込んだ。気づくと春香も参加する最後の曲の番になっていた。

 ここでは舞台に集まった和太鼓部のメンバー、今日は二十五名が全員上がり、メイン曲の“大霊峰富士”を演奏する。

 汗で顔がテカテカになっている小畑が、マイクで曲説明をしている。加えて和太鼓部の従業員全員がこの日の為に、仕事の合間を縫ってそれぞれが特訓してきたことを伝えた。

 彼女がマイクを置き、三尺大太鼓の前に立って足を大きく広げバチを構えた。

「ハッ!」

 気合いの声を合図に、二十五名が太鼓に向かってバチを振り下ろす。

 旅館の窓ガラスが、太鼓の振動で割れんばかりに震えだした。響き渡る重音が痛いほど腹の底に染みる。

 ここで花火がドッと打ち上げられ、色鮮やかな光が暗い夜空を明るく照らした。遅れて聞こえる花火の爆発音と和太鼓の音が重なり合う。

 次々と打ち上げられる花火と、ますます激しく力強く、踊るように繰り出されるバチを持った五十本の腕が波のようにうねる姿を見て、観客は大きな歓声を上げた。

 大庭園にいる何百人の人々が興奮のるつぼに陥る。春香も夢中になって叩く。がむしゃらになって腕をしならせバチを振り抜く。

「ハッ!」

 二十五名の気合いと同時にドンッと花火が打ち上げられ、赤い大輪が演者達と観客を包んだ。一瞬の静寂。一拍置いて大歓声と拍手が鳴り響いた。終わった。

 春香は汗と涙で濡れた頬をぬぐいながら、感動にうち震える。生きていてよかった。興奮冷めやらぬ舞台の上でそう強く思ったのだった。

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