第20話 新たな問題-3

 朝十時までの勤務が終了したため、加納の事が気になったまま寮の部屋に戻った。八時過ぎに食堂へ朝食を摂りに来た加納一家の姿を遠くから少し見ていたが、特に変わった様子はないようで安心した。

 だがその後どうだろうか、また今夜も加納は眠れなくなるかもしれないと心配になる。遠山の一件もあった為、少し過敏になっていたのかもしれない。

 そこで夕方の五時まで睡眠を取った後、和太鼓の自主錬をする予定を変更し、加納の様子を見に行くことにした。それには理由があった。

 これから夕食の時間が始まり、その後和太鼓のショーが行われる。昨日の夜けれど、もし加納達が観ていないのなら是非あの感動を味わって欲しいと思ったからだ。その為彼らに勧めてみようと思いついたのである。

 自分も体調を崩した際、療養の為に来たこの旅館で和太鼓と出会い、それが心に響いた。だから加納にも何か伝わるのではないかとの期待を持ったのだ。

 そう思いついたら居てもたってもいられなくなり、非番ではあったが春香の足は旅館へと向かっていたのである。

 まずは管理部門には寄らず、直接料理飲食部門のバックヤードへと向かった。そこでは六時から始まる夕食を既に食べ始めているお客様がいたため、従業員達も忙しく立ち回っていた。

 邪魔にならないよう隅を歩きながら、この時間いるはずの片岡を探した。時折食堂も見渡したが、まだ加納達の姿は見えない。

 しばらくしてようやく片岡を発見し、すかさず近づく。そして加納の引き継ぎ事項を聞いているかを尋ねた。彼女は私服姿の春香を見て、非番であることに気付いたようだ。

「大丈夫よ。連絡事項は全員に伝わっているから。まだお見えになられていないけど、加納様達には友永さんが付くよう指示されていたし。でも非番なのに様子を見に来るなんて余程心配なのね」

 忙しい彼女はそう言ってすぐに自分の仕事へと戻った。注意事項が伝わっており、友永さんのようなベテランが担当を任されているなら安心だ。

 そう言えば今夜のショーには小畑がでるはずだ。せっかくだから加納を誘うだけでなく勉強の為に自分も観戦しようと決めた。

 そこで今度は友永の姿を探した。すると食堂に現れた加納達の元に駆け寄っていく彼が見えた。時計を見ると七時になっていた。

 友永はスムーズに席へと案内し、本日のメニューの説明をしている。事前にアレルギーや嫌いな食材等は聞いているだろうが、再度その確認を行なっているのかもしれない。

 何度か加納と奥様が頷き、確認を終えた友永が彼らのテーブルから離れ厨房へオーダーを出した。その動きを横目で見ながら、彼の余裕がありそうなタイミングを見つけて声をかけるつもりでいた。今は一番忙しい時間帯だ。決して邪魔してはいけない。

 しかしそんな友永が春香を見つけると、素早く寄ってきた。私服姿を上から下まで舐めるように見た後、早口で言った。

「引き継ぎはされているから安心しろ。非番なのに様子を見に来る程心配なのか。それとも引き継がれたか俺達が信用できないから来たのか、どっちだ」

「い、いえ、もちろん信用しています。ただ友永さんにお願いしたいことがあって来ました」

「何だ? 忙しいから簡潔に言え」

「是非和太鼓のショーを観て貰うよう、誘っていただきたいのです」

 それを聞いた彼は眉間に皺を寄せた。

「言われなくても飲食部門の人間なら、食事を終えたお客様で八時からのショーに間に合いそうな方々には全員声掛けをしているさ。しかも俺を誰だと思っている。和太鼓部の人間が誘わないはずがないだろ」

「もちろん判っています。ただ加納さんは連泊されているので、昨晩は観られたかどうか判らなかったものですから。すみません。出過ぎた事をしました」

 素直に謝り頭を下げていると、じっと見つめていた友永は質問した。

「天堂が以前いた職場の人だと聞いたが、親しかったのか?」

「いいえ、同じ職場でしたけど私が配属された頃には既に体を壊されていたので、会話もほとんど交わしたことはありません。昨夜お会いした際も、あちらは私の事を覚えていないようでした」

「だけどそれだけ気にするのは、自分と同じような病にかかった人だからか」

「それもあります。やはり他人事には思えなくて。ですから私がここの和太鼓に勇気づけられたように、加納さんにもあの心震わす音が届けばいいと思ったのです」

 話を聞いて少し考えていた友永だが、いつまでも手を休めてはいられない。

「判った。聞いて貰えるよう出来るだけ勧めてみる。だが無理強いはできない。お客様の都合次第だからな」

 そう言い残し、厨房へと戻って行った。

 一応の目的を果たしたため、同僚達が忙しく働いている場から離れる。まだショーが始まるまで時間があったので、管理部門の事務所へ寄ることにした。

 事務所に入るとショーの準備をして待機していた小畑が、春香を見つけて声をかけてきた。

「あれ? 今日は非番じゃないの?」

 すると別の先輩が、引き継ぎ事項を見たからか加納の事を触れた。

「もしかして昨夜ロビーで寝ていたお客様の件が気になったのか」

「そうなの? 私も注意事項に目を通していたから、昼前に庭を散策していたのを見かけて何気なく様子を伺ったけど、それほど気を付けなければならないように見えなかったわよ」

 小畑がそう言うので、先程友永に伝えたことを説明した。すると彼女も納得したようで、

「今日のショーを観に来て下さって、あなたと同じように少しでも元気を取り戻すきっかけになるといいわね」

と言ってくれた。春香は頷き彼女に告げた。

「せっかくですから、私も勉強の為に見学させていただきます」

「あら、それは緊張するわね。まあしっかり見ておきなさい。そろそろ私は行くからね」

「いってらっしゃいませ」

 お互いおどけた調子で会話を交わし、彼女の背を見送った。少しだけ同僚達と会話をした後、八時十分前になったのでその場を離れ、ロビーへと向かう。

 時間が近づくにつれて事前に準備されていたパイプ椅子のほとんどは埋まり、周囲にもどんどん人が集まって来た。

 加納達の夕食は七時からだ。ゆっくりしているならまだ食事を終えていないかもしれない。そういうお客様は他にも沢山いる。席には座れなくても部屋に帰る途中で立ち見していく方も少なくない。それでもいいと思っていた。

 加納の療養が目的であろうこの旅行に、一瞬の安らぎや喜びを感じてもらえればそれだけで十分だ。

 会場から距離を置いた場所から、集まったお客様の顔を見た。最前列に座って今か今かと楽しみにしているお客様。どんなものか見てやろうと、最後尾の席に座って踏ん反り返っているお客様。どんなショーが始まるのか、興味本位に始まるのを待っているお客様など様々である。

 だがその中にはいつまで経っても加納達の姿が見当たらなかった。まだ食事中だろうかと思い食堂へ移動してみると、まだお客様がたくさんいた。夕食は基本的に六時から八時までの間に席へ着くようお願いしている。よって遅い時間から食べる人達も少なからずいるためだ。

 つまり夕食が遅めなら、ショーが始まる頃から食べ出すことになる。だが大半のお客は六時から七時の間から食べ始めるため、食後の時間はショーを見るお客様がかなりの数いるのだ。それだけこの旅館では和太鼓が好評だった。

 確かあの辺りだったと加納達が座っていた席を見たが誰もいない。その周辺にも彼らの姿を見つけられなかった。食事は既に済ませたようだ。そのまま部屋に戻ったのかもしれない。

 そう思った時に、背後からマイクで話す小畑の声とお客様の歓声が聞こえてきた。いよいよショーが始まるようだ。同時にテーブルの間を移動する友永の姿を見つけた。

 思わず邪魔にならないバックヤード近くまで駆け寄った。春香を見つけた彼は、回収した食器等を洗い場に置いた後、こちらに近づいてきた。その顔が曇っていたため、なんとなく状況を把握した。

「すまん。加納様達は部屋へ戻ったよ。誘ってはみたが、どうも人混みと大きな音は苦手だそうで断られてしまった。昨日も同じように従業員から誘われてどんなものか観ようとしたけど、人が大勢いたからと諦めたらしい」

 申し訳なさそうな表情をしている彼に恐縮した。

「いえ、無理なことを言ってすみません。友永さんが言われたように、観るか観ないかはお客様次第ですから。それに体調がすぐれない時、人混みを避けたくなる気持ちはすごく理解できますから」

「そうだな。でも天堂が心に響いたと思ったように加納様にもそう感じてもらえるよう、一度断られたが昨日対応した天堂のような人間もいると伝えてみたんだけど」

「私の事を話したのですか?」

「元部下だったことは言っていない。ただ昨夜対応した女性は、以前仕事が大変で体調を崩した際に療養でここを訪れ、ショーを観て立ち直るきっかけを掴んだという話と、是非観て頂きたいとの伝言を預かった事だけを伝えた」

「それで何とおしゃってました?」

「そこまで勧めてくれる気持ちは有難いけど、やはり辞めておくと言うからそれ以上勧めることはできなかった。すまん」

「いえ、謝るのは私の方です。私がそうだったからと言って、他の人にも効果があると考えたのが間違いでした。症状も対処法も人それぞれですから。かえって友永さんに気を使わせてしまい、申し訳ございません」

 彼はまだ仕事中だった為そこで話を終わらせ、ロビーに足を向けた。加納が観ていないのは残念だがしょうがない。だが非番の時間帯に折角ここまで来たのだから、ショーを見て勉強しようと気持ちを入れ替えた。

 すでに一曲目の終盤に差し掛かっている。椅子は全て埋まっており、周りの床に座って見ているお客様、そのさらに外側を取り囲んで立ち見しているお客様で大混雑していた。

 体調が万全じゃない時であれば、この人混みに近づく事は心体ともに負担がかかると思うのは当然だ。

 春香の時には早めに食事を終え、人が大勢集まり出すより先に一番前の席へ座った。後は和太鼓に魅了されていたから、人混みが気にならなかっただけだ。

 そう反省しながら立ち見をするお客様の輪のさらに後ろでショーの様子を見ることにした。

 一曲目が終わり、小畑のマイクでの説明が始まる。そして二曲目の為の和太鼓の移動や、人の入れ替わりの準備がその間に行われていた。二曲目が始まる。自然と足でリズムを取っていた。

 さすがに自分の太ももや手足を叩くのは止めようとぐっと腕を組んで我慢したが、自然と体が動きだす。そして多くのお客様と同様、和太鼓の腹に響き渡る音の迫力に魅了され、その世界に没頭していた。

 二曲目が終わり、三曲目は定番であるお客様を巻きこんでのパフォーマンスだ。最後列までは来なかったが、前列や立ち見しているお客の輪の真ん中当たりまで、太鼓を抱えた先輩達が叩いてみませんか、と促していた。

 そこで邪魔に迷惑にならないよう、輪の外から離れた場所に春香が移動した時、視界の先にあるフロント前のソファに目が止まった。そこに加納達がくつろいでいたのだ。

 あの場所からだと直接ショーは見えない。その為大勢のお客に囲まれることはないが、音は余り聞こえないだろう。太鼓のリズムがうっすら届く程度だ。

 春香は加納達に向かって歩いた。家族三人で何やら談笑していた。加納の顔色も悪くなさそうだ。一緒にいる奥様も息子さんも楽しそうに見える。そこで思い切って声をかけてみた。

「お体の具合はいかがですか」

 突然の問いかけに驚いたようだが、奥様はしばらくして気付いてくれた。

「今朝方はお世話になりました。制服を着ていらっしゃらないので判りませんでした」

 加納にもこの方は、と説明していた。ただ彼はあまり覚えていなかったようで、お世話かけましたと曖昧に頭を下げている。

「ここだと太鼓の音は余り聞こえませんが、人混みから離れているので落ちついつてはいられる場所ですよね」

 そう話しかけると、再び奥様は理解したようだ。

「あなたのことだったのね。夕食を終えた時、ショーを是非観て下さいと勧められて断ったのだけれど、少し話を伺ったわ。あなたの体の方はもういいの?」

「はい。おかげさまで、かなり回復してきました。申し訳ございません。私の場合は和太鼓の音が脳の刺激になりましたけど、皆さんに効果があるとは限りませんよね。押しつけるようなことを言ってすみません」

「いいのよ。それほど気にかけて下さったのだから、一度は部屋へ戻ったけれど、大浴場へ行く前に離れた所で聞いてみようかと言って出てきたの。でもやはり大勢の人だかりには近づけなくて、ここでゆっくりしていたのよ」

「そうですか。少しでも楽しんでいただけているのなら良かったです」

 そう言って笑うと、それまで話さなかった加納が急に喋り出した。

「そこまで私に気を使っていただくのは、どうしてですか? 今私服だということは、もしかして非番なのではないですか?」

 奥様はそこまで考えていなかったらしく、驚いた目で春香を見た。

「その通りです。ただ私も和太鼓を叩く新人部員の一人でして、先輩達のパフォーマンスを見ることも勉強ですからお気になさらないでください」

「そうだったんだね。熱心なことだ。でも休みはしっかり取らないと、また体を壊してしまうから注意した方がいい」

「お気使い頂き有難うございます」

 そう礼を言ったところ、彼は突然何か思い出したような表情に変わった。

「失礼ですが、お名前を伺ってもいいですか」

 一瞬戸惑ったが、思い切って名乗った。

「天堂春香といいます。実は小曽根第一支社で加納課長代理にはお世話になりました」

「やっぱり! 今更だけどどこかで見たことがあると思った。そうか。新人で入ってきたあの天堂さんか」

「え? この方、前の会社の人なの?」

 奥様が目を丸くして加納に聞いている。彼は頷いて説明してくれた。

「私が体調を崩しだした頃に配属されてきた新人の子だ。でもしばらくして私が長期休養に入ってしまったから、私の仕事を田中君と二人で引き継いでくれていたらしい。あの後、君も体調を崩して会社を辞めたことは聞いたよ。本当に迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない。私も長い間自宅療養していたが、最近色々あって結局退職したよ。だから慰安のつもりで妻が今回の旅行を計画してくれてね。妻の実家が隣の県で、この旅館の事も知っていたから家族で来ることなったんだよ」

「そうでしたか。長い間お疲れ様でした。こちらではごゆっくりして下さい」

「有難う。天堂さんは既に第二の人生を歩み始めているようだね。しかも元気そうで良かったよ」

「はい。私も色々ありましたが、この旅館で和太鼓に出会い、再就職してなんとかやっています」

「それは良かった。私は辞めたばかりだから、しばらくゆっくりするつもりだ。でも若い君が頑張っている姿を見て勇気を貰ったよ。私はもうそれなりの年齢だから君のようにいかないだろうが、それでもまだ残りの人生があるからね。なんとか無理せず、自分の道を探してみるよ」

「とんでもありません。加納さんだってまだお若いですよ。これまでがむしゃらに働かれてきたのですから、今はしばらく休む時期なのだと思います。無理せずゆっくりと、でしょう」

「有難う」

 礼を言われた時、ショーが終わったためかお客様が移動してロビーにも人が集まり始めていた。そこで彼らは席を立った。

「大浴場が混むといけないから、私達は失礼するよ。今日はありがとう」

 礼を言われ、春香も頭を下げた。そして加納達が歩く後ろ姿をしばらく見守りながら考えた。自分よりずっと長くあの会社で働き、心と体をすり減らした彼の症状は、おそらく春香よりもずっと深刻なものだったに違いない。

 しかも春香は独身で実家のある身だが、彼には奥様や小さい息子さんもいる。養わなければならない家族があるのだ。そんな彼が退職という選択をするまでにはとても勇気がいったに違いない。

 それを受け入れた奥様の心情を考えると、春香の想像を超える決意があったはずだ。他人には見え難い苦しみを抱えていることは間違いない。それでもなおあの三人は、幸せに暮らそうと前を向いていた。

 加納に勇気を貰ったと言われたが、春香だってそうだった。三人で支え合う姿をみて、まだまだ自分は恵まれていると思った。現状に感謝し、そして今目の前の事を一つ一つ踏みしめて前に進むこと、生きることが大切なのだと改めて胸に刻む。

 さあ帰ろう。今日は休みだが明日の仕事までにやらなければならないことはいくつもある。部屋で遅い夕食を済ませた後、和太鼓の自主錬をしてからお風呂に入り、少し眠って早朝からは部の練習に参加したい。それから次の勤務に備えよう。

 大変だが一歩一歩、目指している目標に向かって進むことを大切にしたいと強く思った。

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