第18話 新たな問題-1
辛い体験もしたが、旅館での仕事は嫌なことばかりではない。嬉しいことや面白いこと、不思議なことや驚くこともたくさんあった。その一つが旅館における従業員の恋愛関係だ。
まずは同期であり入社以来旅館のマスコット的存在であり、看板娘だとますます評判が高まっていた片岡の行動だった。なんとある時期を境に、同じ部門の先輩である友永へ積極的アプローチをし始めたというのだから驚きだ。
周囲の皆が持て
片岡が仕事のできない子であれば話も違っただろうが、彼女の接客態度や厨房にいる料理人達へのオーダーなどは完璧だった。そんな新人だったからこそ余計に厄介なのだ。
そんな時小畑の機嫌が目に見えて悪くなったのは、友永と片岡の休みが重なった日に、ある場所で二人きりでいたとの噂が立ってからである。
入社当時から和太鼓部に入った友永とその一期上の小畑とは、もう八年以上の付き合いで、一時期付き合いかけたこともあるらしい。だがその時はタイミングが合わずすれ違いが多くなり、男女としての深い関係にはならなかったそうだ。
それでも和太鼓部を盛り立てる先輩後輩として、とても親しい関係を築いていたと周囲の仲間や小畑自身も思っていたらしい。
しかし入社以来小畑同様、特に浮いた話も出なかった友永に突然湧き出た恋愛話だったから、彼女も驚いたのだろう。もちろんお互い三十三歳と三十二歳という、それなりの年齢になっていたことも関係していたのかもしれない。
そこに一石を投じ、波紋を呼んだのが片岡の存在だった。彼女の出現により仕事と和太鼓に夢中で取り組んできた友永がぐらついたのだ。三十を越えて親や周囲からまだ結婚しないのか、彼女はいないのかとうんざりするほど尋ねられる機会が多い時期だったことも影響したはずだ。
友永はその度に今は仕事が忙しい、なかなか出会うチャンスがないなどと受け流してきたらしい。それでも元々結婚願望がない訳では無かったし、女性に興味がない訳でもなかった。そんな時にとんでもない大物が、向こうから飛び込んでくるというチャンスを掴んだのである。
相手は誰もが認める可愛いい女性で人気もあり、人当たりも良く仕事もしっかりこなす娘だ。さらに異性だけでなく同性からの評価も高い。そんな子からアプローチされれば、男なら気持ちがぐらりと傾かない訳がなかった。
春香から見ても年下だが同期の片岡は、とても良い子だと思う。だから彼女が友永に好意を持っているのなら応援したいと最初は思っていた。
しかしそこに尊敬する小畑が絡んでくれば話は違ってくる。彼女は仕事上での大先輩で和太鼓部でも大変お世話になり、また同じ寮に住む先輩でもあるため、公私ともに良くしていただいていた。
片や同期で寮でもすぐ下の部屋に住む片岡とは気の合う間柄であることは否定しない。それでもプライベートで特に仲が良いかといえばそうでもなく、仕事上でも部署が違うため接する機会は小畑に比べれば圧倒的に少ない。
よって三角関係となれば全員を応援する訳にはいかず、片岡には悪いが小畑と友永を応援することに決めたのだ。
とはいえ現在進行形なのは友永と片岡の関係であり、小畑が何か行動を起こした訳ではなかった。しかし周りが言うように彼女は動揺しているようで、機嫌の悪い日が増えたことは春香も感じている。それでも小畑は無関心を装っていた。
といって仕事場や和太鼓部で友永と小畑が接した場面では、かつてのような空気でなく、噂通りどことなくぎこちなさを感じたのは確かだった。
周囲でこのような色恋の話が持ち上がったのは久しぶりだ。学生時代は当然のようにあちこちでそのような話題が飛び交っていたが、社会人になってからは初めてだと言うことに気付いた。
働き始めてからの春香には忙し過ぎて余裕がなかったからだろう。社内でも自分の知らない所で恋愛話がされていたかもしれないが、全く耳には入ってこなかった。それに自身がそもそも恋愛に関して積極的でない。
男性と付き合った経験は、中学時代に一人、高校時代に一人、大学生の時に一人。社会人になってからはゼロである。男性経験ともなると大学生時代の一人しかいない。それでも付き合った期間は一年半ほどだ。中学、高校時代ともなると一年も続かなかった。
交際は三人とも何となく自分も好意を持っている相手から告白されて始まり、終わりは全て相手側から切り出されている。
彼らが言ったことで共通するのは、
「真面目すぎてつまんない」
と言われたことだ。最初は何が悪いのか、真面目じゃないってどういうことかと反発したものだ。
しかし大学時代に付き合った彼からもそう言われた時、男性が女性に対して求めるものは何かと真剣に悩み、落ち込んである期間は男性不信に陥った。それが響いてその後、いまだに恋愛できないのかもしれない。
そんな経験の少ない人間が、小畑達の関係に口を挟めるはずがなかった。ただやはり恋愛って面倒なものだと思う臆病な自分がいる。
それでも気になり噂が立ってしばらくした後、偶然寮でばったり会った片岡に聞いたことがあった。
「片岡さんって友永さんと付き合っているの?」
彼女は少し目を丸くしていたが、すぐにいつもの可愛らしい笑顔になって言った。
「いろいろ周りは言っているけど、まだ付き合ってはいないよ」
まだ、という言葉に彼女が友永にアプローチし続けていることは本当だというニュアンスが含まれている。そこには時間の問題だという自信が感じられ、
「そ、そうなの」
と口にするのが精一杯だった。さらに彼女は微笑んで、
「応援してね」
そう言い残し、自分の部屋へと入って行った。小畑では無く私をと言外に含まれていると思った春香は、片岡の愛嬌のある表情の中にその時初めて黒い影を見た気がしたのだ。
面倒なことには巻き込まれないようにと思っていたが、そんな浮ついた空気によって刺激されたのかもしれない。いつの間にか部で指導してくれる柴田の事を、先輩としてではなく異性として意識し始めてしまったのだ。
彼との出会いは入社前の面接時に始まり、その後の部での初練習で指導を受けた時から距離はとても近くなった。
だがその後は仕事のローテンションの合間に練習を行うため、指導してくれるのが毎回彼になるとは限らない。時には友永だったり小畑だったりすることもある。
それでもフロント係と管理部門とは勤務場所も接点が比較的多い。お客様とのトラブルが発生した際に連携することもあったからか、春香の胸に忘れていた恋心というものが久しぶりに頭をもたげた。
けれど今まで春香から好意を持った男性に対し、自らアプローチをかけたことはない。それでもかつては好きだと思った相手と付き合いたいと思う気持ちがすぐに芽生えたものだ。そこには根拠のない自信があったからだろう。
だから相手に気づいてもらうよう行動し、告白して貰えるよう無意識に誘導していたのかもしれない。または自分に好意を持ってくれそうな相手を選んでいたとも言える。
だが今は柴田に対してほのかな思いが芽生えたことに気付いても、叶う訳がないと思っていた。自分に自信など全くなく、現在は回復しつつあるがかつては心を病んだことのある人間だ。いつ症状が再び悪化して再発してもおかしくない。そんな女性に、好意を持つ男性などいるはずがないと考えてしまうからだろう。
その為柴田に対し、今までと変わらず接しようと決めていた。かつての小畑達ではないが、変に意識して今の良い関係を壊すことを怖れたからだ。
叶わぬ恋などするものではないし、壊れやすい心にこれ以上余計なストレスを与えたくない。その為小畑達の関係は気になったけれど、自分はどうすることもできず見守ることしかできないと感じていた。
片岡に尋ねることはできたが、大先輩である小畑や友永にどう思っているのかなど聞けるはずも無い。そんなことをすれば一喝されるのがおちだ。
そうしたある日の事、宿泊予定名簿の中に知った名前を見つけた。小曽根第一支社にいた後藤主任だ。不思議なことに二泊三日とあるが、宿泊人数が一名となっている。
確か彼には奥さんも子供もいたはずだ。そんな彼が何故こんな時期に、この旅館へ一人でやってくるのかが判らない。後藤がチェックインした初日、春香は夕方四時から朝四時までの勤務だったため、顔を合わす機会はなかった。
しかし次が変則勤務だったため、彼と遭遇する可能性は高いと危惧していた所、それが現実となった。フロントへの伝達事項があり事務所から出たところで彼と偶然にも顔を合わせてしまったのである。
普段ならば事務所に籠り、ほとんどお客様と顔を合わさずにいられる日もあった。だがこんな日に限って会いたくない人物と目が合ってしまうものだ。
何気ない素振りで視線を逸らしたが、驚いたことに彼から声をかけてきた。
「天堂さんだよね。覚えているかな。俺だよ、後藤だよ。小曽根第一支社にいた時の。今はこの旅館で働いているの?」
相手はあくまでお客様だ。無視する訳も行かず頭を下げた。
「ご無沙汰しています。退職後、少し体調が良くなってからここに再就職しました」
「そうなの。元気だった? 今、俺は本社にいるんだよ。休みを貰って温泉でゆっくりしようと思って来たんだけど、奇遇だね。もしよかったらちょっと外の茶屋でお茶でも飲まない?」
前の職場ではほとんど会話を交わしたことのなかった彼が、
「申し訳ございません。私はまだ勤務中なので。後藤様は当旅館でごゆっくりお過ごしくださいませ」
そう言ってフロントへの必要事項を伝え終わり、事務所に戻ろうとしたが彼は強く引き止めた。
「ちょっとだけだよ。せっかく会ったんだからさ。少しぐらいならいいじゃない。昔話をするくらいさ。ねぇ? そう思わない?」
彼は先程まで話していたフロント係を捕まえて、そう同意を促した。だが春香が躊躇している様子を見ていた彼は上手く間に入ってくれた。
「お客様、申し訳ございません。彼女はただ今勤務中ですので、ご勘弁いただけますか」
だが後藤は諦めなかった。それまでにこやかにしていた表情が急に強張って言った。
「じゃあ勤務時間外ならいいだろ。何時に勤務は終わる? ちょっと聞きたいことがあるんだ。何時でも良い。このロビーで話がしたいから時間を取ってくれないか」
あまりにも真剣な顔だったためただならぬ空気を察したのか、フロント係の彼は再度間に入ろうとしてくれた。
しかしそれほど親しくなかった後藤が、そこまで言うには何か訳があるのだろう。もしかして例の件なのだろうかと疑問を持ったため、つい口を滑らしてしまった。
「今日は夜十時までの勤務です。お話があるようなら、十時半にここのロビーのソファで伺います」
「そうか。ありがとう。じゃあ十時半にここでな。待っているから」
そう言うと、彼は満足そうに部屋へと戻って行った。それを聞いていたフロント係の彼は心配そうに尋ねてきた。
「いいの? 大丈夫かい? 前の職場の人のようだけど、嫌ならきっぱり断った方がいいよ」
「大丈夫です。ロビー前ならフロントからも見えますし、相手もおかしなことはしないでしょう。おそらく相手がここを指定してきたのは、そういう心配はしなくていいということからだと思います」
「でも何を言い出すか判らないだろ。俺も勤務は十時までだから、万が一の為に十時から勤務するフロント係に、天堂さんとあのお客様の事を伝えておくよ。何か以前の職場でトラブルがあった人ではないんだよね。例えばストーカーとか」
「そういうことはありません。それどころか同じ職場でしたが、あまり交流がなかった方なので驚いているくらいです。私にどう言う御用件があるのか良く判りません」
「そうなの。だったらいいけど。ああ、次の勤務の中に柴田さんがいるな。確か同じ和太鼓部だったよね。柴田さんに俺から引き継いでおくから」
彼の名を聞いてドキリとしたが止めて欲しいとも言えず、曖昧に頷きながら奥の事務所へと戻った。十時までの勤務を終え、引き継ぎを無事に済ませた後に更衣室で着替えると、約束の十時半にロビーへと顔を出す。そこにはすでに後藤の姿があった。
フロントへ視線を移すと、事前に報告を受けていただろう柴田が春香を見てゆっくりと頷く。大丈夫だからという合図だろう。おかげで先程までの不安な気分が少し軽くなった。
しかし話の内容によっては、近くにいることが別の意味で不安材料にもなる。複雑な気持ちを抱えながら、思い切って後藤に声をかけた。
「お待たせしました」
「ああ、仕事が終わったばかりで疲れている時に悪いね。缶コーヒーでも飲む? 俺がおごるから」
「いえ、私は」
「まあ、いいじゃないか。無理に誘ったのは俺だから」
そう言った彼は立ち上がり、ロビーの横にある自販機に向かって歩きだした。昼間ならお茶を飲む場所は野外にある茶室になるが、この時間は閉まっている。その姿を見ながら仕方なくテーブルを挟んで、彼の座っていた席の向かいに腰かけた。
缶コーヒーを二本持って戻ってきた彼は一本を春香に手渡し、もう一本を開けて一口飲みながらソファに座った。そして一呼吸を置いた後、彼は早速話し出した。
「時間も時間だから単刀直入に聞くよ。以前、天堂さんは小曽根にいて加納さんの担当を手伝っていたはずだ。その時にグレープという企業があったのを覚えているかな。そこの真中さんと会ったことはあるよね?」
その名を聞いた瞬間に彼の目的を悟った。あの件が聞きたくてわざわざこの旅館へ尋ねてきたのだろう。偶然では無く春香がいることを調べ上げたに違いない。思わず床に視線を落として黙った。それに構わず彼はさらに続けた。
「あとプロ代理店の高畠さんも知っているよね。元々加納さんが担当していた人だよ。加納さんが休みがちになってからは、主に太田支社長や田中が対応していたけど、天堂さんもたまに書類の回収で高畠さんの事務所に行かされていたよね?」
「は、はい。それはありますけど、今更なんでしょうか」
彼はそんな疑問には答えず、さらに質問を重ねた。
「うちの支社から高畠さんの事務所へ行く途中に、グレープの事務所があるよね。高畠さんの事務所で書類回収した時、その後グレープの真中さんに会って書類か何かのやり取りをしていなかったかな」
「すみません。あまりよく覚えていません。二年以上前の事ですので」
「覚えていない訳はないだろ。天堂さんは確か二年近く、加納さんの担当代理店を田中と一緒に手伝っていたよな」
「申し訳ありません。あれから体調を崩したりして、もう以前の職場の事はあまり覚えていませんし、思い出したくないのです」
「そう言わずに思い出してよ。というか実は天堂さんも気づいているだろ?」
「何の事ですか?」
「グレープと契約した生保の法人契約って、あの高畠さん扱いにしていたよね。その間のやりとりで何か疑問に思ったことはない?」
やはり目的はあの件だ。ドキリとしたが平静を装った。
「すみません。グレープの契約が高畠さんの扱いの中にあったことはなんとなく覚えていますけど、契約が成立したのは私が小曽根に配属される前の事ですよね。ですから私はよく知りません」
「なんだ。少しは覚えているじゃない。確かに契約が成立した時、天堂さんは支社にいなかった。でもその後に二つの代理店の間で書類のやり取りをしているのを、手伝わされた覚えはないかな」
「何をおっしゃっているのかよく判りません。そもそもなぜ後藤さんは、既に会社を辞めた私にそんなことを聞くのですか。それなら太田支社長や田中主任に聞くか、加納課長代理に聞けばいい話じゃないですか」
ようやく心を落ち着け逆にそう尋ねた。だが彼は体を反り、ソファの背もたれに体を預けて不機嫌そうに答えた。
「そう簡単に行かないから、君に聞いているんだよ」
「すみません。そのようなお話なら、私から何もお話しすることはありません。失礼します」
そう言って席を立ちその場を離れようとしたところ、彼もソファから腰を上げて前に立ち塞がった。
「いいじゃないか。もう辞めた会社の事だろ? 誰を庇っているのさ。今あの時の話が表に出たとしても、君は被害者だ。何の心配もする必要はない」
「申し訳ございません。お話しすることはありません」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
しつこく付きまとってくる彼に対し、どうしようかと思っていた所で声がかかった。
「お客様、どうかなさいましたか? うちの従業員に何か御用件がおありですか」
柴田が間に入って助けてくれたのだ。
「いや、俺は彼女の前の職場の同僚だよ。だから少し話をしていただけさ」
「しかし私が拝見している限り、彼女はとても嫌がっているように思えます。彼女は前職での過酷な労働で、心身ともに疲れて退社したと聞いております。これ以上彼女に前の職場の方が近付き、無理やり話をさせようとするなら、当旅館としましても第三者を通じて対応させていただくことになりますが」
強気に出た柴田に後藤は怯み、おおげさに騒がれては困ると考えたらしい。
「判った。これ以上は聞かないよ」
柴田が後藤と話している隙に、すかさずフロント奥にある事務所に逃げ込んだ。しばらくそこの休憩室で休んでいると柴田が入ってきた。
「もう大丈夫。あのお客様は部屋に戻られたから。天堂さんの勤務はもう終わったよね。早く寮に帰ってゆっくり休みな。明日にはあのお客様もチェックアウトされるだろうから、もう顔を合わす心配はないだろう」
「ありがとうございます」
「何があったか知らないけど、困ったことがあるなら相談に乗るぞ」
「大丈夫です。あの人は昔の事を聞きたかったようですが、私にはよく判らないことだったので」
「そうか。だったらいいけど」
「ありがとうございます。ご心配をおかけしました。それでは帰ります。失礼します」
そういって裏口から出て、旅館の客室からは決して見えない通路を通り寮へと戻った。その日はなかなか寝付かれなかったが、明日は一日休みである。明後日も夕方四時からの勤務のため、ゆっくり出来る予定だ。
とはいっても明日の午後からは、同じく休みである和太鼓部の同僚達との練習がある。もうあの会社は辞めたのだ。過去のことは忘れたい。前を向いて、今できることをやる為にここに来たのだと自分に言い聞かせ、朝方になってようやく眠ることができた。
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