第17話 トラブル-2

 フロントの仕事は明日のチェックアウトの時まで、緊急のことが起こらない限りしばらく落ち着く。その為春香は事務所に帰り総務の仕事に戻った。

 ヘルプの間に溜まった仕事を黙々とこなしていく。デスクワークに疲れ、少し休憩でも入れようと時間を見ると、もう午前二時過ぎになっていた。

「ああ、疲れた」

 欠伸をして背伸びをしたその時、フロントや外が騒がしいことに気がついた。

「何かあったんですかね?」

 席を立ち事務所を出てフロントに顔を出すと、何やら必死に電話をかけている人や、ロビーを走って旅館の外に出ていく従業員がいた。中には浴衣のまま同じく外に出ようとしている客が従業員に止められるなど、異常な騒がしさだ。

 そこでフロントにいた、先ほど遠山さんの件で話をした先輩に声をかけた。

「何かありましたか?」

 すると真っ青な血の気の引いた顔をし、震える声で話し出した。

「天堂が言っていた遠山って人の部屋から、あのユミって娘が窓から、」

「まさか、飛び降りたんですか!」

 思わずロビーに響き渡るような大声で叫んでしまったため、小声で怒鳴られた。

「バカ! 声が大きい! お前が騒いでどうする!」

 それでも声を抑えて詰め寄った。

「どうしたんですか? 本当に飛び降りたんですか?」

「まだ落ちてないよ。いま窓から出て飛び降りようとしているらしい。ベランダの柵の外にいるユミって子を、彼女の家族と客室係で必死に説得しているところだ。念の為に警察や消防にも連絡して、今梯子車や万が一の為に救急のマットなどを用意してもらうよう手配している。彼女がいる部屋は五階だからな」

 その言葉を聞いた瞬間、走って彼女の部屋に向かった。

「天堂さん! どこへ行く気だ!」

 止めようとする先輩の声を振り切ってすぐに階段を駆け上がり、一気に五階へ着くと廊下を全速力で走った。すると彼女の部屋の前には騒ぎで起こされた他の部屋の客が野次馬のように取り囲み、それを客室係が宥めて遠ざけている。

「すみません、通して下さい! すみません!」

 そう叫びながらごった返した客の間を抜け、部屋に近づけさせないようにしていた従業員も押しのけ、閉じられていたドアを開けて部屋に入った。

「おい、天堂! 何をしている!」

 たまたまそこにいた和太鼓部所属の客室係の先輩が、どさくさまぎれに部屋へと入ってきた春香を止めようとした。

 それも振り切って窓へと向かう。夜中にもかかわらず部屋は電気が煌々と灯され、旅館の客室係数名がユミの飛び降りを止めさせようと叫び、ユミの両親と弟も窓際に張り付いて、彼女に向かって泣き叫んでいた。

「危ないからこちらに来てください!」

「こっちに来なさい、ユミ!」

「ユミ! 馬鹿な事を考えるんじゃない!」

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 春香は従業員の一人を押しのけ、窓際に身を乗り出す。そこにはユミが窓を乗り越え、四階の天井部分で五階から見ると広いベランダになっている向こう側の柵に立ち、泣き喚いている姿が見えた。

「来ないで! 近寄ったら飛び降りるから! 来ないで! ほっといて!」

 その様子を見た瞬間、かつて所属していたテニス部での声出しと和太鼓部で鍛えた発声を最大限に生かし、そこにいる誰よりも大きな声で叫んだ。

「ユミちゃん!」

 その声に驚いた客室係やユミの両親達、ユミまでもが黙った。一瞬の静寂が生じた。

「ユミちゃん!」

 もう一度大きな声を張り上げて彼女の目を見つめた。彼女もまた春香の存在に気づき、じっとこちらへと視線を送っている。ロビーで話をした従業員だと認識したのだろう。そう確信すると、さらにもう一度

「ユミちゃん!」

と怒鳴り、ゆっくりと首を横に振った。春香は目で、駄目だ、飛び降りちゃ駄目だと彼女に伝えた。そこで彼女がじっと自分の目を見ていることを確認し、涙でぐちゃぐちゃになっている彼女の両親と弟へと視線を移す。つられて彼女もそちらを見た。

「ユミ! ユミ!」

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 彼女と目があった両親と弟が再び叫び出す。そんな姿を彼女がしっかりと見ている様子を見守っていた春香は、再び彼女と視線が合った。その為もう一度、ゆっくりと首を横に振った。

 死んではいけない。あなたが死ねば悲しむ人がここにいる。悲しませちゃいけない。あえて口には出さず、そう心の中で唱えた。伝えたいことは既にロビーで話していたからだ。

 見つめ合うユミと春香の様子を、周りにいた客室係やその他の部屋から覗いていた客達が息を飲んで交互に見ている。しばらくして彼女は春香の目を見ながらゆっくりと頷いた。  

 先程までやけっぱちに騒いでいた時とは違う。そのしっかりと力を得た目を見て安心したため、ニコリと微笑んで柵を越え、ゆっくりと彼女に近づき手を伸ばした。

 すでに抵抗を諦めた彼女は差し伸べられた手を掴み、ゆっくりとこちらへ戻ろうとしている。彼女の邪魔をしないように注意しながら安全を確保したところで彼女を抱き上げると、

「良く戻ってきたね。えらいよ」

 そう耳元で囁き彼女を両親の元に返した。そこでようやくどっと歓声が沸いた。いつの間にかベランダの下には警察や消防の人達も駆けつけており、多くの従業員や野次馬が集まり固唾を飲んで二人の様子を見守っていたのだ。

「ユミ、ユミ!」

「お姉ちゃん!」

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

 ユミと家族は、全員しゃがみ込んで涙を流し抱き合っている。その周りを客室係の人達と一緒に胸を撫で下ろして見ていた。そんな春香に従業員の一人が不思議そうに尋ねてきた。

「どうしてお前が名前を呼んだだけで、戻ってきたんだ?」

 それには答えようがない。首を横に傾げながら

「私にも判りません」

と言うしかなかった。本当にそうだった。春香はただロビーで彼女に話した自分の経験談を思い出してもらいたくて、彼女の心に呼びかけただけだ。

 その想いとロビーでの会話自体が届いていなければ、誰が何を言ったとしても聞かず、飛び降りてしまっていたかもしれない。

 自分の時だってそうだ。死んでしまいたいと思っていた時には、母親の事や学生時代に仲の良かった友達の死のことなどすっかり忘れていた。

 そんなことを考える心の余裕すら無かったと言える。母や友人の事を考えると自殺なんてできないなんて理由は、正直今となれば後付けでしかないのだ。

 ただ彼女はこちらの呼びかけに応じてくれた。そして自分で判断し、飛び降りることを思い止まったのである。なぜ死ぬことを止められたのかなど、本当の所は彼女にしか判らない。もしくは彼女でさえ、自分の本当の心の中など理解していないかもしれないのだ。

 警察や消防の人達までが大勢駆けつけたため、ユミと家族が落ち着いたことを見計らい、フロント裏にある応接室まで彼女達を連れて行くことになった。そこで春香を含め、現場を見ていた複数の従業員達が簡単な事情聴取を受けたのだ。

 警察や消防の方には説明した後、騒がせたことに関し旅館側としても謝った。遅れて駆け付けた救急隊とともに警察の人達は帰ったが、詳しい事情調書を作成する為に春香と数人の責任者達だけは、明日にでも警察署へ来るようにと指示を受けたのである。

 事務所での話の中で、ユミが自殺したいと思った原因が大学受験失敗と失恋からくるものだったと判った。

 彼女は幼い時から成績がよく、有名な進学校に入学して両親の期待を背負った優等生だったという。そんな彼女が大学受験前の高校三年生の夏に同級生の男の子から告白され、付き合うようになったらしい。

 それまでほとんど恋愛経験がないまま勉強を中心にした学校生活を送っていたため、恋愛によって生活のリズムが狂ったという。勉強も思うようにはかどらず、本来なら十分合格圏と言われていた大学までも全て不合格となってしまったそうだ。

 さらに浪人が決まった彼女は、両親や弟から冷たい目で見られていると思い込んでしまったらしい。その上付き合っていた彼は大学に合格して浪人生の彼女とはすれ違いが多くなり、GW明けには新しい恋人ができたと言われ振られたという。

 そこから落ち込んだ気持ちに拍車がかかり、浪人中でありながらも勉強に手につかず、思い悩んだ彼女は部屋に閉じこもるようになってうつ病にかかり、心療内科へ通う事になったようだ。

 今回の家族旅行は、気分転換させようと弟が夏休みに入ったため計画されたものらしい。それでも彼女は旅行を堪能することができず、両親や弟にイライラをぶつけてしまうことでさらに自己嫌悪に陥るという悪循環を繰り返していた。その結果自殺しようと思い詰めていたようだ。

 旅を計画した両親もまたそんな娘の扱いに疲れ、弟も機嫌の悪い姉に対して嫌気がさしていたことも事実だという。だからこの旅館にやってきた彼らの顔に笑顔が無かったのだろう。

 彼女が自殺を最後に思い止まったのは、偶然にも春香という同じうつ病経験者と話をし、立ち直り元気になっている姿を見て自分もそうなれるかもと心の中でほんの少し希望を持ったからだという。

 また自分が死ぬことで人を悲しませてはいけないという言葉に、ほんのわずかだが心を動かされたことは確からしい。飛び降りようとした時に泣き叫んで止めようとした家族の姿を見て、春香の話を思い出したようだ。

 これらの話は警察が帰った後に彼女は春香や両親の前で、ポツリポツリと絞り出すように語ってくれた。勇気を振り絞った彼女の告白が終わり、両親達からお礼を言われた春香は彼女に優しく声をかけた。

「辛かったのね」

 軽く頷いた彼女に重ねて言った。

「今までよく耐えたわね。でもこれからは無理しなくていいの。自分がやりたいことをやればいい。あなたはまだ若いから。私だってそう。今新たな生活を始めて立ち直ろうとしている途中だけれど、あなただっていつでもやり直せる。焦らなくていいのよ。あなたの家族がちゃんと味方になってくれるから」

 そう告げて何度も頭を下げる彼女の両親達を後にして、春香達は仕事へと戻った。

 ちなみに偶然なのだが彼女の母親は、以前春香が小曽根第一支社にいた時に隣の第二支社でスタッフとして働いていた女性だと判った。遠山と言う名に聞き覚えがあり、会った事がある気がした原因がそこで判明した。

 ただ会社で顔は何度か合わせていても、隣の支社だった為一緒に仕事をしていた訳でもない。しかもスタッフと言う職種で年齢も離れていたため、会話を交わしたことすら無かった。さらにあの頃の忙しい仕事環境と精神状態では、彼女の事を覚えていなかったとしても頷ける。

 全てが終わり、彼女達が部屋へと戻った時には既に夜も明け、太陽の光が顔を出し始めていた。朝日に照らされる富士の山が神々しく光り青空が広がる雄大な景観は、春香の心を清々しい気持ちにさせてくれたのだ。

 しかし現実はそれほど甘く無く、とても残酷なものだということをその数時間後に思い知らされることになった。

 ユミ達は旅館をチェックアウトし送迎バスで最寄り駅に着いた後、駅前でレンタカーを借りたらしい。そして海に向かう途中の山道で、車ごと崖から落ちたという連絡が入ったのだ。後で警察から聞いたところ、家族全員即死状態だったという。

 一度チェックアウトしたお客の事故なのに旅館へ連絡が入ったのは、運転を誤った自損事故では無く、家族揃っての無理心中ではないかと疑われたからだ。事故時には対向車や後続車などいなかったらしく、目立ったブレーキ痕も発見され無かったらしい。

 崖から落ちてしばらくした後、その道を通った人が近くの路肩に車を止めて一服している時、崖の下の車に気がついたようだ。

 通報を受けた警察が車のナンバーからレンタカーだと判別し、運転者の身元確認をして借りていたのが遠山一家であると分かったという。そこから昨夜の自殺騒ぎも関係しているのではないかと考えられ、再度事情を聞く必要があるからと、旅館へ連絡が来たようだ。

 春香達は元々行く予定だった警察署で事情聴取を受け、警察が引き上げた後に遠山一家がどのような話をしたのかを何度も聞かれた。聞いた通りの事を説明するしかなかったが、その後警察が調査したことを聞かされた春香達は驚くことになる。

 明らかになった事実としては、事故の状態から一家心中の可能性が高いと言うことと、新たにユミ以外にも遠山一家はそれぞれ悩みを持っていたことが判ったらしい。

 父親は職場での仕事に行き詰まり、弟も学校で苛めにあっていたという。母親も近所付き合いや仕事上のトラブルなどで心労が絶えなかったらしく、最近小曽根支社のスタッフの仕事を辞めたばかりらしい。実は全員に自殺する動機があったというのだ。

 遺書などは残されていなかったので、最初から今回の旅行の目的が一家心中だったかどうかまでは不明だった。

 しかしユミが旅館で自殺騒ぎを起こした時、彼女は死のうとしていたことは確かだ。けれど春香の言葉で家族を残して死ぬのは駄目だと一度思い留まったことも間違いない。

 あの時の家族は彼女の自殺を必死に止めていたことも事実である。だが今となっては、彼女一人だけ先に死なせる訳にはいかないとの理由からとも考えられた。 

 またユミが思い留まったのも悲しませる人を残さず、皆で死のうと思ったからかもしれない。だからあの一家は春香達と別れた後、一家心中という道を選んだのだろうと警察は見ていた。

 だがあの時ユミが言った、春香が立ち直り元気になっている姿を見て自分もそうなれるかなと、心の中でほんの少し希望を持ったと言ったことに偽りは無かったように思う。

 それに自分が死ぬことで人を悲しませてはいけないとの言葉を、家族の姿を見て思い出したという話にも嘘はなかったように聞こえた。

 彼女は家族一緒ならば、悲しませる人はいないと考えたのだろうか。立ち直って自分も元気になれるかもという言葉は、彼女の心に届かなかったのかもしれない。それとも彼女には届いていたが、他の家族全員にまでは伝わらなかっただけなのだろうか。

 春香は落ち込んだ。一度は一人の命を助けたとの自惚れがあった分、自分自身が許せなかった。あの時彼女に、あの家族に本当の気持ちが伝えきれなかったことを思えば思うほど胸が痛かった。

 死ぬことで悲しみ、心を傷つけてしまう相手は決して家族だけでは無いのだ。自分の心が弱っている時には気付かないだろうが、友人や周りの関わった人々の中にも、死を選んだことを悲しむ人間は確実にいる。

 春香もその一人だ。従業員達の中にもいるかもしれない。だからとまでは言わないが、人は苦しくとも生き続けなければならないのだと思った。

 結局警察による最終見解は、現場の状況から一家心中の可能性が高いとの発表があった。事故と断定できる証拠も見つからなかったため、そのような判断がされたのだろう。

 そう聞いた後、春香は再就職してから初めて二日ほど連続して休みを取り、寝込んでしまったのである。それでも自分はがむしゃらに、前を向いて生きねばと思い直して踏ん張り、三日目にはなんとか勤務に戻ることができた。

 ユミの前で話した通り、春香は自分の家族を含めた周りにいる人々の為に生きたいと考えている。また今回の件でユミやその家族の為にも自分が生き続ける理由が増えたとの思うことで立ち直ったのである。

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