第4話 気分転換

 診断書を会社に郵送し終わったある日、母が作ってくれた昼食を食べている時に話しかけられた。

「春香、九月も会社に行かなくていいのなら、温泉にでも行かない? 良いところがあるのよ。平日だったら土日より少し安いし、空いているからゆっくりできるよ。どうする?」

 母はどこからともなく取り出したパンフレットを目の前に広げた。Y県にあるホテルの様な大きな宿で広大な敷地を持ち、温泉もあるらしい。

「ここ、私の実家から少し離れた所にあってね。昔何度かお爺ちゃんが生きていた時に行ったことがあるの」

 母方の祖父が亡くなってもう十年近く経つだろうか。

「お婆ちゃんの所へは行かないよ」

 母の実家に寄るつもりなのかと思い、そう返事をした。春香のことはおそらく親戚中に広まっているはずだ。そんな人達に興味本位で接してこられたり、下手に同情されたりするのは嫌だ。

 それだけではない。最も恐れたことは偏見だった。田舎の人間は特にそうだ。心療内科に通っていると言うだけで、おかしなことを言う輩はいる。実際にこの家の周辺でさえも、そのような差別的偏見を口にする人がいると母の口から聞いて知っていた。

 だが首を大きく横に振っていった。

「実家には寄らない。たまにはゆっくりと温泉に浸かってのんびりしたいじゃない」

「でも平日だとお父さんは休みなんか取れないでしょ?」

 専業主婦の母と違い、父は地元の銀行に勤めるサラリーマンだ。夏休みもお盆に取ったばかりの父が休むことなどできるはずがない。同じ金融関係に勤めていたから、会社は違ってもその程度の事は判る。

 しかも父は休みの間近くにある自分の実家へ泊まったり、何日間かは昔からの同級生と北海道に旅行へ出かけたりして、家にいることはほとんどなかった。春香に気を使ったのか、家に居づらかったのかは知らない。

 だが妹も友人と一緒に旅行へ行って家にはいなかった為、その間は母と二人で日常と変わらない日々を過ごしていたのだ。

 そんな母に対する気遣いもあったのだろう。

「お父さんは行かないよ。春香と私だけ。美由紀はこの間出かけたばかりだからもういいでしょ」

 妹は厳しい就職活動を乗り切り、八月に入ってようやく地元の中堅企業から内定を貰うことができた。先日の旅行はその祝いも兼ねてだったと聞いている。

「お母さんと二人で温泉?」

「別にいいじゃない。一緒に温泉に入って同じ部屋で寝て食事するだけよ。後は勝手にのんびりすればいいし。ここの旅館、庭がすごく広いから色々散策もできるし、着いた当日はお抹茶を頂けるの。一緒に甘い物も出してくれるてそれがとても美味しいのよ。温泉なんて春香は小さい時に行ったきりじゃないい?」

「去年会社で行った」

「そんなの何も面白くなかったでしょ」

 確かにそうだった。しかも同部屋になった女性事務員達に気をつかっていたため、のんびりなんてとても出来なかったことを覚えている。

 一昨年と昨年の十二月初旬に、金曜の夜に職場を出発し土曜の昼には帰ってくる忘年会と称した一泊旅行の決起会を経験した。

 一番下端の春香は、慌ただしく会の仕切りやなんやらでバタバタさせられた。その揚句、各自が年度末に向けたノルマ達成の意気込みを述べさせられるなど、ただただ疲れるだけの旅行で嫌な思い出しかない。

「たまにはいいでしょ。正直言うと、春香をダシにして私ものんびりするつもりなの。お父さん達だって一日や二日位なら大丈夫でしょ。逆に喜ぶんじゃないかな」

 最初は会社を休み実家で療養中なのに、温泉旅行なんて行っていいものかと抵抗があった。

 しかし母にそう言うと、笑われてしまった。

「何を言ってるの。温泉はただ遊びに行くだけじゃなくて、療養の為でもあるのよ。今は心も体もしっかり休ませることが一番なんだから」

 お盆休みの間も春香の世話がある為どこにも出かけられなかった母をのんびりさせたいという父の後押しもあり、結局強引な誘いを断りきれなかった。ただ二人きりはどうかと思い妹も誘ってみたが、

「親姉妹で温泉なんて嫌。彼氏とだったら行ってもいいけど」

と断られてしまった。その気持ちは判らないでもない。それにしても彼氏なんているのかと母に尋ねると、いる訳ないでしょと馬鹿にしたような顔をしていた。

 結局九月の第二週目の水曜日から二泊三日で母と二人で温泉に行くことが決まる。どうせなら二泊ぐらいしたらどうだと父が言ったらしく、母は相当喜んでいた。その間は家事から解放されるためだろう。

 今まで母と二人きりで旅行したことなどない。その為少し気恥ずかしかったが、それぞれゆっくりしてればいいとの父の言葉に甘え、手配や準備などは母に全て任せ出かけることとなったのだ。

 幸いなことに旅行当日の天気は晴れだった。特急で名古屋へ出て新幹線に乗り換え、さらに別の路線の駅で降りてから温泉宿の送迎バスに乗車した。そこから三十分ほど山道を揺られて走った先に目的の温泉があった。

 パンフレットで見た通りの大きな建物の玄関先では、仲居さん達がずらりと並んで出迎えてくれた。広いロビーに圧倒されつつ案内された部屋に入ると、窓からは富士山がよく見えた。青い空に少しだけ頂に雲をかぶった富士の山は、くっきりと堂々たる姿をしている。

「良い景色じゃない。ほらこっちから見える庭もすごいでしょ。もう少ししたらあの茶屋で、抹茶サービスがあるから行こうね」

 母は機嫌よくはしゃいだ。電車とバスの移動だけで疲れてしまった春香も、五階の部屋から見下ろす立派な庭を眺めるだけで、心が休まり体の強張りがほぐれる気がした。

 正直この旅行自体に余り期待はしていなかった。事前にパンフレットを見ていたものの、どこにでもあるありきたりの温泉宿を想像していたのだ。

 しかし写真ではなく、実際に広く緑に覆われた庭そのものを目の当たりにした時には、小さな感動さえ覚えた。

 秋には紅葉が素晴らしく、冬には雪が積もった趣ある姿を見せ、春には桜が咲き乱れ、四季折々の花が彩りを添えるらしい。この九月は濃い緑の木々の中に、色とりどりのコスモスやホウセンカ、白いナデシコなどが咲いていた。

 しばらく部屋でくつろいでから庭に出て茶屋に入り、ウエルカムドリンクの代わりに抹茶と和菓子を頂いてから庭を散策する。

 和らいだ日差しと清々しい空気が、春香の体を包んだ。風に乗って花の匂いだろうか、いい香りが鼻をくすぐる。広い庭の中には小川も流れていた。

 橋がかかり、そこを通るとさらさらと流れる音が耳に心地いい。木陰に入ると冷やりとした風が頬に当たった。

 ぼんやり緑の中を歩いているだけで、少しずつ生気を取り戻しているような感覚に陥る。母はそんな春香を静かに見守りながら、少し離れてゆっくりと歩き、その間はずっと黙っていてくれた。好きにさせようとしていたのだろう。

 三十分も歩いただろうか。後ろを振り向くと母がこちらを見ていた。二人の目が合う。

「そろそろ部屋へ戻ろうか?」

 そう告げると母は黙って笑いながら頷いた。

 部屋に戻った二人は、まだ夕食まで一時間ほどあるからと温泉へ入ることにして、用意されていた浴衣に着替えた。備え付けのタオルを持って一階の大浴場へと向かう。

 そこには男湯と女湯の入口の前に休憩所があり、お風呂上がりの人達が冷たいお茶を飲んでいた。先に出たらそこで待ち合わせる約束をして入ることにした。

 中はやや混んでいて、小さい子供と母親が何組かと結構な年齢のお婆さんの集団が十人ほど湯船に入っていた。広い湯船の外には露天風呂があり、そこからも富士山が見えるようだ。  

 室内の湯船に入り少し体を温めてから、外の露天風呂に肩まで浸かる。ゆったりと足を伸ばし、寝ころぶようにしながら夕焼けの空に映る富士山を眺めた。部屋からとは全く違った山の姿が見られたため、素直に綺麗だと感慨に耽る。

 ここに来て良かったかもしれない。ちょうどいい湯加減でそのまま寝てしまいたいほど気分が良かった。最初は躊躇っていた旅行だが、母の誘いに乗って正解だった。何も余計なことを考えず、ただただくつろげばいい。心と体を休ませるだけで良かったのだ。

 十分堪能したため、他の見知らぬ客と話を咲かせている母をおいて先に湯船から出る。待ち合わせの休憩場所で冷たいお茶を紙コップに汲み、畳が広がる座敷奥にあった窓際の椅子に座って待つことにした。

 窓からは先程歩いた庭園の一部が見える。浴衣を着た客が何人か散策していた。まだ火照った頭と体を冷ますようにぼんやりと佇んでいる周りでは、いくつかの集団ができたかと思うと風呂に入って行き、また出てきた人達も集まっては休憩場所から離れていく。

 何組かの客がその場を去っていった頃に、ようやく母がやってきた。

「ああ、春香、待たせてごめんね。あんまり気持ち良かったからのんびりしちゃった。他のお客さんとも話こんでしまったし」

 頬を上気させて申し訳なさそうに近づいてくる。母は家でも長風呂だ。春香もいつもよりは長めに浸かっていたが、それ以上に入っていたらしい。余程

気持ちが良かったのだろう。

「いいよ、別に。私もここでゆっくりしてたから」

「じゃあ夕食の時間もあるし、部屋に戻ろうか」

 その言葉にあわせて椅子から立ち上がり、母と一緒に部屋へ帰った。

「お風呂から見た富士山がすごく綺麗だったね。露天風呂からもよく見えたでしょ」

「うん、見えたよ」

「そうでしょ。ここが晴れた日は、富士山が映えるからいいのよ。また季節ごとに姿が変わるからね。前、お爺ちゃんと来た時は冬だったし、その前は春だったかな。この時期に来たのは初めてだったからお母さん、凄く嬉しいわ」

 誰の為に企画された旅行なのかと一瞬思ったが、余計な気を遣わないようにとの母なりの振る舞いだったかもしれない。

 一度部屋に戻った二人は、夕食を食べようと移動した。二階にある大食堂ではあったが、個々のテーブル席が薄いカーテンで仕切られている。隣り合った客の姿はうっすらと映る程度にしか見えない。その一つに二人は案内されて座った。

 雰囲気は和洋折衷のおもむきだ。食事はモダン会席と呼ばれ、典型的な温泉宿の食事といったたぐいではなく、ホテルのしゃれたディナーコースといった方が適切だろう。目にもあざやかな料理が、テーブルの上に次々と並べられていく。

 オリジナルの桃の食前酒をはじめ、人参のムース、手毬てまり寿司、鮟肝あんきもおろし和え、ゴマ豆腐の前菜から伊勢海老をすり身にした団子が食欲をそそった。

 さらにインゲンを添えたお椀にお造り、雲丹うにを乗せた鯛のロースト、香草バターを溶かして食べる柔らかい蝦夷えぞアワビの踊り焼きまである。 

 その上牛フィレのポアレ、口変わりに野菜の酢漬け、赤味噌のつみれ汁に松茸の炊き込みご飯、香の物にデザートには桃とブドウのタルトがでた。

 十分な量と旬の食材を使った味わい深い料理に舌鼓を打つ。母が一品一品これはどうの、それはああだのという説明と感想を聞き流し、幸せな気分に浸る。 

 特に気取った雰囲気ではなく、それでいて味はもちろん目でも香りでも音でも堪能できた。そんな至福の時間を与えてくれた旅館のサービスに、今更ながら心配になって尋ねた。

「ここってもしかすると、物凄く高い?」

 母はキョトンとしていたが、デザートにかぶりつきながら言った。

「今の時期は安くてお得だから来たんじゃない。来月下旬以降は紅葉真っ盛りな分値段も上がるし、先月はお盆の時期だったからもっと高かったのよ」

「ふ~ん」

 そう頷いていた時、テーブルに案内しお膳を運んでくれた際食材の説明をしてくれていた人から声をかけられた。

「八時からロビーで和太鼓のショーがありますから、食事が終わられましたら是非見ていってくださいね。日頃から一生懸命練習した当ホテルの従業員達が、皆さんに喜んで頂けるよう毎晩やっているんですよ」

 和太鼓? へえ、そんなのがあるんだ位に思っていたら、母が目を輝かして誘ってきた。

「行こう。すごいんだから。ここの太鼓は昔から評判がよくて人気なの」

 食後は部屋に帰ってゆっくりテレビでも見て、寝る前にもう一度軽く温泉でも入ろうと思っていたが、特に断る理由も無い。

「いいよ。付き合う」 

 食事が終わってロビーに行くと既に舞台のセットが組まれ、和太鼓の大きいものから中くらいのもの、小さいものがいくつか置いてあった。観客用の椅子も何十脚か並べられている。

 八時までまだ時間はあるがせっかくなら最前列で、と母はまだ誰も座っていない一番前の席を陣取り、隣の席を指差して座るよう促す。言われた通り腰を下ろし、幼い時に夏祭りで見かけた覚えがある程度の和太鼓を、何となしに眺めた。

 すると和太鼓にもこれほど様々な種類があるのだと初めて知った。台に備え付けられたものから、紐がついていておそらく肩に担いで叩くものまである。

 八時近くになり、いよいよショーが始まりそうだ。すると赤い法被を着て頭にねじり鉢巻きをした若い女性が現れたことにまず驚く。

 その後に五人の男の人が太鼓の位置を微調整し出す。若い人から結構な年齢の人までいたが、法被の外に出ている太い腕と逞しい胸板が印象的だった。

 最初に出てきた女性の他にまた一人、逞しい女性が舞台に登場する。それぞれが太鼓の位置に陣取ると、若い女性がマイクを取って喋り出した。

 メンバー全員がホテルの従業員であることと、今日の舞台には七人いるが総勢三十名程の和太鼓チームがそれぞれ練習に励んでいるとの説明がされた。

 さらに日替わりで毎日演奏を行っており、年に何回か大きな舞台で全員が揃ってのショーを行っているらしい。

 最後にこれから演奏する曲の紹介をすると、マイクを置いて自分の持ち場についた。その女性による大きな掛け声を合図に、和太鼓が鳴り始めた。

 七人がかき鳴らす和太鼓のリズムがお腹に響く。軽快な拍子から重層なビートへと移り、力強くバチを握る腕が鞭のようにしなりながら太鼓の面を捉えて叩いている。

 演奏者達は真剣な眼差しで太鼓と向き合い、それぞれの奏でる音の律動が狂うことはない。座って軽快に小太鼓を叩く人や、立って足を大きく広げて踏ん張り中太鼓を大きく振りかぶった手で叩く姿はとても美しく勇ましく映る。

 春香は自然と手を叩き、太鼓と同じリズムを取っていた。和太鼓の奏でる曲に、自分自身がどんどんと引き込まれていくのが判る。

 曲が終わると大きな拍手がどっと沸く。周りを見渡すといつの間にか椅子は全て埋まっていた。それどころか床に座っている人や、立って舞台を取り囲むようにして大勢の観客がいたことに今更ながら気付く。

 二曲目が始まった。大太鼓おおだいこを使った一曲目より、さらにエネルギー溢れる音がロビーに響き渡る。

 手に汗を握っていた。鼓動が波打つ。動悸のような苦しいものではない。心地よいリズムと、お腹の中まで染み渡る太鼓の音は、春香の心を掴んで離さなかった。和太鼓とはこんな素晴らしいものだったのかと驚きと感動を覚える。

 演奏が終了すると先程以上の大きな喝采が起き、観衆もさらに増えていた。春香もまた痛いほど手を叩いて拍手を送る。

 最後になる三曲目はこれまでと違った。軽やかに和太鼓を担ぎながら叩く人達がロビーにいる観衆の中に入り込み、子供連れの家族を中心にお客さんにも太鼓を叩いてもらう趣向が凝らされていた。

 恐る恐る叩く子供、イヤ、イヤと逃げる子供、リズムはめちゃくちゃだが目を輝かせて一生懸命叩く子供など反応は様々だ。そこに大人も加わる。恥ずかしながら叩くお婆ちゃん、アラ、ヤダなどと言いながら積極的に叩きまくる人など、明るい雰囲気で会場全体が一体感を持ったまま演奏は終了した。

 舞台では後片付けが始まり客もほとんど解散する中、春香はしばらく興奮が冷めやらず席に座ったまま余韻に浸っていた。隣で静かに座っていた母が話しかけてきた。

「結構ノリノリだったね。こういうのが好きだったんだ」

 学生時代など音楽に関しては洋楽でも邦楽でも、流行りの曲であれば何でも聞いていた。特にこだわる程好きなアーティストもいなかったし、アップテンポの曲でもバラードでも、どちらもいいものはいいと思っていた程度だ。

 学生時代、友人に誘われコンサートに行って生の音楽を聴いた経験も何度かある。その時もそれなりに感動した気はする。

 だが今回ほど衝撃的な出会いでは無かった。頭がすっきりせず倦怠感のひどい体にまるで電流が走ったようで、久し振りに爽快感を味わった気分だ。

 その後部屋に戻りしばらくぼんやりとテレビを見てから、寝る前にもう一度お風呂に入ろうとしたが、母は先に寝ているからと言ってそのまま布団に入ってしまった。

 しょうがなく部屋の鍵を持って一人大浴場に入ったが、その間も頭の中には和太鼓の演奏が流れていた。まだあの興奮が止まない春香の鼓動が激しくなったため、湯あたりしたかと慌ててお風呂から上がった程だ。

 部屋に戻ると母は既に夢の中だった。起こさないよう静かに布団に入る。その日の夜は心地よい疲れのおかげだろうか、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。

 翌朝は空腹で眼を覚まし、朝食のバイキングでもお腹一杯食べることができた。夕食の時もそうだったが食欲がこれほどまであることも、体調を崩してから全くと言っていいほどなかったことだ。朝の目覚めも何ヶ月かぶりにスッキリとしている。

 頭の鈍痛で苦しみ、寝起きからぐったりとしていた日々が嘘のように気持ち良い朝を迎えられ、この旅行に来て良かったと改めて思う。食事も美味しく頂き、食後は持ってきた文庫本を読みながら部屋の中でゆったりとくつろいだ。

 お昼も旅館で済ませ、食後にはまた庭園を散歩して少し体を動かす。部屋に戻ると温泉に入り、また少し横になって休んだり文庫本の続きを読んだりして、のんびりとした時間を過ごした。

 その間一緒に食事している時以外、母は全くと言っていいほど話しかけてこなかった。同じように本を読んだり、お風呂に行ったり散歩したりと邪魔にならないように心がけていたのか、一人で満喫していた。

 食事の時は天気がどうだ、他の客にこんな人がいただのおかずのこれは特に旨いなどと他愛のない話ばかりしている。だが夕食時に今日も和太鼓の演奏を聴くかとの問いには、当然のように激しく頷いた。

 二日目は一日目と太鼓を叩くメンバーが代わり曲目も変わっていたが、構成は同じだった。一番目に迫力のある曲、次はさらに壮大な曲、最後は明るいテンポの曲で会場と一体感を持つ流れである。

 この時も和太鼓の音に魅かれていた。だが今度は違った欲求が出てきたのである。

― 自分も和太鼓を叩いて、あのような演奏をしてみたい ―

 演奏が終わり、部屋に戻って昨日と同じように過ごし、また気持ちのいい朝を迎えた。朝食を終え、後は荷物をまとめてチェックアウトして帰るという頃、母が初めて真面目な顔で話しかけてきた。

「どう? ゆっくりできた?」

「うん、思っていた以上に楽しかった。体の調子も良いみたい。食欲も出てきて睡眠もしっかりとれたから」

「良かった。春香はちょっと疲れてただけなのよ。休んだらいいの。焦らなくていいから」

 母はそれ以上何も言わなかった。今までも実家に帰ってきて何度か聞いたセリフではあるが、この時はその言葉が深く胸に染みた。思わず目に涙が浮かんでくる。それを見られないように母から顔を逸らしながら答えた。

「ありがとう。そうする」

 帰りの電車の中でも母は他愛もどうでもよいことばかりを言っていた。もう帰るのね、もっと温泉に入りたかった、また主婦に戻らないといけないのね、とこぼす愚痴を笑いながら聞き流す。そんな母の心使いに感謝した。

 今は何も言われたくない。だからと言って放っておかれるのではなく、ただ静かに温かく見守ってくれているだけで有難かった。

 この病気は薬を飲みながら体と心を休ませ、徐々に回復させていくしかないらしい。後は自分の気持ち次第であることを理解していた。

 気持ちとは裏腹に言う事を聞かず拒否反応を起こしている体の声を聞きながら、心穏やかに無理せず徐々に整えていこうとようやく思う事ができたのだ。

 旅行から帰ると長距離移動の疲れのせいか、しばらく体のだるさが残る日々は続いたけれど、その後の体調は旅行に行く前より改善し、一日中寝込む日が少なくなっていった。

 少しだるいと思えば無理せず横になったが、寝られない日が続いたかと思うと、どれだけ寝ても寝たりない日があったりしていた頃とは違い、昼間に寝過ぎると夜が眠れなくなることが増えたのだ。

 その為あまり長時間昼寝をせずに済むよう注意し、できるだけ本を読んだりテレビを見たりした。それ以外にも外に出て散歩しながら日を浴び、体を動かすよう心がけた。

 それでもまだ仕事ができるほど体調が戻るには時間はかかりそうだ。九月下旬に病院で診察を受け、体の調子を医者に伝えたところ、

「良くはなってはきていますがまだもう少し休んだほうがいいですよ。復職は焦らない方がいいですね」

と言われ、十月末まで休養する診断書を書いて貰い、会社へと郵送したのである。

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