第3話 帰省

お昼前に目を覚ますと、重い体をなんとか動かして帰省するための荷物をまとめ始めた。と言っても多少の着替えや薬、紹介状や健康保険証などだけだ。

 気持ちを楽にする為、とにかく実家に帰ることが先決だった。その後必要なものがあれば、母に部屋の掃除をお願いする際持ってきてもらえばいい。

 普段ならそこまで甘えようとは考えないが、今は何もかもやる気が起こらない。念の為にと購入していた避妊具など、見られて困るものを隠す必要もあっただろうが、そんな事すらどうでもいいことだと思えた。

 二時を過ぎるとお腹が空き始めた為、何とか気力を振り絞って近所のコンビニまで出かけることにする。化粧もせずにマスクで顔を隠し、ジャージにTシャツといった着のみ着のままで部屋を出た春香は、なるべく人と顔を合わさないようにした。

 本来今頃の時間なら、スーツを着て事務所で取引先からの連絡を受けているか外回りをしているはずだ。しかし今は小汚い格好で外に出ている。

 情けないと思ったが仕方がない。身ぎれいにして開き直り、休みの振りをすればいいのだろうが、そんな気にもなれなかった。休んでいる自分を後ろめたいと感じている気持ちも、心のどこかにあったからだろう。

 そんな真面目すぎるマイナス思考自体がますますストレスを増加させ、外にも出たくないし、何もしたくないと考えるようになる。それが病状をさらに悪化させた。その繰り返しだった。

 ただ不定期に訪れる食欲という生理的欲求には逆らえない。そんな時には出前を頼んだりもした。だが毎日頼むのも気が引ける。他の住民達の目があるからだ。

 その為嫌々ながらも人が出入りしない時間を狙って時々外へ出た。コンビニで弁当と飲み物や菓子パン、日持ちするカップ麺等を買い溜めし、逃げるように部屋へと戻るのだ。

 食事を終えると抗鬱剤を飲み、再び眠りにつく。病院で出された薬は朝昼晩と三回食後に服用するようにと渡されている。

 だが食事自体が不定期で、一日一食しか食べない時は薬もその時にしか摂らない。飲み忘れることも度々あった。

 そんなことではいけないと頭では判っていても、体は言う事を聞いてくれない。一回や二回位いいやとも思ってしまう。自堕落とはまさしくこのことだ。そう思う事でまた自分を責め、嫌気がさし気分が悪くなる。

 起きていても碌なことを考えないし、頭痛や動悸が止まず体はだるい。そんな状況から逃れようと布団へ潜り込む。それでも眠れない時は辛く、苦しみが倍増した。

 幸い帰省する前日の昼間、比較的深く眠れた春香が目を覚ますと夜の八時を回っていた。昨日母に電車の時間が判ったら連絡すると告げた手前、帰る時間を伝えなければならないと思いだす。

 そこでスマホを取り出し実家の電話番号を呼び出そうとしたところ、留守電にメッセージが入っていることに気付く。内容を聞くと母からだった。

「春香、あんた明日本当に帰ってくるの? 何時頃? また電話ちょうだい」

 伝言は八時五分に入っている。つい先程かかってきていたらしい。折り返しかけようとしたが、急に指が動かなくなった。そのまま手元をじっと見つめ、スマホを布団の上に投げつけた。

「チッ!」

 また頭が痛くなり動悸が始まった。体がだるい。これ以上頭を働かすことを体が拒否している。その為再び布団の中に潜り目を閉じた。

「チッ!」

 枕に顔を沈め、もう一度舌打ちする。やりきれない。私は何をやっているのだろう。涙が溢れ出て来る。死にたい。

 こんな感情は生まれて初めてだった。かつての経験からそうはなるまいと、自分に言い聞かせてきたにもかかわらず、だ。

 翌朝どうにか起きることができた春香は予約していた電車に乗り込み、昼過ぎに実家の最寄り駅へ着くことができた。

 結局あれから実家へは連絡していない。だから母も春香が何時に着くか知らないだろう。スマホはずっと留守電のままにしてある。

 駅から実家までは歩いて十分ほどの距離だ。荷物を持って家に足を向けた。実家には父の茂夫しげおと母の圭子けいこ、春香より四つ下の大学四年生である妹の美由紀みゆきがいる。彼女は今年就職活動のため忙しいらしい。

 春香と違って成績は芳しく無かった妹は地元の公立中学、高校へ進学した後、地元の余り有名でない私立大学へ入った。そのせいもあって就職活動は厳しいようだったが、それでもいくつか内定は貰えそうだと母から聞いている。

 雨は降っていないが、どんよりとした黒い曇が空一面に広がっている。部屋を出た時も曇っていたが、スマホで調べた天気予報によると実家周辺は曇り一時雨となっていた。

 その為折りたたみ傘を持ってきたがどうやら差さずに済んだ。ただでさえ気が滅入る帰路で雨に降られては、それこそ死んでしまいたくなっていただろう。

 ようやく一戸建ての実家前まで来ると、玄関先に母の姿が見えた。母がこちらに気が付くと、驚いたような顔をして文句を言い始めた。

「春香、本当に帰って来たの! 来るなら時間を連絡してって何回も電話したのに返事がないから」

 しかし母は途中で眉をひそめ、じっと春香の顔を見つめ近づきながら心配そうに言った。

「何かあった? 顔色悪いけど、大丈夫?」

 大丈夫と言おうとしたが、言葉が出ない。顔も引きつって笑えなかった。代わりに涙が溢れ出て、我慢できず倒れかかるように母の胸に顔をうずめて嗚咽おえつした。

「春香、どうしたの」

 困惑する母をよそに感情を隠しきれなくなった自分に戸惑いながらも、涙を止めることはできなかった。母は春香の背を優しく撫でながら、それ以上何も言わず黙って支えるように立っていてくれた。

 すると首筋にぽつりぽつりと雫が落ちてきた。とうとう降り始めたようだ。それをきっかけにして家の中へと入ったのである。

 翌日の朝早く母は春香のマンションに行き、部屋を掃除して洗濯物をどっさりと抱え、夜遅くに戻ってきた。会社に連絡して大田支社長とも会ったようだ。しばらく実家で療養させる為ご迷惑をおかけします、と挨拶をしてきたらしい。

 事情も状況も太田から聞いて詳細を把握した母だが、春香には何も言わなかった。母から事情を聴いたのか、父も妹もそっとしておこうと決めたのだろう。何事もなかったかのように、里帰りした時と同様の扱いをしてくれたのである。

 母に泣きついた後、部屋の掃除等のお願いとうつ病にかかって会社はしばらく休むことになった事以外は、自分で何を言ったか詳しく覚えていない。

 実家近くにあるクリニックに紹介状を持って診察を受けに行った時は、母も付き添ってくれた。今度のクリニックでもいくつかの検査を受けたが結局同じ診断が下され、とりあえず八月も自宅での休養が必要だと言う診断書を書いてもらい、会社へと郵送した。

 その後太田から実家に電話があったらしい。春香はまだ調子が悪かった為に直接話はせず母が代わりに状況を説明し、もうしばらくお休みをいただきますと支社長に伝えていた。

 それから二週間に一回の診察日以外は外に出ることもなく、ずっと家に引き籠ることになったのだ。

 しかし実家に帰ったことで、朝はあまり遅くならない時間に母が起こしてくれた。また夜も早めに寝るようにし、食事も三食規則正しく摂って薬もきちんと飲むようになったことは大きな前進である。

 そのおかげか、胸の苦しみを少なくとも一人で抱えることなく家族に知ってもらったことからの安心感からなのかは判らないが、体調も最悪だった状態から脱して少しずつ良くなっていったのだ。

 それでもまだ外に出る気にはなれなかった。実家の周りには知った人もいる。近所の人や昔の友人、知人などと顔を合わしたくなかったからだ。

 その為部屋でぼんやり過ごす日々が続いたけれど、昼間起きている時間を少しずつ増やすよう心掛けた。その為にネットで購入した小説等の本を読み、現実世界から逃避することで気を紛らわすようになった。

 小説から始まった読書も、気分が良い時はうつ病に関する本や自己啓発書も手にした。そこでうつ病と一口で言っても様々な症状がある事を初めて知ることになる。

 それまでうつ病にかかっているというは周りにもいた。けれど自分がそう診断されるまでは結局他人事のように思っていたし、詳しい知識を持ち合わせていなかった。

 春香は徐々に知識を得て対処方法等を学んだ。社会人になる前は、自分がこのような病気にかかるなど考えたこともなかった。しかしうつ病にかかりやすい人のタイプを読んで、自分の性格に当てはまる点があまりにも多い点に驚いた。

 人から真面目と言われることはあったが、決して暗い性格ではない。中高一貫の進学校ではあったが中学、高校とテニス部に所属していた。クラブでは中高共に副キャプテンを務めていたし、どちらかというと明るく社交的な性格だと自分では分析していた程である。

 大学はテニスサークルに所属し、体を動かしながら友達を多くつくることに重点を置き、先輩や後輩からもそれなりに慕われ仲良くやっていたはずだ。

 どちらかといえば体育会系の人間で、家の中より外に出て遊ぶことが好きだった。そんな自分が引き籠り状態に陥るとは、想像すらしたことが無かったのである。

 けれど本によるとそのようなタイプこそ強いストレスがかかった時に弱く、注意が必要だという。真面目で責任感の強い点が逆に自分を追い込み、周りに頼ることができずに一人で抱え込んでしまうからだそうだ。まさしく春香にはその傾向があった。

 この地域では八月のお盆の時期になると、遠方に勤めていても実家に帰省する人が多い。その為今年も同窓会の案内ハガキが、転送届を出していたマンションから送られてきていた。去年も一昨年も出席したかったのに休みが合わず、止む無く欠席で返信したことを思い出す。

 今年の同窓会の日には間違いなく実家にいる。しかしとても出席する勇気などない。そこで今回も欠席と書いた返信ハガキを母に出して貰った。

 春香は誰にも遭わないよう外に出ることもなく、夏の暑い時期を高校時代まで使っていた自分の部屋で過ごすこととなった。

 だが家にいても父や就職活動と大学の講義で忙しい妹とはほとんど話さない。春香の話し相手は専業主婦で同じく家の中にいることが多い母だけだった。

 最初の頃は普通に接してくれていた父も妹も、時間が経つにつれて本を読んでいるかテレビを観るか寝るかしかしない春香との話題も尽き、自然と距離を置くようになったからでもある。

 一方外出しないので昼食を作らなければならない母と一緒に食べていた為か、二人でいる時間が長かった。そこで茶飲み友達のようにくだらない話題や近所の噂話を聞いたりして、母とは今までに無かったほど良く喋るようになったのだ。

 ただまだ体調も精神的にも不安定だったため、八月の下旬に受けた診察では九月以降も引き続き自宅療養することが決まった。

 その時には太田もやってきて医者の診断を聞いた。その結果療養が長引くようなので毎月の診断書は今まで通り郵送してもらうが、今後病院の診察に同席するのは二カ月に一回にすると言い残して帰ったのである。

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