7.祈りの淵にて

 そして一つの小さな闇が、グラウンドの中央にゆっくりと、しかし強大な緊張感を持って立ち上がった。

 その気配に気付いた者たちは、闇に近い方から順に動きを止め、これまでの狂乱が嘘のように静まりかえる。

 彼らはの強い存在感に気付き……暴徒も、ゾンビも、信徒も、そして強大な悪魔たちでさえも、その全てが、グラウンドの中央に視線を注いだ。


 白い煙が晴れる。

 いつの間にか雲が晴れ、半月がこちらを眠たげに覗く。

 それに照らされる華奢な体躯に白い肌、月明かりに照らされ輝く黄金色の瞳、闇に溶け込めない艶やかな黒髪――


 ――悪神・祈ヶ淵新嵐が、神林祭魚の名を以て、いまここに召喚された。


「……新嵐様」

 はじめに、信徒の一人がそう呼んだ。

「新嵐様」

「新嵐様!」

「ああ、新嵐様!」

「祈りの淵へ!」

「皆で祈りの淵まで!」

 そして信徒たちが続々と声を上げる。

 それにつられ、暴徒も声を上げた。

「あれが祈ヶ淵新嵐だ! 連れ帰れ! その血を奪うぞ」

 暴徒たちは我先にと祈ヶ淵新嵐に向かって駆けだす。砂埃がおこり、再び怒声が響く。

 しかしそうはさせまいと、信徒たちは祈ヶ淵新嵐の前に出て、迫り来る暴徒の大群に立ちはだかった。

 ……ここにいる彼ら信徒は、真の狂信者なのだろう。

 救われるためなら、その身を擲つ覚悟さえある者たちだ。

 ――それは哀れなる命だ。


「ああ、彼らが欲にまみれた暴力に命を奪われるのは、忍びない」


 祈ヶ淵新嵐は、彼らを自ら手にかけることに決めた。


「しかし暴徒たちも哀れだ。彼らは暴力の純粋さを知らない。私がそれを教示しなければ」


 祈ヶ淵新嵐は、彼らも手にかけることに決めた。


「そして自らの意思を奪われた哀れな動く屍肉たち、彼らを救わねば」


 祈ヶ淵は、それらも手にかけることに決めた。


 暴力。

 暴力、暴力、暴力。

 暴力!


 祈ヶ淵新嵐は、まず最も近くにいた信徒の身体に拳を振るった。

 身体を引き絞り、腰を入れ肩を開き、軸足を踏み込んで、拳を投げるように思い切り叩き入れた。

 それは人を殴ったことのない少女のそれではなく、何度も何度も人を殴ってきた経験による、純粋な打撃――。

 しかしその力は凄まじかった。

 神と悪魔の力は、信徒の身体を文字通りにした。

 はじめ、その殴られた信徒は消えたように見えた。

 しかし違う。

 彼の血と肉は砕け、欠片となり、一部は霧のようになり、一部はその場に滴り落ちた。

 ただ一発、殴られたその一瞬間のうちに、彼はになったのだ。


 ――これが暴力だよ、新嵐さん。

 ――ああ、これが。これが暴力きゅうさい


 そこからは早かった。

 力の使い方を――暴力の使い方を覚えた悪神は、グラウンドを駆けた。

 暴徒の列を横から撫でると、その全てが弾けた。

 信徒の輪の内側に入ると、綺麗な花が咲いた。

 血と肉の新鮮な匂い、糞尿と屍肉の鼻につく臭気。

 グラウンドにいる者達は、月夜に照らされても尚、ここで何が起きているのか分からないでいた。

 分からないまま、瞬きした瞬間に目の前にいた誰かが消える。

 そしてもう一度瞬きした瞬間にはもう、何をされたか分からないまま死んでいく。

 あまりの速度で人が粉砕されるため、辺りは血生臭い霧が立ちこめていた。

 祈ヶ淵新嵐は、逃げ出そうとする者から手にかけた。

 なぜならこのような恐怖を植えつけられ逃げ出せば、一生の傷になる。そうならばここで救済してあげるのが神の役割だ。

 グラウンドの狂乱は叫喚地獄に変わっていく。

 逃げ惑う者、それでも役割を全うする者、何にも気付いていない者。

 全てが全て、この場にいる全てが暴力に曝される。

 暴力、暴力、暴力!

 血は立ち込め、祈ヶ淵新嵐の白い肌は、紅に染まっていく。

 召喚された悪魔たちは、血を浴びながらその巨大な闇の身体を揺らしていた。

 それは――宴の光景だ。

 悪神を礼賛する、悪魔たちの踊り。叫喚が奏づ音楽。

 血湧き肉躍るとはこのことだ。

 ああこのときが、百年も千年も続けばいいのに!


 しかし、それは叶わない。

 グラウンドは世界ほど広くはなく、暴徒も信徒もゾンビも、いつかは皆いなくなる。

 救済というのは、やがて孤独になることだ。このグラウンドで、祈ヶ淵新嵐はやがて孤独になる。


 ――でも祭魚ちゃん。あなたはここに、いてくれるでしょ。

 ――もちろんだよ、新嵐さん。

 ――だったら私、大丈夫な気がする

 ――うん……アタシも、そう思う。


 そして、祈ヶ淵新嵐はグラウンドの中央にいた。

 赤い霧を浴び、血や肉で作られた水溜まりが、月明かりを映す。

 キラキラと輝く赤い闇。役割を終えた悪魔たちがひとり、またひとりと魔界へ帰って行く。

「うう、うう」

 その静けさの中に、うめき声がひとつ。

 最後に残ったのはひとつのゾンビだけだった。

 ゾンビはゆっくり、ゆっくりとした足取りで祈ヶ淵新嵐に向かってくる。

 祈ヶ淵新嵐はそれに自ら歩み寄ると、不意にそれを胸元に寄せ、優しく包み込んだ。

「あなたたちを、愛しているわ」

 そしてゾンビの身体を今度は強く抱きしめると、瞬間、ゾンビはやはり弾けて霧になった。


 ――さて。それじゃあ仕上げだね。

 ――ああ、やってしまおう、新嵐さん。祈りの淵を、ぶっ潰そう。

 ――でもね……祭魚ちゃん。

 ――なあに?

 ――私、祈りの淵はこのまま残して……

 ――ううん、いまよりもっと、広めようと思うの。

 ――それは……。

 ――いい?

 ――新嵐さんが決めることだから。

 ――ありがとう、見てて。


 祈ヶ淵新嵐は、校舎に向かって歩き出した。まずは西棟、信徒たちの居住地。

 ――みんな出てきて。

 信徒たちは祈ヶ淵新嵐の一言に、恐れながらも畏れながら、ひとりまたひとりと校舎から出てきた。

 彼らは……強いて言うのなら弱き信徒だろう。ただ救いを求める哀れで矮小な者達。――しかし彼らがいなければな、祈ヶ淵新嵐は神たり得なかった。

 そして信徒たちが集まったところで、祈ヶ淵新嵐は彼らに言葉を与えた。


 ――みんな、怖がらせてごめんね。みんなに伝えることがあります。

 ――それはこれまで、みんなが騙されていたということ。

 ――祈りの淵はこれまで、不必要に水や食糧を求め、

 ――皆に無理を強いていたということ。


 信徒たちが、にわかにざわつき始める。

 他の誰でもない、祈ヶ淵新嵐自身がそう言っていることに、動揺が走る。

 しかし祈ヶ淵新嵐は、構わずに続けた。


 ――これは私の望む形ではなかった。

 ――私の言葉も、私の祈りも、

 ――全ては祈りの淵の上層部に包み隠されていた。

 ――私はみんなに会いたかったのに。

 ――私がみんなに会うことも、言葉を交わすことも遮った。

 ――私はこれを、赦さない。


 祈ヶ淵新嵐はみなの視線を誘導するように、今度は北棟に身体を向けた。

 そして――そして縮地、一足で北棟の目の前に飛び出すと……


 ――これは、罰である。


 がががん、と雷鳴のような音がした。

 それは空気を振るわせ、外の信徒たちにも伝わる。

 祈ヶ淵新嵐が、北棟の中心に向かって渾身の拳を入れたのである。

 北棟には――まだ祈りの淵の上層部の連中がいるようだった。祈ヶ淵新嵐をかつて半端な神に仕立て上げた、信仰を冒涜する者達だ。

 巨大な北棟全体に、まるで血管のようにヒビが入った。

 そして一瞬の静寂――

 がらららと地を揺らしながら、北棟は瓦礫と化し、わずか数秒の後に崩れ落ちた。

 瓦礫が落ちた衝撃で、西棟の方にも突風が吹き、土埃が舞う。

 しかしその土埃を払うほどの速度で、祈ヶ淵新嵐は西棟の信徒の前に戻ってきた。


 ――これまでの祈りの淵は、これでおしまいです。


 それは今までの信仰を否定する言葉ではあったが、しかし信徒たちは、自然と祈ヶ淵新嵐の次の言葉を待っていた。

 やはり、彼らは祈ヶ淵新嵐の熱烈な信奉者なのだ。

 祈ヶ淵新嵐はそして、言葉を伝えた。


 ――それでは、新しいへ向かいましょう。


 それから祈ヶ淵新嵐は、これまでの言葉と信仰を全て肯定してみせた。

 上層部の悪行とそこからの復活を神話のように説いて見せた。


 ――あなたたちはこれから、私の名を広めなさい。

 ――祈ヶ淵新嵐というその名を。

 ――救われた心はそこにあり、その中にこそ私はいます。

 ――そして祈るのです。

 ――深い深い、深い深い祈りの中で、私は待っています。

 ――そして本当に全てを失いそうになるそのとき、

 ――私の名を、三度唱えなさい。

 ――祈ヶ淵新嵐、祈ヶ淵新嵐、祈ヶ淵新嵐、と。

 ――やがてその祈りは、深淵まで届くでしょう。

 ――それではみなさん、また会いましょう。

 ――――祈りの淵にて。


 信徒たちは、銘々にその言葉を胸に刻んだようだった。

 そして何人かが、小さくつぶやいた。

「祈りの淵にて」

「ああ、新嵐様。祈りの淵にて」

「祈りの淵にて」

「祈りの淵にて、新嵐様」


 そして祈ヶ淵新嵐は信徒たちに微笑みかけると、やがて月の明かりも弱まる頃、闇に溶けるようにして皆の前から姿を消したのだった。

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