4.祈ヶ淵新嵐[中]

 神に何かを捧げるという行いは、古今東西のあらゆる宗教世界で見られる。

 それは神から何かを得るための対価として支払われるものだ。

 そして祈りの淵にて祈ヶ淵新嵐という神からゾンビ病の加護を得るには、水と食べ物を捧げる必要がある。

 当たり前だがそんなものは方便だ。かつてカルト宗教が信者から金を集めていたのと同じ理屈で、金の価値がなくなったこの町で祈りの淵の連中が生きるため、水と食料を集めているだけなのだ。

 ――なめんなよ、と思う。

 クソ浅い知恵で新嵐さんをそんな安い俗物みたいな神に仕立てやがって、絶対にブチ殺してやるぞと思う。スクールカーストなんて言葉は嫌いだ。新嵐さんをカスみたいな神にしやがったんだから。

 新嵐さんは――新嵐さんはアタシにとってなのだ。


 これは本当に、アタシのつまらないプライドの話だ。

 アタシは人にどう思われても構わない。悪いことをするのも、良いことをするのも、別に自分のためであって誰かに指図される覚えもない。やったことを咎められたり、その振る舞いが自分に何をもたらしても、一向に構わない。

 ――しかし自分がやってもいないことを、特に悪事を疑われるということだけは、我慢がならなかった。

 それはある種のトラウマのようなものだ。

 小学生の頃から暴虐の悪童と名高かったアタシは、昔、本屋で万引きを疑われたことがあった。ただ本を手に取っただけだった。手に持った本を買うつもりで、店の中を見ていただけだった。時期や地域的に万引きが多発していたらしく、世間が過敏になっていたというのもある。ただそれだけだ。

 それだけでアタシは万引きを疑われた。

 アタシの態度も悪かったし、素行も悪かった。不良っぽい見た目も良くなかった。

 店のバックヤードに連れて行かれて、やってもない罪を咎められて、暴れだしたい気持ちを抑えるので精一杯だった。

 今なら多分、その店員を逆にトラウマを植え付けるくらい脅迫して終わらすだろうけど、小学生の頃のアタシはまだそこまで世渡りがうまくなかったのだ。

 結局正直に連絡先を伝え、母親に迎えに来てもらい、母親と二人で頭を下げて、疑われた罪は疑われたまま、こちらは見逃してもらうという形でそれは決着した。

 そしてこの万引きを疑われてしょっ引かれるという事件は、このあと立て続けに何度か起きた。そのたびにアタシは母親を呼び、一緒に頭を下げてもらった。

 母親はアタシのことを疑い、軽蔑していた。

 そして、それから間もなく両親は離婚した。

 ――店で誰かに声をかけられるというのは、アタシにとって気持ちの良い経験ではなかったのだ。

 しかし人は突然、予想だにしないところから、つむじ風が通り過ぎるように、ある種の救いを得ることがある。

 祈ヶ淵新嵐。

 彼女に本屋で話しかけられ、それが純粋にアタシ自身を求めていたと分かったその瞬間、アタシは突如として救われたのだ。


 アタシにとって、そのトラウマは取るに足らないものだと思っていた。

 だがそのトラウマは無意識に人間を遠ざけ、アタシを孤独にするには十分だった。

 アタシは生来から他人が嫌いだったが、その実、内心では他人に好かれたかったのだと思う。好かれない自分の言い訳を、そのトラウマに肯定してもらっていただけなのだ。

 新嵐さんが、それに気付かせてくれた。

 そして新嵐さんはアタシを好いてくれた。

 アタシを受け入れ、あたしに受け入れられたいと思ってくれた。

 そして新嵐さんはアタシにとって――崇高な存在になった。

 新嵐さんに出会ってからのアタシの暮らしは、眩いものだった。

 ヤンキーをブン殴るよりも暖かく豊かな日々だった。

 ひとりで実践して満足していた魔術だって、誰にも話すこともなかった研究の成果だって、いまでは二人で分かち合える。

 新嵐さんが学校を窮屈に思っていることは、彼女と話しているうちに気付いていた。しかし彼女はわざわざ積極的にそんな愚痴を言うような人ではなかったし、窮屈ではありつつもやはり学校のことは大事に思っていたみたいで、やはり新嵐さんはその性格のままの人なのだ。

 だから新嵐さんがそこにつけ込まれたと言えば、そうだろう。

 新嵐さんの性格や振る舞いが招いた災難がそれなら、身から出た錆ではあるのだろう。

 でも。だからこそ報いたい。


 ――アタシはこの三ヶ月、しっかりと準備を進めていた。

 祈ヶ淵新嵐を救い出す方法を考えていた。三ヶ月は、随分と待たせてしまったかもしれない。


「……さて」

 アタシは立ち上がる。

 準備は終わった、あとはやるだけ。

 色々準備したら、リュック一杯、結構な大荷物になった。

 真夜中、町に灯りはない。

 遠く閉鎖されていない隣町の灯りと、国道の灯りだけがぼんやりと空に見える。それから、学校にもわずかな灯り。雲が出ていて、月は隠れている。


 アタシはバリケードを気合いと力で乗り越え、学校に忍び込んだ。確かに普通は入れないだろうが、この世に入ろうと思って入れない場所はない。

 事前の偵察で、新嵐さんが北校舎奥の音楽室にいるのは分かっていた。北棟校舎は祈りの淵の幹部連中の住居で、普通の信徒は西棟校舎にいる。

 校舎の正面突破は容易いだろうけど、追い詰められた祈りの淵共が、新嵐さんに対して何をするか分かったものじゃない。やつらを無差別にブチ殺すのはそれからだ。

 だから、アタシは校舎には向かわない

 新嵐さん助けようと思ったアタシだが、さすがに人を殺したことはなかった。だから準備期間中、まずはゾンビを殺してその殺人の感触に慣れ、次にアタシを襲ってきた暴漢を返り討ちにしてぶっ殺してみて、逃げ遅れた住人をレイプしていたクソを全員嬲り殺すことで、予行演習をしておいた。そのあと無抵抗で善良な人間をぶっ殺してみるかと思ってみたけど、さすがに良心が拒否反応をして吐いて翌日に高熱を出してしまったので、アタシの善悪の閾値はその辺にあるっぽい。

 邪悪なやつなら躊躇いなく殺せる。

 踏み込んで言うと、人間を殺す行為そのものに躊躇いはない。

 ――こんなアタシを、新嵐さんは軽蔑するだろうか。

 そう思うと少し鬱屈とした気持ちになる。誰かからの評価を推し量ってこんなにも気持ちが揺れるのは、初めての経験だ。

 だけど不安はない。

 神がいようがいまいが

 それこそが、おそらくは神と呼ばれるものだろう。

 救われた心を以て、いま祈ヶ淵新嵐かみさまに身を捧げる。

 アタシは校舎を尻目に、グラウンドまで向かった。



 グラウンドは真っ暗だ。

 明かりは校舎の中にさえ僅かしかなく、ある意味でグラウンドは死角とも言える。

 アタシはちょうどその真ん中あたりに向かう。

 拍子抜けだな。もっと人に襲われるかと思った。まあ襲われるとしたら今からだろう。

 ――アタシは確実な手段が好きだ。

 これで結構、堅実派なのだ。

 だから新嵐さんを無事かつ確実に、そして彼女のためになるような手を組み立てるのに、時間がかかった。

 


 だからアタシは準備していた。

 この身を捧げる準備を。


 死体からかき集めた血液や心臓。

 魔力を練るための修練。

 研ぎ澄ました短剣アサメイに、人の血を吸わせたワンド。

 銅製の燭台にトリカブトの根の油を混ぜたロウソク。

 新魔術は語りかける。

『あらゆる神秘は根底で繋がっている。そこに新魔術はある』


 


 アタシと新嵐さんが新魔術の研究を進めて開いた扉のひとつ。

 それは魔界の扉を開き、前代未聞の領域だった。


 学校の周りにある大きめの瓦礫や壁の五カ所ほどに、予め魔法円を書き込んでいる。それぞれの魔法円にはアタシの血を染み込ませたアサメイを突き立て、遠くからでも魔術が共鳴するようになっている。アタシがここで悪魔を呼び出すと、他の魔法円からも悪魔が召喚される算段だ。

 それが合図だ。

 アタシは何日も前から周辺の暴徒たちを鎮圧し、このことを話していた。

「その日、アタシが壁を壊す。きっと大きな音がするだろうね。あそこには水も食料も大量にあるはずだ。それをてめえらにくれてやる。だから協力しろ」

 アタシは暴徒たちに発煙筒を配り、中を攪乱しながら食べ物を探せと伝えてある。祈りの淵の根城に入れるなら、彼らはきっとやってくるだろう。


 アタシはグラウンドの中央に立ち、着ていた制服も下着も全てを脱ぐ。儀礼のための香油を自らの肢体にかけ、ブラッドストーンの首飾りを着ける。

 あらかじめ魔法円を描いておいたツギハギの巨大な羊皮紙を広げ、その四隅に燭台を置きロウソクを立てる。

 そして集めておいた血をその上に垂らし、呪文を唱えた。


 ロブ・リム・ホナメク

 ロブ・リム・ホナメク

 シヴ・ギル・リナメル

 ロブ・リム・ホナメク

 ロブ・リム・ホナメク

 シヴ・ギル・リナメル……


 悪魔を呼び出すには、肉体を用意する必要があった。

 これは死体でも生きたものでもなんでも良いのだが、とにかく器が必要なのである。

 ――この場で用意する肉体はアタシのものだ。この肉体に、悪魔を降ろす。他の魔法円には、周囲に死体を置いている。


 アタシはアサメイを手に取り、魔法円の中央に立つ。

 ……これからやることは、それなりに覚悟がいる。

 自らの身を捧げるためにを身体に刻まねばならない。


 アタシはアサメイを手に取り、大きく息を吸う。

 そして生け贄を捧げるための呪文を、叫ぶように唱えた。


「悪魔よ我が手脚を以て歩み、掴め!」

 アタシは太腿にアサメイを突き立てる。

 鋭い痛みが骨に届き、さすがに立っているだけでやっとだ。


「悪魔よ我がはらわたを以て喰らえ!」

 アタシは腹にアサメイを十字に入れる。

 踏ん張りがきかず、思わずよろける。


「悪魔よ我が目を以て見定めよ!」

 アタシは右目にアサメイの刃を入れる。

 目の前が一瞬赤く染まり、すぐに見えなくなる。


 そして最後に悪魔の名前を呼んだ。


よ、この身を以て顕れ、城塞を壊し尽くせ!」

 そしてアタシは自分の心臓にアサメイを突き立て――


 悪神・に血肉を捧げた。

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