第3話 初恋を忘れたいのに


 マッチングアプリで出会ったのは、かつて恋した恩師だった。


「まさか、『リク』さんが東谷だったとは……」


 立ち話でも何だということで近くの喫茶店へと避難した俺たち。


 運ばれてきたカフェオレをスプーンで掻き混ぜながら、恩師——西山雲雀先生はとてつもなく深い溜息を吐いた。


「俺もびっくりしました。先生でもマッチングアプリとかやるんですね」

「う、うるさいな。私がどんなアプリを利用していようが、私の勝手だろう」

「あ、いや、その……意外だな、って思って。先生って、仕事一辺倒な感じだったじゃないですか」


 俺が高三だった時の副担任。


 新任教師でありながら厳しい先生として知られていた西山先生。しかしそれは彼女なりに学生に対して真摯に向き合っていた証であると、俺はちゃんと理解していた。


 放課後も遅くまで学校に残って授業の準備をしていた西山先生のことを知っている俺からしてみれば、マッチングアプリという俗に塗れたものを利用している彼女というのは、少々イメージから外れてしまう。


 俺の指摘が刺さったのか、西山先生は僅かに頬を主に染めると、


「し、仕方がないだろう。仕事でまともな出会いというのがないのだから……」


 ボソボソと零された衝撃の事実。


 西山先生は美人だしスタイルもいいので男性教諭たちから引っ張りだこだと思っていたから、かなり驚きだ。


 そして同時に、彼女が誰のものになっていないことに嬉しさを覚える自分がいた。


「私もいい歳だ。両親からも毎日のようにいい相手はいないのかと連絡が来ていてな。必ず結婚をしなければならない時代ではないとはいえ、両親を安心させてやりたいではないか」

「まあ、確かに。……でも、先生的にはどうなんですか? 結婚には興味あるんですか?」

「……笑わないと約束してほしいんだが」

「はぁ」


 スプーンから手を離し、口元を抑える西山先生。


 何を言われるのか分からず思わず首を傾げると、彼女は若干目をそらしながら、か細い声でこう言った。


「私は小さい頃からずっと、ウェディングドレスを着るのが夢だったんだ……」

「…………」


 ああ、くそ。


 初恋を忘れようと始めたマッチングアプリだったのに。


 彼女のこんな姿を見ていたら、忘れようがないじゃないか。


「だが、仕事に没頭していたら、いつのまにか私も二十八だ。聞けば、婚活市場では三十を超えれば結婚の難易度が急に上がるというじゃないか。私は恋愛に自信などないし、三十になる前になんとか相手を見つけないと、と思ってマッチングアプリを始めたわけなのだよ」


 言い訳のつもりなのか、それとも恥ずかしさを誤魔化そうとしているのか、今日一番の早口で捲し立てる西山先生。先生のそういうところも可愛くて、俺の口元はついつい緩んでしまっていた。


「おい。笑うなと言っただろう!」

「す、すいません。先生が、あまりにも可愛いことを言うので……」

「か、かわっ!? こ、こほん! み、見ない間にまさかそんなお世辞が言えるようになっていたとは。伊達に社会人になったというわけではないということか」

「いや、別にお世辞とかじゃないんですけど……」

「……ほえ?」


 ああ、もう。そんな可愛い反応はやめてくれ。


「あ、ありがとう。男性からそうやって褒められたのは、久しぶりだから、

その……悪い気は、しなかった」

「え。誰からも可愛いとか綺麗だとか言われないんですか? そんなに可愛くて綺麗なのに!?」

「な、なんなんださっきから! お前はホストか何かにでも就職したのか!?」


 思ったことをそのまま口にしていたら怒られてしまった。初恋の相手と再会したことで、もしかしたら俺は少々舞い上がってしまっているのかもしれない。


 自分を落ち着かせるためにコーヒーで唇を湿らせる。


「すいません。西山先生と久しぶりに会ったんで、ちょっとテンションが上がってしまっていたかもしれないです」

「そ、そうか……まあ確かに、久しぶりだな。お前が高校を卒業して以来か?」

「そうですね」

「あの時は背も低かったのに、大きくなったよなあ……今何センチぐらいなんだ?」

「百八十はあるんじゃないですかね。大学に入ってから急に伸びたんで」

「遅めの成長期だったということか。ふふっ。かつての教え子が大人っぽくなるのを見ると、なんだか嬉しい気持ちにさせられるな」


 そう言う彼女の顔に浮かぶ笑みは、教師が浮かべるそれであり。


 俺のことを異性として意識しているようには、とてもじゃないが見えなかった。


 それがなんだか悔しくて、でも俺たちの関係性から言うと当然のことでもあって、なんというか、ぐちゃぐちゃな気持ちになってしまう。


 西山先生はカフェオレを飲み干すと、隣の席に置いていた鞄に手を伸ばす。


「今日は久々に東谷と話すことができてよかった」

「え、どこ行くんスか?」

「どこって……帰って授業の準備をしようと思っているが」


 困ったように笑いながら、西山先生は頬を掻く。


「流石に、教え子とデートするわけにはいかないしな」


 俺を熱くさせるのに、その言葉は十分すぎるものだった。


 感情のままに椅子から立ち上がり、先生の腕を掴む。


 爆発しそうな心臓を無視しながら、俺は大声で言い放った。


「お、俺は! 先生とデート……したいです!」

「ひ、東谷!?」


 先生が目を丸くしていたが、そんなことはお構いなし。


 彼女の腕を掴んだまま、俺は言葉を続けていく。


「今日は『ひばり』さんとデートをするためにここにいるんです。なのに何もしないままお別れだなんて……そんなの嫌です!」

「だ、だが、私と東谷は教師と生徒の関係でだな……」

「何年前の話をしてるんですか! 俺はもう立派な社会人です。つまり、先生とは対等な立場にいるということ! 誰かに咎められるような関係じゃあありません!」

「そ、それはそうかもしれないが……」


 押せばいけるかもしれない。


 そう気づいた瞬間、俺の枷はどこか遠くへとぶっ飛んでしまっていた。


「結婚相手を探してるって言ってましたよね!? 俺がそれに相応しいかどうか、今回のデートで確かめてみるってのはどうですか!?」


 言った。言ってしまった。


 何年も秘めてきた想いを、こんな公衆の面前で勢いのままにぶつけてしまった。


 行動を起こしてしまったら、次にやってきたのは異常なほどの冷静さだった。


 頭が急に冷え、自分が仕出かしたことの大きさが徐々に理解できていく。


 やばい。まずい。やらかした……っ! 今にも破裂しそうな心臓を抑えながら、先生の顔を恐る恐るのぞき込んでみる。


「お、お前、お前は……」


 耳の先まで紅蓮に染まる西山先生がそこにいた。涙目で、ぷるぷる震える可愛さの塊のような美女が。


 キレられるか、嫌われるか。どちらにせよ、彼女の反応を待たねばならない。


 指ひとつ動かせない緊張感の中、どれだけの時間が経過しただろう。


 西山先生は顔を赤く染めたまま、ゆっくりと口を開いた。


「お、お前の気持ちは、よく分かった。一度交わした約束がある以上、それを反故にするのは人間としてもよろしくないよな。うん」


 先生は潤んだ瞳で俺をまっすぐ見つめると、声を震わせながら言う。


「と、とりあえず、お試し期間、ということでどうだろうか……?」


 直後。


 咆哮とともにガッツポーズをしたら、店内から盛大な拍手が送られた。

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