封印されし歴史

 時計を見ると午後五時。晩御飯まで二時間ある。じっくり読んでも問題あるまい。


 小学三年の黒歴史に目を通す。運動会の練習に関するものだ。


 男女入り混じって、手をつないで円になるというやつだ。適当に近くのクラスメイトと輪になる練習をしたのだが、俺と手をつないだのは二回連続、同じ女子。


 身長は俺よりも高い、ちょっと、おませで快活な女の子。何を思ったか、彼女がわざと俺と手をつなぎたがっていると勘違いした。


 なんと、三回目の練習でも彼女と手を繋ぐ機会に恵まれた俺は「絶対気がある!」と息まいた。そして、握る手にギュっと力を込める。


「なっ、なに!!」


 手を振り払った彼女は、俺と握っていた手を水滴でも飛ばすかのようにプルプル振った。


 周りの男女に変な目で見られたが、先生の「早く、繋いで!!」の声に彼女は渋々、手を差し出した。


 「キモッ!」と言われなかったのがまだ救いだった。


 彼女の態度は、限りなくそう告げていたのだが、口に出さなかったおかげで周囲の注目を浴びるには至らなかった。


 しかし、俺のガラスのハートは深く傷ついたわけではあるが。


 その帰りに少ない小遣いをはたいて買ったのがこのノート。そして、晴れて、黒歴史のエピソード・ワンがつづられたのだった。


 エピソード・ツーは小学四年生の夏。長く語る気にもならない『〇んこ事件』。父さんが、かき氷機を買ってきたのが始まり。


 俺はかき氷を作るのが楽しくなってしまい、前日の晩に大量に食べてしまった。おかげで朝から腹の調子が悪かった。


 授業中に、大きなくしゃみをした瞬間、ほんの少しピチッてしまったのだ。


「あれ、臭くない?」


 隣の女子の言葉をきっかけに「まじ、クセー」と言葉の輪が広まった。自身でも分かるほど……。


 たまりかねた俺は「大の方です!」と叫んで、先生の許可を確認することなく教室を飛び出した。


 その日から、俺のあだ名は『〇んち』になった。俺の名前は賢智けんち。いつか来るであろうと思っていたあだ名が、この事件でついに出番となったわけだ。


 だから『――んち』で終わる名前は嫌なんだよ。『ち』で終わる名前は珍しくない。『ケンイチ』とか『タイチ』とかだ。


 しかし、『んち』で終わる名前は、昔のドラマ、東京ラブストーリーの『カンチ』しか聞いたことはない。


 見たわけではないが、動画やSNSを常にチェックしている俺のリサーチの網に引っ掛かって知っていた。


 まあ、クラスメイトも冗談の一環といった程度で、一カ月位で消えたあだ名となったが。


 俺はノートに書き綴ることで、この事件を闇に葬った。


 改めて読み返すと、どれも小さい事件だな。黒歴史と言っても、小学生だったらこんなもんか。総合すると幸せな小学校生活だったのかもしれん。


 小学生編が終わり、中学校編に突入。高校までの設定で進んでいたラノベが、人気が出たので大学生編まで作ってしまった、そんな感じの続きだ。


 俺の場合、後半の方がエピソード的には盛り上がるのだけれど。


 俺が通っていた中学校はうちから徒歩で十分ほど。小高い丘の上にあるごく普通の中学校。『夕日ヶ丘公園』は通学路のちょうど真ん中らへんにある。


 中学三年生の大会直前。俺は男子水泳部のキャプテン、なずなが女子水泳部のキャプテン。


 俺たちは会話こそ少なかったが、切磋琢磨しつつそれなりに良い関係を築いていた。あの事件までは。


 おかしくなり始めたのは、事件の一カ月ほど前から。そう、つるぎがキッカケだったな。


 あいつめ、色々とかき乱しおって。読み進める前に苦言を呈してやろう。


 スマホを取り出し、つるぎに直メッセージ『お前のせいだぞ、ばっきゃろー』、はい送信。


 すぐに既読になる。『すまん、思い当たる節がねえ』との返信。そりゃそうだろう、二年も前の話だからな。


 なんだかんだ、いい奴だ。だから、当時も助けてやろうと思ったわけだが。


 いくつか小さい黒歴史に目を通し、中学二年生まで読み終えた。次は、いよいよ……と気合を入れたとき、ピンポーンと玄関のベルが鳴る。


 電気が通じている。さっき、外が騒がしかったのは、業者がきたのだろう。


 二階からドタドタと階段を下りる音がした。母さんかな……と思っていると、突然、ドアが開いた。


賢智けんち、今から家具と電化製品を搬入するからね」

「ノックしろよ!」


 と思わず突っ込む。母さんに、反省の色はない。


「一階の住人に配置を確認してもらわなきゃ!」


 訪問の目的めいたことを口にしながら、一号室の方へスタスタと歩みを進めた。俺のときとは違い、ちゃんとノックをする。


 事情を聞いたなずなが、部屋から出てくる。どうやら、俺たちを立ち会わせて配置を決めさせたいようだ。


 台所と洗濯場は位置が固定なので、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機の配置はすぐに決まる。


 あとは、ダイニングテーブルがリビング中央に置かれた。


 さらに、テーブルと風呂のドアとの間にテレビ台、その上に60インチはありそうな巨大な液晶テレビが置かれた。


「おおー」


 これで、アニメや映画を見たら迫力あるぞ。


 なずなは、俺からは視線を避けつつ、目を輝かせて備品が増えていく部屋を眺めていた。顔は笑っていないものの、少し楽しそうに見えた。


 搬入が終わると、母さんは「あと一時間したら夜ご飯ね。なずなちゃんも、上に来てね」と言い残して去っていった。


 二人きりになったとたん、なずなはスピーディーにきびすを返して自室に戻る。


 母さんのせいで、あの『夕日ヶ丘公園事件』を読む前に、なずなと顔を合わすことになっちまった。


 胸クソ悪い。


 俺は、すぐに読み返す気にならなかった。

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