第4話:闇討ち

 夜――まるで上質の天鵞絨びろうどの生地を敷き詰めたかのような空。

 昼間の喧騒はすっかりとなりを潜めて、心地良い静寂が町を包む。


 街灯もないその路地裏は、ぽっかりと浮かぶ冷たくもどこか神々しい月明かりだけでは十分行き届かず、鬱蒼うっそうとして不気味な雰囲気をかもし出す。


 だからこそ、今宵の舞台として選ばれた。



「――、よぉ」



 と、一颯が声を掛けたのは、今日の御前試合に参加していた井伊嘉元之介いいかげんのすけ本人であった。


 顔色までは、この薄暗い中でははっきりとわからないものの、微かな酒気が鼻腔をくすぐった。



(こいつ、どうやらしこたま飲んでいたらしいな)



 さながら、今日の祝勝なのだろう。

 偶然にも差し込んだ月明かりが映す井伊嘉元之介いいかげんのすけは顔は、見るからに酔っぱらっていた。



「ん~……なんだ君は」

「いや、別に。大したもんじゃないよ。美芭画流みばえりゅう師範代――井伊嘉元之介いいかげんのすけとお見受けする」



 何を今更なことを。一颯は心中にて自嘲気味にふと笑った。



「誰なんだ君はぁ。あっ、もしかして私の弟子になりたいのかな?」

「いいや、まさか。今日俺はアンタに仕合を申し込むために前に現れたんだ。剣術指南役に任命されたほどの腕前、是非俺にも見せてくれよ」

「……なぁるほど。つまり君は私に嫉妬しているんだね? 仕方がないここは一つ、格の違いというものを教えて進ぜよう!」

「…………」



 正直なところを申すと、現在の一颯に仕合いたいという気持ちはこれっぽっちもなかった。


 相手はべろんべろんの酔っ払い。足取りは千鳥足とふらふらとして覚束ず、構えた剣先もゆらゆらと不規則に揺れて安定性など皆無である。


 もっとも、これらすべてが演技であったとすれば――恐るべき擬態と言う他あるまい。


 敵に油断を誘い致命的な一撃を与える。


 これほど合理性のある剣は早々にないだろうし、だがどうしても御前試合での一件があるので、一颯の眼にはそう映ることはなかった。



(やっぱりこいつは、ただの酔っ払いだ。あぁクソ……タイミングを完全に間違えたな)



 酔っ払い相手に勝ったとしても、なんの自慢にもなりはしない。

 ここは素直に、素面の時に再度申し込んだ方がよかろう。


 そう判断した一颯を他所に、井伊嘉元之介いいかげんのすけはすっかりやる気で満ちていた。


 どうやらこの男、酒が入ると悪酔いをするタイプの人間だったらしい。



「いくぞぉ下郎めぇ! 私の奥義、とくと見るがよい~!」

「……マジかよ」



 体よく言えば大胆不敵、逆ならば……愚行という言葉しか一颯は思い浮かばない。


 恐らくは、敵に攻撃を誘うための構えなのだろう、とは推察できなくもないが、両腕をバッと大きく広げた構えは隙しか見当たらない。


 斬ってください、とそう言わんばかりにふんと不敵に微笑まれても、なんら威圧感もなし。


 のしのしと大股で迫る井伊嘉元之介いいかげんのすけに、



「えいっ」と、一颯。



 面倒くさいことこの上なく、だが背を見せて逃げるのも一颯のプライドが許さない。


 結果、鞘のまま太刀で思いっきり頭をぶん殴った。

 こんなものは、技でも何でもない。

 そんじょそこらの悪ガキにでもできる、要するに喧嘩の技だった。

 技と呼称することさえも、おこがましいやもしれぬ。



「ぎゃふん!」



 ばたりと盛大に倒れた井伊嘉元之介いいかげんのすけに、一颯は小さな溜息を一つもらす。



(こんな状態の奴に勝ってもなぁ……こっちはせっかくお面までして変装したって言うのに)



 すべてが徒労に終わった。


 素面であったとしても、見栄えばかりの華法剣法に負ける自分ではない、そう自負する一颯だからこそ、この勝利は当然ながら素直に喜べたものではない。


 単純に酔っ払いを殴っただけだから、帰路に着く一颯の表情かおにも、酷い落胆の感情いろが色濃く滲んでいた。



「あーあ、こりゃあ仕切り直しだな」



 次が果たしてあるかどうかさえも怪しい雲行きである。

 一颯が路地裏を後にしようとした時のこと。

「ぎゃっ!」と、いうそれはまるで家畜を絞め殺したかのよう。

 背後より聞こえた声に何気なく一颯が振り返った先で、



「なっ……!」

「…………」



 井伊嘉元之介いいかげんのすけ、だったものが無様に地に伏していた。

 まず、死因が心臓部への刺傷であることは一目瞭然だった。


 一振りの直剣は、まるでこれが彼の墓標であるかのようで、得体の知れない不気味さを見事に演出する。


 その柄頭にあろうことか足場にする輩は、不届き極まりない。



「……お前は、何者だ」



 直感的に一颯は、目の前で相対する者が敵だと即座に判断した。

 仮にこちらに敵意がないとしても、相手がやったことは立派な犯罪である。


 高天原たかまがはら守護職【真選組】の一員として見過ごすなど、あってはならない。


 一颯はすらり、と腰から得物を払った。


 刃長はおよそ二尺四寸五分約74cmと、拵えは粗末シンプルなものであるが、無名ながらもよく斬れる。

 近藤の目利きだと、全体の雰囲気からして村正ではないか、とのことだった。



「もう一度聞く、お前はいったいどこの誰なんだ?」



 井伊嘉元之介いいかげんのすけを殺害した下手人は、男か女かさえもわからない。


 顔も、殺人をこうもあっさりと遂行するほどだ。他人に晒すような愚行を犯すはずがない。


 上下共に黒の衣装で着飾り、不審者としか形容の仕様がない相手に一颯は切先を静かに、ゆっくりと正眼中段で留めた。



(できることならとっ捕まえてやるのが一番だけど……)



 怪異か、人間か。一颯はまだその判断を決めあぐねていた。

 【真選組】では、怪異に対して一切の容赦がない。


 とにもかくにも、見つければ即斬るべし、この教えを厳守する彼らの活躍あって、高天原たかまがはらの治安は他よりもずっと安全で知られている。


 人間ならば、容易に捕獲することも可能だろうが、怪異は元の身体能力から異なる。


 超人的な身体能力を前に悠長に捕縛することは、過去に一度としてできた試しがない。


 だからこそ、即斬ることが許可されていた。



「とりあえず、死ぬ前に降参することをオススメしておくぞ!」



 一颯が、こうも警告しても敵手はまるで微動だにしない。

 同じく、切先は正眼中段に留まっている。


 ここでもし、相手が逃げでもすればまだ対応のしようがあったものの、怪異かそうでないかが不確定な現状、迂闊に飛び込むことは自殺行為にも等しい。


 全力で殴れば人間がスイカのように弾ける、これだけも十分脅威なのは事実だが、彼奴らは異能を何かしら備えている。


 炎や水、風を操るなどなど……具体的にどれほどの種類があるかは、現時点においてもはっきりと明確化されていない。これが怪異の恐ろしいところであった。



(逃げるわけでも、攻めてくるわけでもなし……か。このまま千日手って言うのは、多分相手も望んじゃいないだろう)



 時間だけがいたずらにすぎていく。

 一颯は、ついに自ら動いた。

 一歩、また一歩……じりじりと詰め寄るように間合いを詰めていく。

 敵手との距離はおよそ三間約5.4m


 本来の一颯であれば、この程度の短距離であれば一歩・・にて肉薄できるが、今回は十全に警戒している。


 距離が着実に縮まっているというのに、まだ敵手に動く気配がない。


 そして両者の距離はついに一間約1.8mの間合いにまで縮まろうとした、刹那である。



「疾ッ――」



 鋭い呼気と共に、終始にじり寄った一颯の足はここにきて大きく地を蹴った。

 爆発的な勢いはあっという間に一足一刀の距離へと肉薄する。

 一颯は敵手の側面から、剣を思いっきり外へと弾いた。

 それは剣士としての性か、崩れた構えを元ある位置も急ぎ戻そうとする癖がある。


 その心理を利用したのが、この技――大鳥一刀流おおとりいっとうりゅう紫電剣しでんけんである。


 剣を弾いた後、両腕をわずかに捻りながら伸ばして籠手を斬る。

 むろん、籠手なので殺傷能力はさほど高くはない。

 相手の気勢を削ぐと共に武器を奪う、ざっくりと言うと牽制と抑止を目的とした技だ。



「――、ッ」



 ようやく、深編笠から反応が少しばかり現れた。



(こいつ……女か?)



 ほんのわずかな吐息は、一颯に女性という印象を持たせる。

 女人が下手人だった、この手の事例は確かに過去から少なからずあることはある。

 だが、基本的に多いのは人間も怪異も、共に男性の割合が圧倒的に多い。

 ましてや、今回やった相手は一応剣術の師範代である。


 井伊嘉元之介いいかげんのすけ程度の腕前であれば、なんとなく女人でも簡単に倒せそうという気がしないでもなかったが……。


 以上の情報から一颯が立てた仮説は、



「お前、怪異だな……?」

「…………ッ!」



 あからさまな反応には、今が殺し合いの最中だというのに、つい笑ってしまう。

 怪異と分かった以上、もう一颯に加減をする道理はない。

 【真選組】の一員として、目の前の怪異を滅殺する。

 それだけに意識が集中した一颯の剣捌きは、先程の比ではない。


 滞ることのない流水が如き滑らかな太刀筋に、堅牢な城塞をも一撃のもとに破壊する雷の如き破壊力は、正しく敵を討つのに相応しい剣だった。



「……ッ!」



 突然、蒼白い炎が一颯の眼前で激しく燃え上がった。



「なっ……!」



 轟々と燃える炎の色は、この世に現存しない色でどこか美しさすら宿している。



(やっぱり怪異だったか……! 蒼い炎を操る怪異……厄介な相手だな)



 これまでに数多くの怪異を斬ったことのある一颯でも、現存しない炎を斬る、そんな神業じみたことは一度としてないし、まず大前提としてやろうと言う気すら起きない。


 炎の壁をどうにかする術がない一颯は、遠ざかっていく怪異の背中を見送るしかできなかった。

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