第2話


 夏の青空の下、東京都S市立T高校2年D組の教室は、いつもの朝を迎えていた。信二は席で一人静かに、朝一番の小テストに備えて数学の教科書を広げている。と、開けっ放しの扉から

「おっはよーーーーーーーーぅ」

 元気な女声が飛び込んできた。

(来た!)

 顔はうつむけたままだが、信二の視線は声の主を追っている。いつも通り、彼女が自分の席に近づくタイミングを見て、信二は顔を上げた。

「おはよ、船井くん」

「お、おはよう、市橋」

 できるだけ自然に応えた信二の顔の前を、たっぷりした胸が通り過ぎる。市橋ゆかりは無邪気に笑いながら、信二の左を自分の席へ歩いた。彼女の席は教室の左後ろ側にあり、毎朝彼女が信二の右前から左後ろへ通り過ぎるのは、単なる席へのショートカットに過ぎないのだが、信二にとっては毎日の密かな楽しみのひとつだった。

(今日は白のフリルか……)

 夏だからなおさらである。

 左後ろから鞄を置く音が聞こえ、そのまま市橋ゆかりは級友たちに駆け寄った。これも毎朝のこと。

「美香、今日子、おっはよー」

「おはよー、ゆかり」

「今日もあっついねぇ」

 布地がはためく軽いパタパタ音が聞こえてくる。

「もぉ、ゆかりったら……間に何か一枚着た方がいいよ?」

「どうして? だって暑いじゃん」

「いくら暑いったってブラは隠さないと、男子が見てるし」

「そそ、男子なんてみんな変態なんだから、ゆかりの胸見てやらしいこと考えてるって」

「えー? そんなことないってば。ねー、船井くん?」

「え!?」

 唐突に呼ばれて振り返ると、市橋ゆかりはにっこり笑ってこちらを見ていた(美香と今日子は信二を睨んでいたが、信二の眼中には全くない)。一瞬目が合い、信二の鼓動は嫌でも高まる。

「え、いや、あの……俺、勉強あるから」

 ドキドキしながら、信二は前へ向き直った。

「ほらぁ」

「ほらぁ、じゃなーい! 船井みたいにクソ真面目なのは例外に決まってるでしょ!」

「あんだけ女の子に興味ないってのも、ある意味変態だけどね」

 このように、信二の内心を知らないクラスの女子の評価は、ほぼ「女の子に興味がなく、休み時間も遊ばず教科書を開いている、気弱でクソ真面目な地味男」であった。しかし、これが男子になると、女子のあまり知らない情報がいくつか追加される。

「うっす船井」

 鞄を肩から担ぎ、信二の前を真横に通り過ぎながら、長身の男子生徒が声をかけてきた。

「うっす」

 こちらは顔を上げて見る気にもならない。竹中なのは分かっている。竹中晃久は社交的で面倒見の良い、クラスのムードメーカーだ。あまり真面目ではないため、頼れるリーダーとまでは行かないが、クラスの中で友人らしい友人がいない信二にもいつも気軽に話しかけてくる。

「今日だな、LH9。なんか徹夜の行列ができてるって今朝ニュースで言ってたけど、船井大丈夫か?」


 LHこと『レジェンダリー・ヒーローズ』は、『ファイナル・サーガ』と並ぶ日本の二大RPGシリーズだ。過去、発売日に学校をサボってまで小学生が行列したり、ゲーム欲しさにカツあげや暴行事件が起こったり、ゲームが元で殺人事件まで起こったりしたため、この二大RPGシリーズだけは、ゲームに興味のないお年寄り世代すら「名前だけは聞いたことがある」ほどだった。そんな超有名人気シリーズの最新作が、夏休みを控えたこの時期に発売ともなれば、ニュースになるのも当然と言えた。


「ああ、俺は予約してるから。店長が取っといてくれるってさ」

「お、さすがゲーム博士は違いますなぁ」

 初めてゲームの話をして以来、竹中は信二を「ゲーム博士」と呼んでいた。オタクと呼ばれるのが嫌だった信二は、おそらく気を遣ってくれたのだろう、その呼び名をクラス(の主に男子)に広めてくれた竹中を決して嫌いではなかった――ある一点を除けば。

「あっくん何の話? ゆかりにも教えろ~っ」

 唐突に背後から、市橋ゆかりの声が割り込んできた。そう、竹中に対して唯一気に入らない点は、市橋ゆかりと「あっくん」「ゆか」と親しげに呼び合う仲だと言うことである。

「いやさ、ゆか、この前もっと簡単なゲームしたいってたじゃん。ゆかにもできそうなゲームが今日発売だからさ、船井にちょっと聞いてたんだよ」

 信二の耳に入った限りでは、二人は幼稚園小中学校とずっと同じクラスだったらしい。本人たち曰く「ただの友達、幼馴染」とのことだが、周囲からはほぼ公認カップルとして扱われている。世話好きでみんなをぐいぐい引っ張るがどこか抜けている市橋ゆかりを、竹中が面倒見良くフォローする、そのコンビネーションは誰が見てもピタリはまっていた。信二が竹中に成り代わりたいと思うほどに。

「へぇーーーーーー、船井くん、ゲーム得意なんだ?」

「ん、まぁね」

 再び予想外の声を受けて、信二は口数少なく答えた。あまりしゃべり過ぎると、声の震えが市橋ゆかりに聞こえそうだったから。しかし内心では

(今日は三回もしゃべった! ラッキー!!)

 心臓がバクバクし、教科書の例題を書き写す手は止まっている。そんな信二をよそに、竹中が続けた。

「ほら、俺RPGとか全然やんないから、LHとかファイサガくらいしか思いつかなくてさ。船井なら何か他にも、ゆかが好きそうなRPGが分かるかと思って」

「そうだな……女の子向けのRPGなら、LHも悪くないけど、藤咲真奈美がキャラデザやってる『バラッド・オブ』シリーズとか、RPGが初めてなら、ちょっと古いけど『東京魔宮伝説』とかもいいかな」

「すっごーい船井くん、ゲーム詳しいんだね!」

「いや、それほどでも……」

 すでに四回しゃべっただけでも信二にとっては奇跡のようなものなのに、その市橋ゆかりに「すごい」とまで言われた。天にも昇る心地どころか、もう思い残すことはない、いつ死んでもいいくらいの気分である。

「そういうゲームって殴ったり蹴ったりとかしないんでしょ?」

「ん、悪い奴を、魔法とかで、やっつける感じ、かな」

 これで五回目。緊張を悟られないように、信二は、言葉を区切りながらゆっくり答えた。

「正義の味方なんだ、かっこいーーーーー! これがあっくんだと、ナントカファイターってあるでしょ、二人で殴り合うゲーム。あれでいっつもゆかりをいじめるんだよ?」

「いじめるはないだろ、こっちのゲージが半分になるまでは手ぇ出さないでやってんだし」

「だったら一度くらい負けなさいよ~」

「負けたら『あっくん本気でやってなーい』って怒る癖に……」

「きゃーーー、悪いあっくんにいじめられた~、船井くん助けて~」

 教室中に響く大声で市橋ゆかりが言い、クラスメイトたちが爆笑した。鞄を下げ自分のクラスに向かっている生徒たちも、何事かと廊下から覗いている。

「こんなんだから、ゆか向けの何かいいゲームないかってことになってさ」

 苦笑しながら竹中が信二に言った。

「バラードブ、と東京マキュー伝説だっけ? 探してみるよ。てか、そうだ、どうせ船井、今日はLH9買いに行くんだろ? あれだったら帰り、俺らもついてっていいか? ゆか、いいだろ?」

「うん、いいよ」

「え!?」


 ゲームショップへ、市橋ゆかりと、一緒に?


「船井にゆか用のゲームを選んでもらってさ、どんな感じで遊んだらいいか、やりかた教えてもらうか」

「あ、ああ。そ、それだったら、店長に言って、店のゲーステ2貸してもらって、実際やってるところ見せようか?」


 市橋ゆかりに、いいところを、見せられる?


「お店で遊んでいいの?」

「本当は駄目なんだけど、常連だから特別に、ね」


 顔も勉強も運動も、何のとりえもない俺が、特別?


「でも見せてもらえるんなら、そっちの方が助かるな。実際遊んでみないと、俺だけじゃ分からないとこあるだろうし」

「だね。船井先生、あっくんともども、よろしくお願いしまーっす」

 信二の心は踊った。市橋ゆかりとゲームショップへ行く。市橋ゆかりにゲームを教える。今日は信二にとって間違いなく、人生最高のラッキーデーだ。竹中がいなければもっと良いが、校外で市橋ゆかりと一緒にいられるだけでも超ラッキーなのだ、文句は言えない。

 あまりに信じられず、休み時間にトイレで一人、信二はあちこちつねって確認した。これは夢じゃない。覚めることのない現実なのだ、と。


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