夢と現はガラス越しに

「なにを?」


 城崎の口角がほんの少しだけ上がっているのが見えた。


「あんたにしかできないこと」


 蒼也がそう答えると、城崎から強くフェロモンが降ってきた。これはそう、蒼也がずっと感じてきた城崎のフェロモンだ。これは俺のものだと強く思う。誰にも渡したくない。それを意識し始めた時、無意識に出していたオメガのフェロモンを操れるようになってきた。フェロモンを操れないと負ける。と光汰に聞かされて、蒼也はずっと練習をしていた。それこそ発情期のときでさえ自分のフェロモンを意識した。こんなこと、シェルターにいなければできないことなのだと何度も言われた。


「自分で脱いでみる?」


 耳元でそう囁かれ、蒼也は思わず喉を鳴らした。

 まるで生娘みたいだと自分で自分を嘲笑う。いや、実際蒼也は処女である。オメガとして考えれば間違いなく処女である。だから、この胸の高鳴りも緊張も、生娘のそれとさして変わらないだろう。


「見てて」


 そう宣言してからネクタイを少し緩めた。どうすればより煽情的に見えるのか、光汰と話し合った。いや、それこそシェルターのオメガたちから意見をもらったほどだ。職員たちはいい顔をしなかったけれどなかなか有意義な時間であったことは確かだった。

 だから、蒼也はオメガとしての急所を少しだけ見せた。シェルーター特性のネックガードに隠された項だ。


「これ、外す?」


 ネクタイを緩めた襟元をくつろげるようにして城崎に見せつけた。伸縮性のある特殊な素材ではあるけれど、それでも隠されている箇所はさらに白い。少し指をかけて、項を覗かせるように見せつければ、城崎の喉が鳴ったのが聞こえた。


「そのままで」


 城崎が答えたから、蒼也は指を外し、ジャケットを床に落とした。バサリという重たい音がした。床は絨毯であるというのに、こんな音はなかなか生々しい音がするものだ。蒼也は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえてきた。けれど、これはよくない。だから小さく深呼吸して、自分のフェロモンを調整した。垂れ流しは悪手である。いかにコントロールをしてアルファを制するかである。蒼也は城崎を見据えたまま、ズボンのベルトに手をかけた。

 カチャカチャという音が妙に部屋に響いた。つまりはそれだけこの部屋が静かなのである。ガラスの向こうに広がる夜景はせわしなく動いているというのに、その音はこの部屋まで届くことはない。見せつけるようにファスナーを下げ、城崎の表情をうかがう。蒼也の体は背後にある大きな窓ガラスに預けられていて、ジャケットを脱いだ今、その固く冷たい感触が自分を冷静にさせていた。

 城崎の目を見たままで腰に手を回す。そうすれば、腰骨にひっかっかていただけのズボンは簡単に床に落ちた。

 ガチャっという音が鈍いのは、床が絨毯だから。足元に落ちた重たいものは、昨日までの自分だ。一つずつ枷を外していくように蒼也は制服を脱いでいく。制服のネクタイは学校という牧場に飼われていた証だ。緩めてあったそれを両手でゆっくりとほどいてみせる。片手で外すと生地を傷めるときいてずっと丁寧に扱ってきた。でも、それもこれで最後だ。できるだけゆっくりと、結び目を解き両手で解けたことをアピールするしぐさは、どこか手品師のようで滑稽かもしれない。けれど、それでいいのだ。これから蒼也がいどもうとしているこは、とても滑稽でそれでいて切ないのだから。


「まだ、だよ」


 自分を囲みこむように背後のガラス窓に手をつく城崎を言葉で制する。距離ははとんど体感でゼロだ。けれどそれでいて、制服という最後の砦が厚く蒼也を守っていた。18まではダメ。未成年はダメ。学生はダメ。そんな大人たちの作ったルールは蒼也を守っているのか、城崎を押さえつけているのか、それとも見せかけなのか。目の前にいるのは、理性という名のスーツを着た獰猛な弁護士だ。

 蒼也はネクタイを床に落とした。布の上に落ちた独特な音は、それでも嫌というほど耳に響いた。

 シャツのボタンを二つ目まで外した。蒼也には喉ぼとけがないから、見えるのはネックガードの下の肌。女なら胸の谷間でも見えるだろうが、男である蒼也にはそんなものはない。まだ未成熟な薄い胸板が呼吸をするたび小さく上下を繰り返す。部屋はよく整えられた空気が流れているから、肌をさらしたところで寒さを感じることはなかった。

 ゆっくりと呼吸を整えて、蒼也はシャツの下に両手を回した。

 来ているのは自分のシャツだから。丈が長すぎるなんてことはない。足の付け根より少し丈が長いだけだ。距離が近いから、城崎には蒼也の下着は見えてはいないだろう。蒼也はゆっくりと下着のゴムの部分に指を差し入れ、下におろした。見なくても、感覚で下着を脱ぐことはできる。恥じらう乙女のように目線を下げるなんてことはしない。

 あくまでも、アルファに挑むオメガでありたい。


「まだ、だめ」


 太ももまでおろせば、あとは勝手に落ちていく。毎日風呂に入るときにしていた習慣がそのまま出ていた。ネクタイほどではないにしろ、軽い布が落ちる音に心臓がはねた。下着をとってしまえばいくらでもできてしまう。けれど、オメガにとっての最後の砦はあくまでも項を守るネックガードなのだ。

 蒼也はできるだけゆっくりとシャツのボタンを外した。

 そうしないと手が震えてしまうかもしれないからだ。動揺などしていないそぶりで、慎重にボタンを外す。すべてのボタンが外れれば、城崎に見えてしまうだろう。けれど、それでいいのだ。あくまでも蒼也自身は冷静であることを見せつければいいのだ。冷静な蒼也を乱れさせてみろ。それが蒼也のする第一段階なのだから。


「俺を、見て」


 ゆっくりとシャツを開く。

 自身の指先で鎖骨をなぞるようにゆっくりと、それから静かに両肩をあらわにする。まだ、まだ駄目だ。両手を下におろしていけば、それに合わせてシャツも降りていく。袖のボタンを外していなければ、そこで引っかかる。

 落ち切らないシャツを手首に引っ掛けたまま、蒼也は城崎を見つめた。背中に当たるガラスは素肌に外の冷たさを伝えてきた。それが現実で、アルファが与えるのは夢か幻か。その温かさを知れば、もう戻りたくはないだろう。

 蒼也の唇はゆっくりと弧を描き、両手は袖のボタンを外していた。そうしてボタンを外したことを見せつけるようにして、腕をおろせばシャツが重力に従って床に落ちた。

 靴下を脱ごうとして蒼也が片足を後ろに上げた時、城崎の顔が近づいてきた。


「まだだから」


 焦った蒼也が口を開いたとき、城崎の口がそれをふさいできた。指先が靴下の布地をつまんでいたから、足をおろせばそのまま脱げてしまう。片方脱げた靴下をすぐに手放し、蒼也は城崎の後頭部に手を回した。

 蒼也より、少しだけ低い城崎の体温は、それでもすぐに気にならなくなった。ぬるりと動く舌は相変わらずなれない。これが恋人のキスなのだと教えられても、どうにも口の中を勝手にうごめく温かくて柔らかいものは受け入れがたかった。

 そんなことをしているのに、蒼也はもう片方の靴下を脱いでいないことを忘れなかった。片方の手は城崎の後頭部に回したままにしとけば、見られる心配はない。城崎に体重を預けるようにして、もう片方の足を上げ、つま先から靴下を引き抜いた。そのまま裸足になった足を城崎の腰に乗せた。

 ゆっくりと引き寄せるようにすれば、城崎も分かったように蒼也をガラス窓に押し付けた。

 背中に来るひんやりとした感触を確かめながら、蒼也は熱を求めた。その求める熱はどこにあるのか。合わせた唇からくるものなのか、回された手のひらからくるものなのか。確認したくて蒼也は体を強く押し付けた。


「よく見せろ」


 城崎の声に一瞬体が反応したけれど、冷たい背中がすぐに蒼也を落ち着かせた。


「いいよ」


 蒼也はゆっくりと息を吐き、それから体を少し離すと城崎の腰に乗せていた足を自分で持った。もう片方の手は、かろうじて城崎の後頭部に引っかかっている。見せつけるように、ガラス越しの夜景を背後にして蒼也はネックガードしか付けていない自分をさらけ出した。

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