第39話 早期解決致します


 マンションの部屋の中に入った途端、ベータの小林でもわかる程のフェロモンの匂いがした。ただ、小林にはそのフェロモンの匂いがなんなのかの判別はつかないが、一言で言うならば息苦しい。


「その、なんだか、凄い匂いですね」


 小林は前を歩く幸城にそう伝えた。シェルターで働く小林であるから、発情期のオメガのフェロモンは数え切れないほどに嗅いできている。だからこそ、この部屋に充満するフェロモンは、なんとも表現し難い匂いなのだ。


「そうですか?不愉快な匂いですが、俺はそこまでは」


 幸城はそう答えながらも、歩みを早めるつもりはなかった。いくらなんでも小林に見せては行けないと思うからだ。

 だがしかし、鈍い音が部屋に響いた。


「な、なんでしょう」


 後ろを歩く小林が動揺して辺りをキョロキョロと見渡している。もっとも、まだ廊下を歩いている段階なので目に入るのは飾られた絵画と花がいけられた花瓶ぐらいだ。困ったことに廊下が大理石で仕上げられているため、いくら初夏とはいえ足の裏が冷たくなってきた。


「この奥みたいですね」


 分かりきっていることを少し焦った風に口にする。先程からフェロモンを嗅いでいるから、幸城はこの奥で何がどうなったのか知っている。だからこそ、決定的な場面を小林に見られなくて正解なのだ。


「蒼也くん?蒼也くん?」


 ソファーの背もたれの向こうに城崎の姿が見えた。幸城の視界の範囲には他に誰も見えないが、蒼也はおそらくソファーの上に倒れているのだろう。それで城崎か懸命に声をかけているのだと思われる。


「蒼也くん?」


 城崎の呼び掛けを聞いて小林が慌てて駆け寄った。その際毛足の長い絨毯に落ちていたネックガードを見つけて拾い上げる。


「ど、どいてください」


 小林は城崎を押しのけて蒼也の顔を覗き込む。ぐったりとして顔色が悪い。とても運命の番に出会ったとは考えにくい状態だ。


「蒼也くん、ごめんね」


 小林が蒼也の首の後ろに手を回し何かを確認している。


「良かった、噛まれてない」


 それを聞いて城崎の肩から力が抜ける。だが、蒼也に気を取られている小林が気づくことは無い。幸城はそんな城崎を見ながら、ゆっくりと部屋の中を見渡した。先程まで強烈な匂いを発していた人物が見当たらないのだ。あれだけデカい鈍い音がしたのだ、いなくなるわけが無い。


「うわ  」


 対象の人物をみつけ、幸城は小さく声を上げた。毛足の長い絨毯のおかげなのか、まぁそこそこの状態だ。ゆっくりと目線だけで後ろを見れば、小林がタブレットを使って写真を撮っていた。思わず拾ってしまったネックガードを元の場所に戻して撮影しているのだからそれはどうかと思われる。ただ、それを黙って見ている城崎が、相当我慢しているらしいことが面白かった。


「蒼也くん、ネックガード付けるね」


 意識のない蒼也に声をかけながら小林が再び蒼也の首にネックガードを取り付けた。軽い電子音が室内に響き、小林が蒼也の首元を真剣な目で見つめている。


「うん、心拍数が弱いな、血圧も若干低いかも」


 蒼也の首につけられたネックガードが、再び蒼也のデータを表示し始めると、小林はそれをタブレットで確認して操作する。


「えーっと、その    うわぁ」


 幸城の所までやってきて、小林は床に転がる人物を見て普通に悲鳴をあげた。服装と髪色からいって、二階堂麗子だと思われる女性が白目を向いて倒れていたのだ。蒼也のいるソファーからだいぶ離れている。状況から言って蒼也は麗子に襲われていたはずなのだが……


「な、なんで?」


 そう口にしながら、小林は城崎を見た。状況から言って知っているのは城崎しかいないからだ。この部屋に入る時、城崎の素晴らしい腕力は見ている。そう考えればそうなのだろうと思うのだが、いくら同じアルファとは言え、女性相手にコレはいささかやりすぎではなかろうか?小林は内心同情が隠しきれなかった。


「シェルターのオメガを拉致した上に襲ったのですから当然でしょう?我々はオメガの身の安全が最優先事項でしたよね?小林さん」


 城崎が淡々と告げるから、小林は頷くしかない。いや、そうだけど、そうなんだけど、コレはちょっと違うんじゃなかろうか?小林は幸城に目で訴えた。


「蒼也くん、早くシェルターに戻した方がいいんじゃないないですか?」


 それなのに、幸城はあっさりと小林を裏切った。ここでそれを言われたら、それはそうだと同意するしかないのである。


「そ、そうですね。蒼也くんをシェルターの医者に診てもらわないと、あ、でも、俺は現場を   」


 シェルターの職員に連絡をして、こちらに来てもらうよう要請をしたのは小林だ。現場を離れる訳にはいかない。


「下に宮城くんと光汰くんが待ってるんですよ、城崎さん」


 あくまでも幸城は城崎に都合のいい情報を提供する。


「シェルターのワンボックスか、確かに停まっていたな」


 そういうところはちゃんと見ていたらしい城崎は、自分の着ているスーツのジャケットを脱いで素早く蒼也を包み込むと、あっという間に抱き上げた。


「では私は蒼也くんをシェルターに運びますから、幸城くん後は任せたよ」

「了解でーす」


 城崎相手に幸城は随分な返事の仕方をしているが、城崎は別段気にもとめず蒼也を抱き抱えて部屋を後にする。今更だけど、城崎は靴を履いたままだ。ご丁寧に玄関で靴を脱いで、冷たい大理石にビックリしてしまった自分が損をした気分になって小林は深いため息をついた。


「ため息つくと幸せが逃げますよォ」


 幸城がからかうように言ってくるから、小林は思わず言い返してしまった。


「俺の幸せはいいんです。蒼也くんが幸せに慣れれば」


 とは言ったものの、小林は唸るような声を出して玄関の方を睨みつける。


「蒼也くんがぁ、汚いアルファの手に落ちたぁ」

「ちょ、言い方    言い方あるでしょ」


 思わず幸城はそう言ったけれど、汚いアルファとはまた随分ないいようである。仮にも、城崎はシェルター専属の弁護士であると言うのに。


「だって、公然の秘密でしょ、キミも、城崎さんも裏名家じゃないか」

「まぁ、そういう言い方もありますねぇ」

「シェルター専属の弁護士なんて、みんなそうじゃないか、違う苗字の弁護士なんか見た事がない」

「知ってるのはシェルターの職員ぐらいでしょ」

「光汰くんは知ってますけどね」

「それは洋一郎が教えたからねぇ」


 幸城が自分のせいじゃないと主張するから、小林はジト目で見返すしかない。そもそもあんたたちはグルだろう。目で訴えるしかないのであった。



 そうして、その頃、エレベーターで蒼也と二人きりになったら城崎は、あの日と同じように自分の匂いに包まれて安心しきった顔をする蒼也を見つめていた。


「この匂い、好きぃ」


 うっすらと目を開けた蒼也がそう言って頭を擦り付けるような仕草をする。


「蒼也くん、起きたのかい?」


 城崎がそう問いかけるが、蒼也の瞼は固く閉ざされていた。それでも、いいことを聞いた城崎は、軽い足取りでワンボックスカーの所へと向かうのであった。

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