第22話 目覚めたかもしれない
もっと、もっと、もっと欲しい。
この匂いがもっと欲しいのに、両手で必死にかき集めてもこれっぽっちしかない。だから蒼也は両手に集めたソレから必死にその匂いを嗅ぐのだ。鼻から抜けて脳に届くその匂いが、じわりと体の中を満たしていく。この匂いがなんなのか説明はつかないけれど、とにかく蒼也にとって大事な匂いなのだ。頭の後ろからすーっと背骨を通って尾てい骨にまでその匂いが届くような、そんな感じがして、それだけで蒼也はなんだか満たされる。
だから何度も何度も匂いを嗅いだのだ。そうして満たされて、蒼也は安心して眠りについた。
「うぇぇぇぇ」
目が覚めて、蒼也は状況が理解できなかった。
シェルターの自分の部屋では無い。でも、明らかにシェルターの中にありそうな部屋だ。ベッドの脇の壁にはタッチパネルのようなものがあり、ゴミ箱には空の薬のシートと開封された栄養ゼリーの容器。それから空のペットボトルが数本。
「何この惨状は」
一番ひどいのはベッドの上だ。一回目、二回目ときての三回目だと言うのに、随分と記憶が曖昧だ。二回目の時より記憶が無い。どちらかと言うと一回目の時ににている。
「これ」
握りしめていた布を広げてみれば、見るも無惨な状態になったジャケットだった。ショッピングモールに入っている量販店の物とは大違いで、しっかりと裏地が縫われていて、布地も厚くてしっかりとした作りである。手触りも良くてかなりの高級品だと分かるのだけれど、蒼也は襟のところに縫い付けられたタグを見て喉が詰まったような声を上げた。
読み慣れないそのロゴは、英語ではなくおそらくイタリア語だろう。なぜならイタリア国旗も一緒にデザインされているからだ。
「なんでこんなもの持ってんだ、俺?」
じっくりと眺めても、記憶は朧気でまるで思い出せる気配がない。ただ、微かに香ってくる匂いは何となく覚えていた。
「あっ 」
空調の風のせいなのか、その匂いが自分の体を包み込むような感じがした。朧気な記憶の中で、蒼也はずっとこの匂いを嗅いでいた。まぁそれでこのジャケットがここまで悲惨な状態になったのだろう。
「しかし、これはどうしたらいいんだろう?」
あまりにも酷すぎて、これをクリーニングにはとても出せないし、かと言って備え付けの洗濯機で洗うのはダメだろう。蒼也は頭をガシガシとかいて、それでも答えなんか出てこないから諦めてタブレットで連絡を入れた。
『はーい、蒼也くん?』
「そうでーす。蒼也でーす。元気でーす。腹減りましたぁ」
そう答えれば、くすくすとした笑い声が聞こえてきた。
『じゃあねぇ、シャワー浴びちゃって、手術着みたいな着替えがえるからそれ着てね』
「はーい」
蒼也は返事をすると、すぐにシャワーを浴びに行った。この部屋ははじめてだけど、作りは似ているから何処がどうなっているのかすぐに分かる。
「うひゃあ、あっちぃ」
春先だからなのか、シャワーの温度設定が高くなっていて、発情期明けの蒼也の敏感な肌にはものすごいしげきとなった。
「俺の発情期、全然安定してないじゃん」
シャワーを浴びながら指折り数えるも、前回からまだ2ヶ月足らずで発情期がやってきてしまった。最初は安定しないと聞いてはいたが、周期が短くなるとは思っていなかった。
色々と自分なりに考えてみれば、おそらくそれはアルファのフェロモンに接したからだとたどり着く。二回目の時は同級生になる予定のアルファで、三回目の今回は、あのジャケットのアルファだ。
「多分あの弁護士さんだよな」
タオルで乱暴に頭を拭きながら、思い返せば、高級なスーツを着こなしていたあの弁護士が思い出される。朧気な記憶の中に、自分を抱き上げてくれた逞しいあのアルファの顔が浮かんでくる。ぽやぽやした頭での記憶ではあったが、なんとなくは覚えている。
「抑制剤がきかなかったのかなぁ」
記憶はあやふやだけど発情剤を飲まされて、それで発情しかけていて、体に力が入らなくて、抱き抱えられていた時に抑制剤を飲まされた気がしたのだけれど、違ったのだろうか?
そんな疑問を医師に話してみれば、血液検査の結果を見ながら首をひねられた。
「発情剤とか、抑制剤の数値は出てないなぁ」
そう言いながら結果表を蒼也に見せてくれたけど、一回目と二回目の血液検査の結果と大差ないグラフを見せられて、強いて言えばオメガのフェロモンの値が大きくなっていただけだった。
「今回はねぇ、だいぶいい感じのフェロモン量になっているんだよ」
そう言いながら医師は、一際長くなっているグラフを示した。その長いところがオメガ発情フェロモンの値らしい。
「もうちょっとで、基準値かなぁ」
「基準値って?」
なんの事だか分からない蒼也は、首をひねりながらグラフを見る。
「オメガとしての機能が成熟したって値のこと」
「オメガとしての機能……」
言われて蒼也の喉が鳴った。
「蒼也くんの場合まだ発情期の周期も安定してないし、数値もまだまだ足りないからね。周期が安定する頃にこの値も基準値に達すると思うよ」
「ぅ、ん」
何となく返事の声が小さくなる。ずっと発情期が来なければいいのにな。なんて、思っていたのは助成金があったからだ。これ以上母に好き勝手に使われる金額が増えて欲しくなくて、発情期が来なければいいと思っていた。
「大丈夫、怖がらなくていいからね。フェロモンの値が達したからってシェルターを追い出したりしないし、アルファと番えなんて言ったりしないから」
そう言って笑ってくれたから、蒼也は何となく口からため息が出てしまった。
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