第一章:ドッペルゲンガー

第1話 芦屋啓介の怪談/葉山英春

 私立東京美術大学・映像学科所属一年、芦屋啓介あしやけいすけは語る。


【芦屋啓介】


 俺が美大に入学したきっかけは葉山英春だ。


 もともとは美術にも写真にも興味がなかった。

 昔は、物心のついたころから中学時代までみっちり剣道漬けで、それ以外のことにかまっているヒマがなかったんだ。高校でも竹刀を振ることに時間を費やすつもりでいたんだが、運悪く入学直前になって車に轢かれた。


 命は助かったけど足が悪くなって、走ったり長時間の運動に耐えられなくなった。

 リハビリすれば普通に歩けるようになりますって医者が言うんで、なんとか根性で高校に行けるように努力はしたが、それでもやっと登校できたのが五月だ。松葉杖をついて学校に行ったらもう、そのころにはなんとなくのグループができてるんだよな。——馴染めなかったよ。

 なまじスポーツ推薦で進学校なんかに入っちまったもんだから勉強もついてくのに必死で、ずっと空回りしてるような感じがしてた。

 ……そう。スポーツ推薦だ。足がダメになってる俺は当然部活もできないから、推薦は取り消しになった。本当ならある程度免除されてたはずの学費も親に工面させる羽目になって。

 最悪だったな。

 学校に行くのも憂鬱だったが家に帰るのも気詰まりだった。

 毎日、人がいなくなった教室に追い出されるギリギリの時間まで残ってた。それでやることはただひたすらボーッとしてるか、寝てるか。体が腐っていくような気がしたけど、だからってどうにかしようって気にもなれなかった。


 葉山に会ったのも、放課後の教室だった。いまでもよく覚えてる。


 シャッター音で目が覚めた。目を開けると夕暮れの教室で、窓から身を乗り出して写真を撮っている奴がいた。首から下げた重厚感のあるデジタル一眼レフのカメラと、細身の体型がちぐはぐに見えた。葉山はいまでもそうだけど、どっちかと言うと撮るより撮られる方が向いてそうな見目をしている。明るく染めた髪の毛が、夕日に染まって真っ赤に光る。


 俺が見ていることに気づくと、葉山は

「おはよう芦屋君。起こした?」とヘラヘラ笑って言った。

 これまで喋ったこともないのに名前を呼ばれて、ちょっとびっくりしたんだよな。


「名前、覚えてたのか」

「そりゃ覚えてるよ。同じクラスだし、芦屋君は割と目立つし」


 机に立てかけていた俺の松葉杖に目をやってから葉山は言うと、もう用が済んだと言わんばかりに窓の外に集中し始める。何度もファインダーを覗き込んでシャッターを切った。ときどきカメラ本体についてるモニターを確認して百面相をしている。楽しそうだった。


「楽しいよ」


 葉山はカメラを見たまま俺に言う。


「見る?」


 頷くと、葉山は何枚かの作品を見せてくれた。

 撮ったばかりのサッカー部員がおもちゃみたいに見える校庭の写真。他にも、昔の怪獣映画に出てくる作り物のような東京タワーとビル群。ミニチュアの人間が蠢いている渋谷。鉄道模型みたいな山手線の車体と線路。……どれも現実がジオラマのように見えてくる不思議な写真だった。


「これ、アプリの機能で似たようなの見たことあるけど、カメラでも撮れるんだな」

「特殊なレンズを使って、高いところに登って見下ろすように撮るんだ。プロはヘリに乗ってドアも開けっぱなして撮ったりもする。高所恐怖症にはキツいよな」

「ヘリに乗るのか、葉山は……」


 もしかしてこいつは行動力の化身ではないのか。などと思いながら聞くと、葉山はなんでかキョトンとした様子だった。


「……いや、高校生に空撮はハードルが高い。展望台がせいぜいだ。いつかはやりたいけど」


「興味あるなら芦屋も撮ってみれば?」と、続けざまに提案してきたのには、脈絡がなくて正直驚かされたよ。そのころの俺はカメラなんてろくに触ったこともなかったから。


「そんなしっかりしたカメラ持ってないし、なにを撮れって言うんだ?」

「芦屋はスマホ持ってる?」


 葉山は俺が使ってるスマホの機種を確認すると満足げに頷いた。


「それで充分写真は撮れる。被写体——撮るべきものは……まずは、自分が『いいな』って思ったものかな」


 それから葉山は『いい』の種類を列挙した。かっこいい、かわいい、きれい、すごい、すがすがしい。とにかく『いい』を少しでも掴んだら反射で撮るのだと。ぼーっとしてると見逃すようなものだとなおよいのだと。


「なんで?」

「あとで見返した時に自己肯定感が上がる。宝探しみたいな感覚があるんだ。なんか、自分が生きてる世界の解像度がちょっと上がるような気がすんだよね」


 ヘラヘラ笑いながら言う葉山の顔からは自信と、少しの照れと、作家としての自負のようなものが窺えた。


 俺は同い年の人間が、俺とは全く違う趣味嗜好で、この現実世界で人生を楽しんでいることを目の当たりにして、気づけばスマホを構えていた。

 カシャ、と擬似的なシャッター音が教室に鳴り響く。


「……なんでいま俺を撮った?」


 葉山は目を丸くして言った。

 無理もない。正直、俺自身、葉山を撮った明確な理由を説明するのが難しかった。言われた通り、反射でシャッターを切ったのだ。


「……『いい』って思ったから?」


 語尾に疑問符をつけて答えると、葉山はますます目を丸くしたあと、くしゃっと

笑った。


「なんだそれ」


 葉山は何がツボにハマったのかひとしきり腹を抱えて笑うと、俺が撮った写真は消さなくていいと前置きした上で「人を撮るときは許可を取ろうな。事後承諾でもいいから」と真面目に忠告した。俺が葉山から最初に教わったことがそれだった。


 葉山は、俺の聞いたことをわかる範囲で教えてくれた。わからないことは一緒に調べた。葉山は映像分野に関しての興味関心が人の百倍くらいあったから、暇さえあれば映画とか写真展とかに連れ出してくれて、気がつけば俺は写真に夢中になっていた。

 撮り方によって、現実よりも写真の方が何倍もきれいに見えたり、反対にあやふやでわけのわからないものに映るのが面白いと思った。


 俺が腐ったまんまだったらたぶん気づきもしないで通り過ぎていただろう、季節の移り変わりとか、そのとき感じていた色や匂いや光を残しておけるのが『いい』と思った。


 葉山に写真を教わってからずっと世界が膨張していくような気がしている。この感覚をもっと、勉強したいと思って美大を進路に選んだんだ。

 幸い、葉山も俺も現役で、希望の大学の希望の学部に進学できた。それなのに。


 葉山は、おかしくなってしまったんだ。


 ※


 今年の秋に、俺を含めた映像科の友人四人で写真のグループ展を開くことにした。共通のテーマみたいなものは特になく、自分の好きなものを好きなように撮って制作しようっていうざっくりした企画だ。もちろん葉山もグループの一人だった。『雑然』をテーマに作品を作っていた。


 五分単位で目覚ましが設定されてるスマホ画面。シリアルの牛乳が思い切りこぼれたままのテーブル。どうしようもないほど絡まってるイヤホンのコード。玄関で蹴っ飛ばしたみたいにバラバラの靴……といった具合で、ズボラで、整頓されていない、砕けた感じの写真を寄せ集めて『雑然』を表現したかったらしい。

 どれも洒落ていて雰囲気のある写真だった。


 構図や色、光、モチーフの選び、加工の仕方に至るまで、葉山のことだからおそらく死ぬほどこだわったんだと思うが、不思議と鑑賞者をリラックスした気持ちにさせる作品群だったんだ。

『雑然』というテーマがテーマだから嫌味のないまとめ方にしたいと葉山は苦心していたが、その甲斐はあったんじゃないかと思う。


 ただ、その中の一枚に問題があった。

 その写真は渋谷のスクランブル交差点で大勢の人間が行き交う様子を撮ったものだった。

 葉山は人が行き交う様子に『雑然』を見出したらしい。

 人の顔はなるべく写らないよう、誰もカメラに視線を合わせないように、葉山はあえて一眼レフじゃなくスマホでさりげなく人波を撮った。

 一応気を配ってはいたものの、当然のように何人かの顔は写り込んでしまっていた。とはいえ、どれもおおむね視線を外していたし、ピントも合っておらずはっきりと誰かわかるように写っているわけじゃない。……だが、一人だけ、人ごみの中に明らかに撮られていることに気づいているような映り方をしてる男がいた。


 そいつは雑踏の只中で真正面からカメラを見ている。服装は白いシャツに黒いキャップとパンツ。リュックサックを背負っていて、歳は俺たちと同い年くらいの雰囲気だった。キャップを目深に被っていて顔立ちがはっきりしないにも関わらず、強烈な目力を感じるというか、こちらを見ている気がするんだから最初から変な写真だった。


 葉山には撮り直しを勧めたんだが「同じ場所、同じ時間帯に撮った写真は他にもいくつかあったけど、アングルも人波の感じもダントツでよかったから、これを使いたい」って言って聞かなかった。

 ただし、そのままだと作品にするには難のある写真だ。それは葉山自身もわかっているようだった。

 なにしろ目力を感じるくらいあからさまに、キャップの男は正面を向いている。写真のど真ん中に突っ立ってたからトリミングしようもない。そいつが主役の写真になっていた。葉山のテーマにしていた『雑然』とは程遠い。なんなら『雑然の中に一人立つ男』的な写真になってしまっている。だから葉山は写真を修正した。フォトショップを使って、心霊写真から幽霊を取り除くようにキャップの男を『除霊』したわけだ。

 ——それがよくなかったんだよ。


 何が起きたかって言うと、作業した日の翌日、葉山がノートパソコンを確認したら修正したはずのデータがなくなっていた。

 元のデータと修正したデータの二つがパソコンに残ってるはずだったのに、開いたら両方修正前のデータになっていたんだ。


 これが一回や二回だったらうっかり保存するのを忘れたことを疑うだろうが、五つほど修正前のデータが並んだ時点で「これはおかしい」と葉山は思った。

 修正しても修正しても修正前に戻ってしまうなんてこと、普通はあり得ない。


 だから葉山は俺を含めたグループ展のメンバーに「試しに画像を触ってみてくれないか」と頼んできたんだ。

 作品に使うわけじゃなく、単純に〝修正が出来るかどうか〟を知りたいと。

 変な話だとは思ったけど、葉山は冗談半分に見せかけて結構本気で検証したがってたから、俺も修正を手伝ったよ。

 もしかしたら葉山と同じように、気づかないうちに手元に修正前のデータしか残ってない、といったような、不可思議な出来事が起こるのかもしれない。

 そんなふうにちょっと期待もしたわけだが、俺の作業中は全く、これっぽっちも、何もなかった。

 手元には普通に修正後のデータが残っていた。

 だから俺は頼まれた通りに、展示のために作ったクラウドサービスを使って葉山に修正後のデータを送った。正直肩透かしではあったが、葉山の心配はとりあえずこれで解決するだろうと思った。


 にもかかわらず、その日の映像科の授業に葉山は血相変えてやってきたんだ。

「おまえらほんとに修正したんだろうな!?」「ふざけてるのか!?」って取り乱した様子で。


 あんまり喧嘩腰の態度だったからまず落ち着いてくれと頼んで、少なくとも自分はきちんと修正してからデータを送ったことを話した。スマホからでも確認できるだろうと思ってクラウドのデータを見てみると、……どういうわけか修正前のデータに戻っている。


 幸い、身の潔白は証明できた。俺は修正作業をしたノートパソコンを持ってきていたし、当然こちらには修正後のデータが残っていた。それを見せて葉山には納得してもらった。

 他のメンバーも、ちゃんと修正したデータを送っていることが確認できた。それぞれ手元にあるのは修正後のデータだ。でも、何度見ても共有クラウドにあるのは全部修正前のデータなんだよな。


 授業が始まるからいったん話し合いはお開きになったけど、俺は全然集中できなかった。修正前のサムネイルが三枚並んだ画面を思い出して、これは葉山が動揺するのも無理はないし、不気味だとも思った。

 授業が終わるとまた展示メンバーで話し合った。

「撮り直した方がいいんじゃないか?」と、誰かが言い出したことに、一も二もなく賛成した。

 修正するよりも同じアングルで別の写真を撮った方がいい。なんなら、その人混みの写真を没にするなり、別のものに差し替えることはできないのかという話になった。

 葉山はどうしてもスクランブル交差点の写真は必要だと言い張った。いつものこだわりのようにも思えたが、普段取り乱すこともない葉山が怒鳴るのを見たってこともあって、嫌な執着の仕方に思えた。

 とにかく、現状原因は不明だが手元にあるスクランブル交差点の写真は修正できない上に、そのまま修正なしで写真を展示するのも嫌だということで、結局撮り直すことに決めたらしい。葉山にも思うところはあったようで、撮り直しの時に暇なら渋谷までついてきてほしいと言い出した。気味が悪かったからだろう。その気持ちはわからんでもないので、俺は葉山に付き添うことにした。

 ちょうど渋谷には用事があったからそのついでに。


 他の連中はバイトなり課題なりで忙しく、都合がつかなかったから渋谷に行くのは結局俺と葉山の二人になった。


 スクランブル交差点に着いたのは昼の三時過ぎ。

 渋谷は相変わらず人が波のようにうごめいている。大きなモニターではアイドルが笑顔で歌とダンスを披露しているが、それに目を止める人間は一人もいない。九月の半ばは刺すような日差しと煮えるような暑さのピークは過ぎているものの、まだまだ日差しも強いし、暑い。

 俺と葉山は雑談しながら信号が何度も青から赤、赤から青に変わるのを繰り返し眺めた。雲がかかって、日差しが和らいだところを葉山は狙っていたからだ。あんまり季節感が強すぎる写真は撮りたくなかったらしい。そして葉山はちょうど良い光の塩梅になった瞬間、素早くスマホを構えて、撮った。


「うわっ……!?」


 急に葉山がスマホを取り落とした。

 真っ青になってそのまま突っ立って固まっているものだから、しょうがなく俺は葉山のスマホを拾って、そのとき画面を見たんだ。

 写ってたよ。キャップの男。でも辺りを見渡してもそれらしい奴はもうどこにもいなかった。

 ……嫌な感じだ。気色悪い。

 そう思っていたら、「悪い、芦屋。俺もう帰るよ」と、我に返ったらしい葉山が震える声で言う。

 俺の返事もろくに聞かず、葉山はスマホをひったくるように受け取って駅に走っていってしまった。


 一人取り残された俺はというと、やや途方に暮れていた。一応用事はあると言えばあるんだが、のんきに買い物するような気分でもなかったから、帰ろうかと思った途端に、後ろから声をかけられた。


「芦屋くん? なにボーッとしてるの?」


 聞き覚えのある声に振り向くと、月浪縁つきなみよすがが立っていた。


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