第58話 リベンジ

「田川くん、約束してたことと違うよ?」


 矢坂舞―想定外の人物の登場に、場は騒然としていた。宿泊用に押さえられている部屋とは少し離れたところにある救護室には、現在三人の人物が居合わせている。


 小夏の連れ戻しに失敗した晴樹を背後に、それを命令した舞を前にして、小夏は思わず冷や汗をかいた。桜色の髪をした不機嫌な少女は、部屋の奥で黙り込んでいる彼を見て、はぁとため息をつく。


「……まあ、いいや。こうなったら、私が引き留めればいいだけの話だよね」


 舞は小夏に視線を戻し、少しかがんで目線を合わせた。小夏はごくりと唾をのむと、後ずさりしそうな自分を奮い立たせる。


 もう昔には戻らないと彼女は決めていた。

 四人の契約関係を守るため、ここで引き下がるわけにはいかない。


「こんなことして、教師にばれたらどうするつもりだ」


「大丈夫だよ。拘束は解いちゃったみたいだし、小夏も体調が悪かったみたいですって言えば信じてもらえる」


「……私は口裏を合わせない、全て真実を伝える」


「意味ないよ。保健の先生、私のこと大好きだから。きっと私の言うこと聞いてくれる」


 何を言っても無駄だと言わんばかりに、舞は余裕そうな顔をしている。愉悦のにじんだその表情に、小夏は奥歯を食いしばった。


「ねえ、小夏。解放してほしい?」


 小夏の意思は無論、肯定。それが分かりきっている状況での質問に、小夏は眉をひそめた。


「別にいいよ。拘束するのは私も大変だし。……でもその代わり、勝ち負けに関係なく、小夏は私の側に戻って来てね」


「やっぱりそういうことか……」


 少し伏目がちにそう言った小夏を見て、舞はほんの少し口の端を引き上げた。


 きっと思い通りに行くと思っているのだろう。たしかに今までの小夏なら、舞に何かを言われるだけで縮こまってしまっていた。しかし、今の小夏は違う。


「でも、それはできない。私は舞の元には戻らないよ」


 まっすぐに舞を見つめる小夏。そこには何の戸惑いも恐れもない。今までとは少し違う小夏の顔つきに、舞は機嫌を損ねたようだった。舌打ちでもしかねない、機嫌の悪いオーラが滲む。


「じゃあ、昔のこと掘り起こしてもいいの? 私がせっかく水に流してあげようとしてるのに」


「……いいよ。舞が掘り起こしたいなら」


 舞の言わんとしていることは、もちろん分かる。二人が決別した、あの放課後のことだ。小夏が無感情な声で答えると、舞は顔を歪ませた。


「『友達じゃない』って小夏に言われて、私がどれだけ辛かったか分かる?」


「…………」


「ずっと信じてた親友に裏切られた、私の気持ちが小夏に分かる?」


「…………」


 余裕そうだった声はどんどん感情むき出しになっていった。悲痛な叫びともとれる舞の訴えに、小夏は口を開かない。ただ、潤んだ瞳から目を逸らさないようにするのは、いくらか心が痛かった。


「謝ってよ。私を傷つけたことを謝って、戻って来てよ」


 不機嫌だったはずの彼女の表情が、同情を誘うような愁いを帯びたものに変わる。それが舞の得意分野であることを、小夏は良く知っていた。その表情は計算ではなく、本心から出るもの。そう思えるからこそ、タチが悪いということも。


 しかし、小夏は頭を下げた。


「……ごめん。あの時は、私が悪かった」


 想定外の行動に、ずっと黙っていた晴樹も「……日向?」と声を漏らす。頭を下げられた方もほんの少し目を見開いていた。


 小夏は下げていた頭を少し上げ、うつむいたまま話を続けた。


「昔の私は、正直になれてなかった。舞に本音で向き合えてなかった」


「…………?」


「本当はずっと苦しかった。舞に何かを頼まれるのも、その度に「友達でしょ?」って言われることも、私には縛りにしか感じられなかった。舞が私を良いように利用しているようにしか思えなかった」


「……そんな、私は小夏を信頼して……」


「私は臆病で、自分の気持ちに正直になれなかった。嫌なことも嫌だって言えないで、ずるずる関係を続けて、舞の『友達』で居続けようとした。それはもしかしたら、舞を騙してたことになるのかもしれない」


「…………」


 舞がもし、本当に小夏のことを親友であると思ってくれていたのだとしたら、心の中で不信感を抱きながらも、友達のふりをしていた自分は最低だと小夏は思っていた。


「だから、私は言わないって決めてたんだ。心の中の不信感を、苦しい気持ちを全部隠し通すって。……なのに、私はそれを破った」


『友達なんかじゃない』―口からこぼれたその言葉は、慧の策略により促されたものの、まぎれもない小夏の本心だった。良いように扱われているようにしか思えない、その関係が友情による結びつきであるとは思えなかった。


「あの時、私は舞を傷つけた。悪かったのは私。……だから、ごめん」


 心の内の真実を隠すことしかできないのなら、それなりの覚悟を持って隠し通すべきだと、小夏は思っていた。隠し続けた想いは、外に出た瞬間に相手を傷つけるものになると分かっていたから。


「でも、ごめん。私はやっぱり舞の元には戻らない」


 きっぱりと言ってのけると、舞は「……なんで」と小さくこぼした。


「昔の私だったら、たぶん受けてたよ。でも、今は違う。私がここで折れたら、なくなっちゃう関係がある。私はそれを失いたくないから、それを守るためなら何でもできる」


「それって秋月達の関係?」


 舞の問いに、小夏は微笑んで頷いた。


「でも、それは契約上の関係じゃん。本当の友達じゃないじゃん」


「うん。でも、私がありのままでいられる。結構気に入ってるんだ」


 穏やかに笑う彼女を見て、舞は耐えられなくなったように、小夏の両肩を掴んだ。


「……でも、秋月は小夏の味方じゃないよ。小夏を呼び出す作戦も全部あの人が考えたんだ。小夏の望みとは反対のことをしてる。あの人は最初から契約関係を終わらせようとして……」


「わかってるよ」


 小夏は全部察していた。慧が不器用な人間だということも知っている。彼がこの契約関係を自身の憂さ晴らしに利用していたことも。


 その憂さ晴らしは、小夏の真意を確かめるものだと言うこともすべて。

 

「慧は、私の想いをよみ違えた。だから、この契約関係はあくまでも仮の居場所。慧はそういうつもりで私を誘ったんだ。……そして、それも全部私のせいだ」


「……小夏?」


 小夏は目に涙を浮かべていた。零れ落ちる大粒の涙をこらえながら、小夏は舞を抱きしめた。


「私、舞のこと嫌いになれなかった。……楽しかったんだ。上手くかみ合わなくなって、苦しかった時も、舞と一緒に過ごした楽しかった時間が私の中で消えなかった。だから、傷つけたくなくて、傷つけるのが怖くて、断ち切れなかった」


 舞とのしがらみに悩んでいたはずだった。それなのに、いざその関係がなくなって見れば、こみ上げてくるのは、寂しさと心に穴が開いたような喪失感だった。


「喧嘩別れみたいになって、あんな終わり方したくなかったって後悔した」


「なら、やっぱりやり直そうよ。私、本当はまだ、小夏と『友達』やめたなんて思ってないから。だから……!」


 小夏は涙を拭って、抱きしめていた手を離す。赤くなった目を向けた彼女は、静かに首を横に振った。


 ―慧に用意された決別じゃない。私は私の手で終わらせなかったことを後悔した。伝えたいことを伝えないまま、終わったことを悔やんでたんだ。


「……舞が思ってるような『友達』に、私はもう戻れない。戻りたくないんだ」


「……小夏」


「友達だから何言ってもいいとか、何頼んでも受け入れてくれるとか、そういう認識が舞にある限り、私は舞と『友達』には戻りたくない」


 小夏の言葉に、舞はふらふらと力なく座りこんだ。


「……っていうか、舞にはもういるじゃん。私よりも舞のことを分かってくれてる親友が」


 水上彩―彼女が舞の本性を知ったうえで上手くやっていることを知った時、そこにあったのは嫉妬というより、後悔だった。彼女のように舞と関われていたら、舞も小夏自身も傷つかずに済んだかもしれないという後悔。しかし、それは、たらればに過ぎないのだと小夏は割り切っていた。


 しゃがみこんで、顔を伏せたままの舞と目線を合わせる。いたずらな笑みを浮かべると、小夏は言った。


「私とやり直したいって本気で思ってるなら、まずは『彼氏』を大切にしな」


 舞がはっと顔を上げる。そして彼女は、後ろで驚いた顔をしている晴樹と目を合わせた。


「田川が昔の私と同じような顔をしている限り、私は舞とやり直すつもりはないよ」


 小夏はそう言って立ち上がると、部屋を出ようと歩き出した。


 すると、扉が少し開いているのが目に入る。何となく嫌な予感がして、思いっきり扉を開くと、ドンっという音と共に、見知った男子が二人が額を抑えながら倒れているのを見つけた。


「「……いっ」」


「お前ら……」


 その横では、しゃがんだ銀髪少女が目を丸くしてこちらを見上げている。聞き耳を立てていた、行儀の悪い知り合いにため息をつくと、小夏は言った。


「揃ってるなら早く行くぞ」

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