第53話 第二の小夏

「慧に何を吹き込まれた」


「………⁉」


 立場が逆転する。今度は晴樹が目を泳がせた。


「私が舞と離れたことを後悔している。だから、私を舞の元にひき戻せば、お前は苦しみから解放される、って感じか?」


「……何で秋月がでてくる」


「慧は今、憂さ晴らしの途中だからな」


 晴樹がよくわからないと言ったように首をかしげる。小夏は小さくため息をつくと、話を続けた。


「隣に水上さんがいても意味はない。それを一番痛感しているのは、お前だろ。その顔を見ていれば分かる。今の田川は昔の私みたいだ」


 戸惑う晴樹が顔を背ける。その間に、小夏は後ろに縛られた両手を解放してみせた。「数独も好きだけど、知恵の輪も好きなんだ」と彼女は独り言のようにつぶやく。自由の身になった小夏を見て、晴樹はさらに焦りを増しているようだった。


「あの舞のことだからな。お前は恐らく『見せかけの彼氏』ってところだろう」


「……何言って……」


「面倒な告白を防ぐための盾。いかにもあの人が言い出しそうな話だ」


 小夏はずっと舞が面倒な告白を断るための盾に使われていた。周りとのもめごとの中でも人気者の彼女は恋愛ごとのもめごとが多い。彼女がそれを一番嫌っていることも小夏は身をもって知っているつもりである。


 異性からの好意によく不快感を示していた彼女が、そう簡単に彼氏を作るとは思えなかった。もともと舞に好意を寄せていた田川は恐らく、その好意を彼女に利用されたのだろうと、小夏は推測を立てていた。


 クラスのカースト上位にいる晴樹が彼氏であれば、そうそう人は寄ってこない。つまり、彼は舞の求める人材として適していたのだ。


「お前は、『彼氏だから』って必要以上のことを押し付けられてるんじゃないか? 私が縛られていた時と同じように」


「……そんなこと」


「水上彩は舞の思い通りには動かない。その分、舞のわがままはお前に集中しているはずだ」


 小夏が言うと、晴樹の表情は凍り付いた。どうやら図星らしい。彼の心は今、嫌な思いがぐるぐると渦巻いているのだろう。


「田川はきっと私なんかよりもっと優しい人間だ。優しすぎるから、その分辛い思いをしてきたんじゃないか」


 優しくしても搾取されるだけ。分かっているのに相手をおもんばかって断ち切ることもできない。そんな無力な自分に悩む気持ちを、小夏は誰よりも分かっているつもりである。だからこそ、今の晴樹が求めていることもわかる気がした。


「私は彼女の本性を知ってるし、同じように悩んでいた。私には、お前の素直な気持ちを吐き出してもいいんだぞ」


 晴樹は恐らく、水上彩にも自分の想いを吐いたことはないのだろう。舞と上手く関われる彼女に何を言っても、自分のダメさを思い知らされるだけだから。


 小夏の言葉に、晴樹は力なく座り込んだ。


「……言い返そうとしてもできなかった。こっちが悪い気がしてしまうんだ。友達でしょ、とか。大事な彼氏だと思ってるのに、とか。そう言われるたびに何も言えなくなる。言えなくなって、言えない俺が悪いんだろうなって、また自分が嫌になる……」


 絞り出すような声に胸が締め付けられる。身に覚えがある想いだからこそ、小夏は返答選びに慎重になった。黙って頷く小夏に、晴樹は静かに続けた。


「……すまない、日向。俺、日向が戻ってくれば少しは楽になれるって思った。矢坂のわがままが向かう先が少しは分散するって思ったんだ」


 絞り出すような声に胸が痛む。小夏は「……いいよ。お前は悪くない」と言うと、ポケットからハンカチを取り出した。真っ青な顔に滲む汗をにそっと拭きとる。びっくりした表情の晴樹に、小夏は優しく微笑んだ。


「慣れないことをするから体調を崩したんだろう。今だって本当は万全じゃない。私を拘束してた紐だって、結び方が緩すぎだった」


「全然だめだな。……俺」


 ハンカチを受け取り、困ったように笑う晴樹。その姿に小夏は再び心が痛む。それでも、彼女は自分の思いを述べた。


「こちらこそごめん。でも、私は舞のとこには戻らないよ。無理に自分を変える必要はないって思える場所を見つけたんだ。それを守るために、私は負けるわけにはいかない」


 すっと立ち上がり、ドアの方へ向かう。晴樹は止めなかった。ただ、一つだけ静かに問う。


「その場所には秋月もいるのか」


「悔しいけど、私はあいつに救われたからな。不器用な奴だけど、自分の行動には責任を持ってるやつだから、お前のこともきっと何か考えてるんだと思うよ」


 晴樹は「……そっか」と言ったまま、まだ曇ったままの窓の外を見つめていた。


 彼の中には、未だ煮え切らない思いもあるのだろう。ただ、今の小夏が何を考えてもそれは杞憂でしかない。小夏は部屋を出ようと向きを変えた。


 しかし、そこで彼女は凍り付いてしまうこととなる。


「何してんの。田川くん」


 開いたドアに寄りかかっていたのは、不機嫌な顔で腕を組んでいる舞だった。

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