第39話 暗い影

 レクリエーションの時間が終わると、しばらくは自由時間だった。とはいえ、この時間に夕食と風呂を済ませておく必要がある。奏斗は慧と共にさっとそれらを済ませ、夜の勉強時間まで、慧に借りた国語の便覧を読んでいた。


 無論、それは明日のウォークラリーで出題される問題の対策をとるため。しかし、部屋で読んでいると、慧以外の生徒から理由を聞かれたり、物好きだなぁという目で見られてしまうため、奏斗はしばらくロビーに逃げていた。ソファーに腰かけ、便覧とにらめっこする。文学好きな奏斗であっても知らないことが多く載っていて、かなり興味深い。慧が『楽しむ』と言っていた意味が少しわかるような気がしていた。


 しかし、髪を乾かしてきたものの、湯上りでは少し肌寒い。湯冷めしては困るので、早めに部屋に戻ろうかと立ち上がる。すると、辺りをきょろきょろと見回している湯上り美人が目に入った。


「ふゆ? どうかした?」


「……奏斗くん」


 肩にかけた真っ白なタオルの上で、濡れた銀髪から雫が滴っている。いつも心配になるぐらいに真っ白な頬は、お風呂で温まったおかげかほんのり紅い。血色がよく、全体的に潤んで見える彼女は一段と目を引く美しさだった。


 ただ、それ以前に、いつも冷静な彼女にしては落ち着きがない。不安そうに辺りを見回していた。


「こなっちゃんが忘れ物を取りに戻ったのですが、帰りが遅いんです」


 ふゆは小夏と風呂に行った帰りだったという。途中で小夏が忘れ物に気づき、取りに戻ったがなかなか帰ってこない。小夏はとっさに、ロビーで待っていてくれと言ったらしいのだが、ついて行くべきだったかもしれないとふゆは悔いていた。


「途中で矢坂に絡まれたんでしょうか。それだったら、私はまた……」


 また……。そう言い淀んだふゆを見て、奏斗はその先に続く言葉を何となく察してしまう。


 ―昼間のこと、やっぱり責任感じてるのかもしれない


 舞に有利な情報を与え、リスクの大きい賭けを申し込まれてしまった。昼間にそれを慧に詰められても、ふゆは依然として冷静を保っていた。それでも、彼女は内心で自分の失敗を深く後悔していたのかもしれない。


 ふゆが後ろめたさを覚え続けていることは、この契約関係にとってもよろしくはない。少しのすれ違いが小さな溝を生み、それはどんどんと深さを増すのだ。


 それに、ふゆの脆さが垣間見えたのが、何だかいたたまれない。だが、奏斗が出来る対応はこれしかなかった。


「大丈夫だよ。何かあったら通知来るはずでしょ?」


 右腕の時計を見せる。すると、ふゆは小さく「……そうですね」とつぶやいて、手に持っていたトートバックの紐を握りしめた。


 その時、遠くから駆けてくる音がした。


「ふゆー、おまたせー。って、あれ。奏斗じゃん」


 振り返ると、小夏が息を切らせながら走ってきていた。特に変わった様子はなく、ただ、ふゆの隣に奏斗がいることに首をかしげていた。何はともあれ無事に帰ってきたので、先ほどまで不安そうだったふゆに、よかったなと視線を送ろうとする。


 しかし、奏斗が答える前にふゆは駆け出した。濡れた銀髪が雫を散らしながら、目の前を過ぎていく。


 そして、ふゆは自身のタオルで小夏の髪を覆うと、わしゃわしゃと撫で始めた。


「ふゆ? ……ちょ、わっ……」


「こなっちゃん。遅いです。早く乾かさないと風邪を引きますよ」


「……ごめんって」

 

 先ほどまでの沈んだ雰囲気をしまい込んで、ふゆはいつも通りの表情をしている。それでも、小夏が暗い表情で帰ってこなかったことに、ほっとしているのは横で見ていても伝わってきた。


 その様子に安堵して、奏斗はさりげなく自室に戻ることにした。


 *


 心配したと口では言わないものの、何となく伝わってくる。いつもは冷たいくらいにさっぱりとした態度のふゆから、そんな雰囲気が伝わって来て、小夏は何だかくすぐったい想いがした。


 だからこそ、言い出すことはできなかった。


 小夏にとある事件が起きていたことに―


 忘れ物を取りに行った小夏は、その途中で何者かに腕を引かれ、薄暗い物陰に連れ込まれていた。


 洗濯機がいくつか並んでいる部屋。合宿では基本的に使用しないため、電気が最低限しかついていない。

 

「何すんだ! ……って、なんだお前か」


 薄暗い部屋の中。相手の顔はよく見えないが、小夏は見知った顔を確認したようで、多少の平静さを取り戻す。相手は大声で騒がれなかったことに、ほんの少し安堵したようだった。おかげで小夏の腕を握った手が緩められる。


「私に何か用か。ってか、こんな手荒なまねしなくても普通に話せばよかっただろ」


 呆れたように小夏が言うと、相手はため息をついて静かに口を開いた。


「明日、俺の言うことに従ってくれ。そうすれば、悪いようにはしない」


 明日。それは、小夏には大事な勝負の日としてインプットされている。すぐに、彼が何のことを指しているのかがわかってしまった。


「従うってどういうことだよ。意味分かんない。急に何言って……」


「お前は、矢坂と一緒にいるべきだ」


「………⁉」


 困惑する小夏の言葉を遮ったその言葉は、小夏の胸を深くえぐる。


 信じられないといったように小夏が相手を見つめると、彼は少し大きな声で迫ってきた。掴まれた腕がさらにぎゅっと握られて、小夏は少し顔を歪めた。


「お前はきっと後悔している。矢坂との関係が切れたのは、お前が望んだ結果ではないんだろう」


 その言葉に小夏はほんの少し目を見開いた。その蜜柑色の瞳は左右に揺らいでいる。


「………そんなことない」


「これでよかったと無理やり思い込んだんだ。本当は断ち切れない想いだってあるのに」


「違う……! これは私の望んだことだ!」


 小夏が声を張り上げる。すると彼は複雑そうな顔でうつむき、そのまま低い声でつぶやいた。


「……まあいい。でも、明日は俺に従ってもらう。あと、俺が話したこと、他の奴には言うなよ。言ったらどうなるか分かってるな?」


「…………」


 小夏の腕が離されて、ぶらんと下に垂れる。小夏は茫然としたまま、しばらく考え込んでいた。

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