第28話 奏斗の戦い

 大音量の広告が一瞬沈黙し、会場がさらに暗転する。皆が3D眼鏡をかけ始めると、その後すぐに本編がスタートした。


 美しいグラフィックと大迫力の画面。緩急のある劇伴は、さらに感情を揺さぶらせてくる。映画の内容的には完全に当たりで、人気があるのも頷ける内容だった。


 だからこそ、奏斗は自身の貧弱な三半規管を恨んでいた。中盤まではなんとか耐えていたが、主人公が魔法道具で空を飛び始めてからは完全にアウトだった。若干、よろめく足でこっそりとシアターを抜け出し、広間にあるふんわりとしたベンチに座り込む。目を閉じて深呼吸し、平衡感覚を見失った内耳を元気づけた。


 ―目的は達成したわけだし、別に俺はこのまま抜けてても構わないよね


 まだ気分の悪さが残る中で、もう一度映画に戻ることは難しい。三人には悪いが、残してきたドリンクや軽食は終った後に持ってきてもらうことにする。


 背もたれに深く寄りかかり、もう一度深呼吸をする。目をつぶっても未だ体の芯がぐらぐらと揺らいでいるような感覚に、奏斗は大きなため息をついた。


 そんな時、ふと耳元で優しい声がした。


「……大丈夫ですか? 酷い顔してますよ?」


 驚いてよろめいた奏斗の視界に入ってきたのは、美しい銀髪少女。こちらを覗き込む彼女の唇は休日故か、いつもよりほんのり紅い。


「……っふゆ⁉ 何で?」


 声の主は、先ほどまで隣で映画を観ていたはずのふゆだった。奏斗は誰にも悟られないよう、ひっそりと席を立ったつもりだったのだが、さすがに隣に座る彼女には気付かれていたらしい。


「自分が乗り物酔いしやすいことを分かっていて、何でこの映画を見ることに異議を唱えなかったんですか?」


 そう言って、ふゆはペットボトルの水を手渡してくれた。手のひらから、ひんやりとした感覚が伝わって、ほんの少し気分が楽になる。


「バレてたんだ? 俺がこういう系のダメだってこと」


「バレバレです。先ほどは酔い止めを買いに行っていましたし、映画の前も落ち着かない様子でしたから。調達したばかりの酔い止めを飲んでいればよかったものを、その様子では忘れていたんですね」


「……はっ! その手があったか……」


 一番身近に最善策があったことを今になって思い出す。奏斗が、自身の抜けた考えを後悔していると、「やはり助言しておくべきでしたか」とふゆが呆れたように口にした。

 表情一つ変わらず、凛とした空気を常に纏っているふゆ。しかし、口にする言葉はたまにどこか暖かい。そんな彼女を前に奏斗は思わずつぶやいた。


「……ふゆって案外、気い使いなとこあるよね。めんどくさいこと嫌いだし、普段はかなりそっけないけど、実はちゃんと周りが見えてるっていうか……」


 さらっと口にした買い物内容を覚えていたり、表情の見えづらい奏斗の変化を察知していたり。今日だけでなく、こういうことは前にもよくあった気がする。


 奏斗的に、この発言は彼女を褒めたものだった。


 しかし、そうは伝わらなかったのかも知れない。口にして彼女の方に目をやろうとすると、その視界は一瞬にして塞がれた。肩をぐいっと引っ張られ、バランスが崩れる。勢いよく横たわったその先で、奏斗の頭は柔らかな感触に守られていた。


「……ふゆ? これはどういう……」


 はたからみれば、奏斗はふゆに膝枕を賜っている状況になっていた。美少女の膝枕。普通の男子高校生なら冷静ではいられない状況下。しかし、奏斗の場合は少し違っていた。


「……そんなことない、です。私は多分、冷たい人間ですから」


 塞がれた視界の隙間、一瞬見えた彼女の表情は明らかに戸惑いが滲んでいた。何か恐ろしいものでも見たような表情。普段、感情の起伏が感じられない彼女の取り乱した表情に、奏斗は思わず目を逸らしてしまった。


 たまに垣間見える意味ありげな表情。これはふゆに限った話ではないが、その理由を深追いすることは、この関係において適切ではないように思える。普通の友達であれば、どうしたのか、何かあったのかと問うこともできるのだろう。しかし、奏斗たちは違う。互いに必要以上に踏み込むことは許されていないのだ。


 奏斗はしばらくかける言葉が見つからなかった。ただ、視界を奪われたまま横になっているだけ。そうやって、時間が流れるのを待ちつつ、奏斗はようやく口を開いた。


「……ごめん。俺、変なこと言った。もうわかったから、この体制はやめに……。……って、グヘエッ」


 体を起こそうとして、軽く首を絞められる。奏斗はもう一度、柔らかな感触に包まれた。


「……まだ駄目です」


「え、でも……」


「気分が悪いんでしょう? なら横になるべきだと思います」


「じゃあ、俺は反対側に横になるから……」


「私の膝の上と、どこの誰かもわからない人間が何千人、何万人が座っていた椅子の上。どちらがお好みですか?」


「ふゆ。その比較はよくないって。それに、こういう場所はきっと、清掃員さんが毎日丁寧に清掃をして下さってるわけで……」


 意味もない会話を繰り返す。きっとふゆは取り乱した表情を見られたくないのだろう。しかし、そのことを考慮したとしても、奏斗にとってこの状況は避けたいもの以外の何物でもなかった。


 そうやって言い合っていると、頭上から低い声が降ってきた。


「お前たち。俺たちに荷物押し付けて何してんだ」


 見ると、顔をひきつらせた慧と小夏が両手に残った食料を抱えて立っている。どうやら、映画は終わったらしい。二人の姿を見て、奏斗は反射的に起き上がる。このときはふゆの妨害も入らなかった。


「……ごめん」


「すみません。ですが、奏斗さんの貧弱な三半規管を慰めていただけですのでご安心ください」


 ふゆが冷たく言い払う。どうやらいつもの彼女に戻ったらしい。奏斗はとりあえず安堵した。


「全く。こんな光景、クラスの奴らに見られたら大変だっただろうな。これ以上、ややこしい噂を立てるわけにはいかん」


 慧たちは、途中で離席した奏斗たちを気にかけて、エンドロールが始まってすぐに席を立ってきたらしい。例のクラスメイト達がエンドロールを最後まで見る派だったのが救いであった。

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