第12話 宿屋

 アントニアがペーターと離れで掃除と慰問の事を話してから数日後、数人の下女がやって来て離れを掃除してくれた。もちろん、彼女達には本来の役目もあるし、15年分の汚れを1日で綺麗にできる訳もなく、1週間程かけてやっと離れは綺麗になった。


 アントニアには彼女達にお礼にあげられる物がなくて心苦しく、言葉だけでもと思ってお礼を言ったが、彼女達は『お礼はペーターさんからいただいてますので』と素っ気なく答え、なぜかとげとげしい視線を返してきた。その後、アントニアは慰問の準備で忙しく、下女達の不思議な態度もすぐに忘れた。


 アントニアは、孤児院に寄付するため、絵本やその他の本、平民の子供が着るような洋服と靴、シーツなどのリネン類、普段使いの紅茶、お菓子や果物など多種多様な物をペーターに用意してもらった。彼女は裁縫はできないが、刺繍は得意なので、ペーターに頼んで刺繍の道具と糸、無地のハンカチを用意してもらい、毎日コツコツとハンカチに刺繍を施していった。


 慰問3日前の早朝、アントニアは馬車の中に乗り込み、ペーターは御者台に乗って公爵邸を出発した。馬車の中はアントニアの座る場所以外、寄付品でいっぱいで、それどころか馬車の屋根の上にも荷物を積んでいた。


 御者台と馬車の中では意思の疎通ができず、アントニアは道中ペーターと会話できないことはわかっていたので、本を持って読むつもりだったが、文字が揺れて見えて気分が悪くなりそうになり、窓から外を眺めることにした。アントニアは、それまで長距離を馬車に乗ったことがなかったので、馬車の中で本を読んだことはなく、そこまで読みづらいとは予想していなかった。


 車窓から見える家や畑は、荒れている様子はなく、きちんと管理されているようで、公爵領はそれなりに栄えているように見えた。


 途中の街での宿泊は、夫婦を偽装していることもあって1部屋になったが、ペーターはソファで眠った。2日目の宿では申し訳なくて自分がソファで寝るとアントニアは言ったが、ペーターが強硬に主張して1日目と同じになった。


 出発から3日目の夕方、アントニアとペーターは修道院まで馬車で1時間ほどの所にある小さな村に到着した。その村は修道院から一番近い集落だが、貴族が保養に来たり、豪商が大きな商売にしに来たりするような場所ではないので、質素な宿屋が1軒あるだけだ。1階は宿泊の受付もする食堂になっていて2階に客室が数室ある。宿屋の敷地の裏手には、客のための馬車置き場と馬小屋が隣り合わせで建っていて、扉に鍵がかかるようになっているが、他の客のスペースとの間に壁などの境はない。


 アントニアは宿屋の正面で下車し、ペーターは馬車置き場と馬小屋に馬車と馬を置きに行った。馬車置き場と馬小屋は両方ともアントニア達以外使っておらず、がらんどうだった。


 ペーターが宿屋の正面に戻って来て、アントニアと一緒に宿屋の1階の食堂に入って行くと、おかみさんが2人を迎えた。


「いらっしゃいませ。辺境伯閣下のご親戚のご夫婦ですね?粗末な宿で申し訳ありません。お部屋はご夫婦で1部屋でよろしいですよね?」


 その言葉を聞いたアントニアは、ペーターがまたソファで眠るのは申し訳ないと思い、どう言い訳して2部屋を希望するか逡巡した。だがアントニアが口を開く前に彼女の表情を察したペーターがおかみさんに頼んだ。


「すみませんが、私のいびきがうるさくて妻が眠れなくなってしまうので、部屋は別にして下さい」

「それが……申し訳ありませんが、で1部屋しか空いてないのです」

「そうですか……仕方ないよね、いいかな?」

「え、ええ……」


 満室では仕方なく、アントニアは了承するしかなかった。


 案内されて入った客室には、粗末な木の寝台が1台、それにナイトテーブルと言ってよいのかわからないような小さな台が寝台の横にあるだけだった。寝台は寝相がよければ2人並んで寝られるような幅はあったが、辺境伯家の離れにあるアントニアの古びた寝台のほうが広い。


「アントニア様、申し訳ありません。私は床に寝ますから、寝台をお使い下さい」

「でも……マットも寝具もないのに背中が痛くなるでしょう?風邪もひくかもしれませんわ」

「ならアントニア様と抱き合って寝台で寝てもいいですか?」

「だっ、抱き合って?!」

「ククククク……冗談ですよ。もう1枚掛布をもらってきて床で寝ます」

「でも床に敷くものは?」

「せっかく持ってきた物を汚して申し訳ないのですが、馬車からシーツを持ってきます」

「でもそれでは硬くて背中が痛くなりますわ!」

「1晩ぐらい大丈夫です」

「でも……」

「そんなこと言っていると、寝台でアントニア様と一緒に寝て、初夜の儀の時のようにグズグズに愛撫してあげますよ」

「なっ……?!」

「冗談が過ぎました。申し訳ありません。おかみさんに掛布をもらいに食堂に行ってきます」


 そう言ってペーターは扉を開けて部屋を出て行った。途端に部屋が静かになり、満室だと言う割に話声も物音も聞こえないのがアントニアには不思議に思えた。この部屋の壁や扉はとてもじゃないが、隣の部屋の声も物音も通さないぐらい頑丈で厚いようには見えないし、そもそもこんな質素な宿屋の設備がそんなにしっかりしていると期待するのは無理な要求だ。


 ペーターは、まもなく掛布とシーツを手に部屋に戻ってきた。


「少し早いかもしれませんが、明日も朝早いですし、下の食堂で夕食にしましょうか?」


 アントニアはペーターの提案に頷いた。

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