第7話 彰





今日は、僕達は非常に不安定でした。まず、朝から夜までを、簡単に追いましょう。


まず、朝起きた時から、時子の調子はとても悪く、夫が家を出る時にも頻りに寂しがっていました。


それで、昼過ぎになっても不安が治まらなかった時子を見ていて、表に出てきた桔梗が、睡眠導入剤を飲んでしまったのです。


桔梗にも考えがあり、「こんな状態でこの子を起こしておくよりは、早く寝かせた方が良い」と思ったようでした。


でも、服薬時刻が早過ぎたため、薬が上手く効かず、夕方あたりに、また時子が目覚めます。


時子は、自分がすでに睡眠導入剤を飲んだ後だと知る由もなく、起きた直後の習慣として、珈琲を飲んでしまいました。


その後、なんとなく不安定で、漠然と恐怖を抱えながら、時子は眠り、僕に交代します。


僕はなんとかして布団で目を閉じていて、数時間の仮眠をしました。これは、その後の話です。



夫が帰宅してからは、しばらく時子は目覚めていました。


でも、途中から時子はまた眠り、「五樹」、「桔梗」、「彰」、「悠」の順番で目覚めます。


僕は夫君と他愛のない無駄話をして、桔梗はイヤホンでモーツァルトのレクイエムを聴きながら、紅茶を飲みました。


桔梗は、僕が時子の心配をする度に、いつも「必要ない」と切り捨てます。今晩はこんな風に言いました。


“私達は確かにこの子を理解してあげられるけど、この子は正しい自己理解を持っていないから、いくら理解した事を話して聞かせても、平行線”


“それに、カウンセリングに通い続けられさえすれば、もう後は良くなるだけ。私達に対話が必要だとは、私は思わない”


言ってしまえばそれまで、といった感じがします。でも、桔梗の言う事は正しい。


何も僕達が手を出さなくとも、この子はもう回復し始めています。今晩、またそれが証明されました。



桔梗が引っ込んでから、改めて目が覚めた時子は、時子ではなく、「彰」でした。


彰は、テーブルにうつ伏せた状態から頭を上げながら、目の前を睨みつけ、苛立たしく唸るようなため息をつきました。


「目が覚めたのは、本当に久しぶりだ…」


彰は、一年ほど前にカウンセリングルームで出てきたのが、最後でした。


この子の夫はその時、時子の前の席に座っていて、「どうやらまた時子じゃないらしいぞ」位には分かっていたようでした。


彰は、怒っていました。怒りの人格だからです。


奴は腹立たしそうに、こう言います。


「アンタも、俺が誰だろうと、どうでもいいんだろ」


「まあ、そうなるね」


夫君がどんな意味合いでそう答えたのかは、僕には分かりません。彰はその返事をさして気にしていないようでした。


「どうせ俺が何を考えていようと、誰だってどうでもいいんだ」


「どうして?」


彰は、俯いて横を向きました。


「俺は、憎いんだよ」


時子の柔らかな、高く澄んだ声が、憎々しげに歪められ、低く震えていました。


「お母さんを殺したいのかい?」


彰は、前に「あの女を殺してやりたい」と、時子の母親について口にした事がありました。彰は、強い強い、怒りの人格であり、時子が封印した殺意でもあったのかもしれません。


「それもある。でもそれだけじゃない」


つまらなそうに片手を振ってから、彰はまた俯いていました。


「俺は…憎いんだ」


「お母さんが?」


そう言われて、彰はすぐさま時子の夫を睨みつけ、大声でこう言い放ちます。


「この世の全員さ!誰一人、この子が苦しんでたのに、何もしなかったじゃないか!」


「それは、まあ…」


彰は止まらずこう続けました。


「小さな子供が一人で苦しんでたのに…!誰も手を出さなかった…!」


時子の夫は、どうしてやったらいいのか分からなかったでしょう。でも、こう言ってくれました。


「誰しも、自分が一番可愛いものだからね」


時子の夫は、彰の意見を責めませんでしたし、彰の言う「全人類」に代わっての釈明もしませんでした。


それから、時子の夫は彰を、時子をちらっと見てにへへと笑い、こう言いました。


「でも、俺は結構頑張ってると思うけど?」


「まあ、だから、アンタには怒らないよ…」


そう言ってから、彰は眠りました。



時子にとっては、自分の中に、「私を見捨てた全人類を許さない」などという気持ちがあるなんて、思いもよらない事でしょう。


彼女はいつも人を愛し、自分よりも目の前の誰かを優先していて、それが自分の満足なんだと信じています。


でもそれは、自分勝手な母親の機嫌をいつも気にして、母親の意見だけを優先させていた頃があったから。


母親を亡き者にして、自由を勝ち取りたい気持ちがあっても、彼女は優しいから出来なかった。


自分の苦難を、周りの大人が見て見ぬふりをしていた事に不満があったのに、“お母さんを前にしたら、大人だって怖いはず”と、進んで気持ちを汲んで、誰も恨まなかった。


「彰」は、そんな風に、時子に存在を否定された「怒り」です。でもそれを、今晩時子は口から出して、夫に伝えた。表現し始めたのです。


これは大きな進歩だと思います。


彰は、時子が安全に生きていくため、隠れた所で生きてきた。もし母親の前で時子が怒ったりすれば、暴力でやり返されるだけだったから。


でも、もうその必要はなく、自分は安全なんだと、時子自身が感じてくれている。だから、表に感情を出し始めた。僕はそう見ています。


もう朝になってしまったので、軽く何かを食べてから、もう一度眠れないか、やってみます。


長々とお読み頂き、有難うございました。気が向きましたら、またお寄り下さい。





つづく

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